1968年に「サンミュージック」を創業すると、森田健作さん、野村将希さんをブレイクさせ、その後も、桜田淳子さん、松田聖子さん、早見優さん、岡田有希子さん、酒井法子さんらをブレイクさせ、現在の「サンミュージック」の礎を築き上げた、相澤秀禎(あいざわ ひでよし)さん。
今回は、そんな相澤秀禎さんの、若い頃(「サン・ミュージック」創業以降)から死去までの経歴を時系列でご紹介します。

「相澤秀禎が若い頃はミュージシャンを辞めマネージャーに専念していた!」からの続き
相澤秀禎は38歳の時に「サンミュージックプロダクション」を創業
西郷輝彦さんと決別し、「日盛プロダクション」を辞めた相澤秀禎さんは、1968年11月27日には、新宿の三光町で芸能事務所「サンミュージックプロダクション」を創業したそうですが、
この日はちょうど、「サンミュージックプロダクション」所属タレント第1号である森田健作さんの主演映画「夕月」がクランクインした記念すべき日でもあったといいます。
「サンミュージック」という社名の由来は?
また、社名の「サンミュージックプロダクション」は、
相澤秀禎さんが森田健作さんのことを、
太陽のように明るい奴だ
と、評していたことから、「サン」、
相澤秀禎さん自身が元ミュージシャンであったことから、「ミュージック」で、
「サンミュージック」と名付けたのだそうです。

森田健作さん(左)と相澤秀禎さん(右)。
相澤秀禎が41歳の時に森田健作が大ブレイク
さておき、1969年、映画「夕月」の役名「森田健作」をそのまま芸名としてデビューした森田健作さんは、
1971年には、学園青春ドラマ「俺は男だ!」で主演を務めると、相澤秀禎さんの思惑通り、主題歌とともに大ヒットを記録し、俳優、歌手として不動の人気を確立しています。

「俺は男だ!」より。右が森田健作さん。
相澤秀禎が40歳の時に野村将希の「一度だけなら」が大ヒット
また、相澤秀禎さんは、今度は、新宿の靴屋で靴磨きのアルバイトをしていた、笑顔が印象的だったという、野村将希(野村真樹)さんをスカウトしているのですが、
野村将希さんは、1970年6月5日、「一度だけなら」でアイドル歌手デビューすると、いきなり大ヒットとなり、「第12回日本レコード大賞新人賞」「第1回日本歌謡大賞放送音楽新人賞」「第3回日本有線大賞新人賞」などの栄えある賞を総なめにするほか、同年末には「第21回NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たしています。

「一度だけなら」
ちなみに、「サンミュージック」は、立ち上げた当初は資金がなく、事務所は6畳1間で、ダイレクトメールを出すための便箋や封筒は、松竹にもらい、長距離電話をする際には、レコード会社に行った時に電話を借りていたそうですが、
森田健作さんや野村将希さんのブレイクにより、事務所を移転することができたのだそうです。
(森田健作さんは1日に1000通ものファンレターが届くようになり、6畳1間の事務所は足の踏み場に困るほどだったそうです)
相澤秀禎が44歳の時に桜田淳子が大ブレイク
そんな「サンミュージック」は、当初は、男性歌手や俳優をメインに活動していたそうですが、大きな転換期となったのが桜田淳子さんとの出会いだったそうで、
1972年、桜田淳子さんが、オーディション番組「スター誕生!」において圧倒的な存在感でグランドチャンピオンに輝くと、決勝大会では、番組史上最多となる25社もの芸能事務所から獲得希望のプラカードが上がるという、空前絶後の争奪戦が繰り広げられたそうですが、
各社による交渉が、後楽園ホール下の中華料理店で「1社3分、金銭の話は禁止」という厳格なルールの下で行われ、多くの事務所が好条件を提示する中、見事、「サンミュージック」が桜田淳子さんを獲得し、
1973年2月25日、ファーストシングル「天使も夢みる」で桜田淳子さんをアイドル歌手デビューさせると、同年には、日本レコード大賞最優秀新人賞を獲得し、

「天使も夢みる」
1974年12月5日にリリースした8枚目のシングル「はじめての出来事」は、52.7万枚を売り上げる大ヒットを記録して、オリコンチャート1位に輝くなど、桜田淳子さんは、またたく間にトップスターに。
これに伴い、「サンミュージック」も大きな飛躍を遂げたのでした。

「はじめての出来事」
ちなみに、桜田淳子さんが、数ある強豪事務所の中から「サンミュージック」を選んだのは、
元専務の福田時雄さん(現・名誉顧問)が発した、
森田健作の妹役があるかもしれない
という一言が決め手だったといいます。
(桜田淳子さんは、森田健作さんの大ファンだったそうです)
また、桜田淳子さんは、当初、お父さんから芸能界に入ることを猛反対されていたそうですが、
相澤秀禎さんが、
私が責任を持って育てます
と言って、お父さんを説得したといいます。
(相澤秀禎さんは、桜田淳子さんを自宅に住まわせたそうです)
相澤秀禎が49歳の時に牧村三枝子が大ブレイク
また、相澤秀禎さんは、1970年代後半には、子役出身の香坂みゆきさんをスカウトすると、香坂みゆきさんは、女優に歌手にと人気を博すも、それ以降、「サンミュージック」は、なかなか、次なるスターを発掘できないでいたそうですが、
そんな中、1979年、所属していた演歌歌手の牧村三枝子さんが、シングル「みちづれ」をリリースすると(渡哲也さんのカバー曲)、98万という売り上げを記録する大ヒットとなっています。

「みちづれ」
ちなみに、カバーが話題になったことで、本家である渡哲也さんのレコードも売れ始め、やがては、逆に牧村三枝子さんの売り上げが伸び悩んでいたそうですが、
牧村三枝子さんが1972年のデビュー以来ヒットに恵まれず、8年もの間、下積みを続けていたことを知った渡哲也さんが、
俺は役者だから別に売れなくていい。あの子は8年も苦労してきたんだから
と言って、自身のレコードの出荷を停止させたそうで、
この渡哲也さんの配慮により、牧村三枝子さんの「みちづれ」は、その後、売上を伸ばしたそうで、ついに、牧村三枝さんもスターダムを駆け上がったのでした。
相澤秀禎が50歳の時に松田聖子が大ブレイク
さらに、この1979年には、17歳の女子高生・蒲池法子(後の松田聖子)さんが、「サンミュージック」にオーディションを受けにきていたそうで、
当初、相澤秀禎さんは、他のアーティストとの兼ね合いから、蒲池法子さんの獲得に難色を示していたそうですが、蒲池法子さんの歌声を聴いてピンとくるものを感じ、蒲池法子さんと契約し、1980年4月1日、「松田聖子」として「裸足の季節」でデビューさせると、

「裸足の季節」
同年7月1日リリースの2曲目のシングル「青い珊瑚礁」が爆発的なヒットを記録し、松田聖子さんは、たちまち、トップアイドルの座へと上り詰めています。

「青い珊瑚礁」
相澤秀禎は、早見優、岡田有希子、酒井法子も獲得し育てていた
そんな相澤秀禎さんは、その後も、1982年には、早見優さん、1983年には、岡田有希子さん、1986年には、酒井法子さんなど次世代の女性アイドルの発掘に成功して、「女性アイドルといえばサンミュージック」と言われるようになり、1980年代半ばには、芸能界において不動の地位を確立したのでした。
ちなみに、相澤秀禎さんは、新人タレントを自身の自宅2階に下宿させ、食事を共にするなど、私生活から家族同然に接し、タレントである前に一人の人間としての”土台”を重視し、礼儀作法から徹底的に教育を施したそうですが、
そこには、「家族関係こそが人づくりの基本」という考えがあったそうで、預かったタレントを実の子供のように育てることで、離れて暮らす親御さんを安心させる狙いもあったといいます。
(相澤秀禎さんは、その後も、安達祐実さん、ベッキーさん、カンニング竹山さん、塚本高史さんなど、様々なジャンルのタレントを売り出し、成功を収めています)
相澤秀禎は72歳の時「サンミュージック」の会長に就任
そんな相澤秀禎さんも、2004年12月、74歳の時には、「サンミュージック」の社長の座を長男の相澤正久さんに譲り、自身は会長に就任しているのですが、
生涯マネージャーを標榜し、毎年春と秋には、全国にある「サンミュージックアカデミー校」で行われるオーディションに出向き、新人の発掘に力を注ぎ続けていたといいます。
ただ、その一方で、1986年には、岡田有希子さんが自殺、1989年には、松田聖子さんが独立、1992年には、桜田淳子さんが統一教会の合同結婚式に参加したことで芸能活動休止、2009年には、酒井法子さんが覚せい剤取締法違反(所持)で起訴されるなど、気苦労も絶えなかったといいます。
(2009年9月、酒井法子さんが覚せい剤取締法違反(所持)の罪で起訴された際には、責任を取る形で会長を辞任して、相談役に退くも、2010年10月には、会長に復帰しています)
相澤秀禎の死因は?
しかし、そんな相澤秀禎さんも、2012年11月、82歳の時、東京都内の病院で受けた定期検査で、膵臓(すいぞう)と肝臓にガンが見つかり、以降、入退院を繰り返していたそうで、
2013年3月25日、再入院すると、同年5月23日午後10時27分、膵臓ガンにより、入院先の都内の病院で83歳で他界されています。
相澤秀禎の通夜には、森田健作、ベッキー、桜田淳子、松田聖子、酒井法子、和田アキ子ら著名人が数多く参列していた
そして、同年(2013年)5月28日には、相澤秀禎さんの通夜が東京・青山葬儀場でしめやかに営まれたそうですが、
会場には、事務所の礎を築いた森田健作さんをはじめ、ベッキーさん、桜田淳子さんといった所属タレントのほか、かつて籍を置いていた松田聖子さんや酒井法子さん、生前親交の深かった和田アキ子さんなど、多くの著名人が参列したそうで、
1968年、「サンミュージック」設立時、タレント第1号として相澤秀禎さんと歩み始めた森田健作さんは、声を詰まらせながら、
ここに来るのがつらかった。思い出はいっぱいあるけど、いい時も悪い時も・・・
政治の世界に入ったときかな、『笑顔で元気で頑張れば必ず道は開ける』と。それが心の支えになった。本当に素晴らしい方だった。来世もぜひ会いたい。一緒に仕事がしたい。本当に出会えて感謝です。
(あす弔辞も控えているが)本当にお別れの言葉はもう言うことがない。二言三言お話させていただきたい
ベッキーさんは、
13歳の時、出会った日のことや、病室での優しい笑顔、いろいろなことを思い出しました。太陽みたいな方で明るくて、サンミュージックの中で一番えらい人なのに一番近い存在。かわいらしいメールもたくさんいただきました
お見舞いにも何度も行って、(最後の日は)私がもっと病室にいたいといったら『ダメダメ、ベッキーは仕事でしょう』って。『また来ていいですか』といったらすごく大きな声で笑ってくれました
一番うれしかった言葉は『ベッキーは大丈夫だから』って。大丈夫の中に愛が詰まっていて、自信がない時も力になりました。会長さんは私の笑顔を好きでいてくれたので、笑顔を大切にしてきたい
と、その死を悼んでいます。
(そのほかにも、中村メイコさん、牧村三枝子さん、都はるみさん、太田光代さん、生島ヒロシさん、多岐川華子さん、高木ブーさん、加藤和也さん、渡哲也さん、神田沙也加さんほか多数の著名人が参列したそうです)
また、告別式では、バンドマン時代から親交が深かった堀威夫さん、相澤秀禎さんの一番弟子だった西郷輝彦さん、「サンミュージック」タレント第1号の森田健作さんが、順番に弔辞を読んだのでした。
相澤秀禎の著書
それでは、最後に、相澤秀禎さんの著書をご紹介しましょう。
著書(単著)
- 「松田聖子のバランスシート―女として、社員として」(1983年、光文社)
- 「聖子のシンデレラ・ロード:”育ての親”が明かす素顔・歌・結婚」(1985年、光文社)
- 「聖子の恋のありったけ 松田聖子「バージンロードへの2200日」」(1985年、講談社)
- 「愛ゆえに、聖子!」(1986年、講談社)
- 「オーディション合格必勝法 これだけ知ったらキミもアイドル」(1990年、音楽専科社)
- 「アイドル工房 夢のつむぎ方」(1995年、スコラ)
- 「人気づくりの法則」(1998年、東洋経済新報社)
- 「人生に拍手を!」(2007年、講談社)
著書(共著)
- 「タレントデビュー最強運のつかみ方」(2001年、ごま書房)※奥久津まるもさんとの共著
などの著書を出版しています。
「相澤秀禎と松田聖子の絆が泣ける!下宿生活から絶縁&和解!最期の別れは?」に続く
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