1979年、「ソニー・ミュージック」の若松宗雄ディレクターから熱心な推薦を受けて、まだ17歳だった松田聖子さんを獲得すると、自宅に下宿させ、実の娘のように手塩にかけて育て上げ、トップアイドルに押し上げたという、相澤秀禎(あいざわ ひでよし)さんですが、

1989年、突然、松田聖子さんから、アメリカ進出のため独立したい旨の申し出を受けたといいます。

今回は、相澤秀禎さんと松田聖子さんの出会い、松田聖子さんを頂点まで押し上げた経緯、松田聖子さんとの絶縁&和解、そして、再び松田聖子さんを全盛期のように輝かせるための計画を練っていたことなどをご紹介します。

相澤秀禎と松田聖子

「相澤秀禎の若い頃(サンミュージック以降)から死去までの経歴は?著書は?」からの続き

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相澤秀禎は松田聖子を推薦されるも当初は乗り気ではなかった

1979年、牧村三枝子さんの「みちづれ」が98万枚の大ヒットを記録していた頃、17歳の女子高生・蒲池法子(後の松田聖子)さんが、オーディションを受けに「サンミュージック」にやって来たといいます。

実は、松田聖子さんは、前年の「ミス・セブンティーンコンテスト」九州地区大会で優勝し、また、レコード会社のオーディションにも合格していたそうで、

「ソニー・ミュージック」の若松宗雄ディレクターから熱心な推薦を受け、相澤秀禎さんは、松田聖子さんに会うことになったそうですが、相澤秀禎さんは、当初、あまり乗り気ではなかったといいます。

相澤秀禎は松田聖子の歌声を聴いて才能を感じていた

というのも、1980年春には、同じ「ソニー」から、酒井政利ディレクターが手掛ける別の新人歌手のデビューがすでに決まっていたそうで、事務所からは、

同じレコード会社から同時期に二人のデビューは難しい

という声があったのだそうです。

ただ、相澤秀禎さんは、松田聖子さんの歌声を聴いて、才能を感じたそうで、

これならいける

と確信し、松田聖子さん獲得のために動き始めたといいます。

相澤秀禎は松田聖子に高校を卒業してから上京するように伝えていた

しかし、今度は、松田聖子さんのお父さんが、娘の芸能界入りに猛反対。

そこで、相澤秀禎さんが、お父さんを説得するため、専務の福田時雄さん(後の名誉顧問)に福岡の久留米にある松田聖子さんの実家に行かせたそうですが、

福田時雄さんによると、松田聖子さんは、福田時雄さんに紅茶を出した後も、お盆を手に板の間に正座したまま、お父さんが許してくれるまで一歩も動かなかったそうで、

この話を聞いた相澤秀禎さんは感心し、

松田聖子さんに、

高校を卒業してからいらっしゃい

と伝え、1980年秋のデビューを想定したのだそうです。

相澤秀禎はデビュー前の松田聖子を自宅に下宿させていた

ところが、松田聖子さんは、待ちきれず、1979年の夏休みにたった一人で上京してくると、

高校はやめてきました。先生にもちゃんと話してわかってもらいましたから

と言って、相澤秀禎さんにデビューを懇願したそうで、

相澤秀禎さんは、仕方なく、松田聖子さんを自宅に下宿させることにしたのだそうです。

相澤秀禎は松田聖子の強い意志に惹かれていた

ただ、もともと、松田聖子さんの歌声に才能を見出していた相澤秀禎さんは、

毎朝5時半に起きて、ぼくと一緒に走るんです。走りながらいろんな会話をする。タレントとしての心構えや一般常識、マナーから人とのかかわり方まで、何でも思いついたことを話す。

途中、鎮守さまに寄って手を合わせるんですが、聖子は“毎日、誰よりも厳しいレッスンを積んで努力します”と声に出して言っていましたね

と、語っており、

やがて、何が何でも歌手になりたいという松田聖子さんの強い意志に惹かれていったそうで、

そんな中、もともと予定していた別の新人歌手が、1980年2月、CMでのタイアップでデビューする予定だったところ、商品の事情からCM自体が延期になったことから、

松田聖子さんのデビューを繰り上げ、同年4月1日に1stシングル「裸足の季節」でデビューさせ、同年7月1日には2ndシングル「青い珊瑚礁」をリリースすると、爆発的な大ヒット。

実は、同年3月7日に、山口百恵さんが三浦友和さんとの婚約を発表し、10月限りでの引退を表明しており、松田聖子さんは、見事、このタイミングで、「ポスト山口百恵」の座を射止めたのでした。

(もし、松田聖子さんの上京が、予定通りだったなら、今の松田聖子さんはいなかったかもしれません)

相澤秀禎は松田聖子をスキャンダルから守り抜いていた

その後も、松田聖子さんは、次々とヒットを飛ばして歌謡界で数々の金字塔を打ち立て、トップアイドルの地位を確立していたのですが、その一方で、奔放な私生活が注目を集めることも少なくなく、

1989年2月には、ニューヨークのホテルで松田聖子さんが近藤真彦さんと密会していたことが、写真週刊誌にスクープされてしまいます。

そこで、相澤秀禎さんは、すぐに渡米し、このスキャンダルを最小限に食い止めるために奔走すると、

女性週刊誌の記者からの直撃取材に対して、

コメントは言えない。雑誌を見てから判断したい

何を掲載するのも、自由だけれど、ウチはタレントを守るのが仕事だ。そちらも商売だろうけどタレントを潰してしまうような出し方だけは考えてほしい

と、対応し、

あえて、力ずくで記事を差し止めるのではなく、記者の”理性”に訴えかけたそうで、

当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった松田聖子さんのネタは、週刊誌にとって最大の売り物だったのですが、相澤秀禎さんの切実な訴えが届いたのか、結果、その記事が世間を過度に騒がせるような大きな騒動に発展することはなかったのだそうです。

相澤秀禎は松田聖子の独立に深い失望と寂しさを感じていた

しかし、そんな中、同年、松田聖子さんは、「サンミュージック」を辞めて、独立したいと言いだしたといいます。

というのも、レコード会社が松田聖子さんをアメリカで本格デビューさせようとする動きに、相澤秀禎さんがどうしても賛同できなかったそうで、松田聖子さんは、「サンミュージック」から独立する道を選んだのだそうです。

すると、松田聖子さんは、世間から、「育ての親を裏切った」と批判を浴びることとなったのですが、

相澤秀禎さんは、その時のことを、

アメリカ進出を決断した彼女は、当時、何度も僕に電話をくれていました。けど、僕も若かったんですね。どうしても、その電話に出れませんでした。

その後、ひとりになった彼女の、いろんなうわさを聞くにつけ、『せめて、あの時、あの電話に出ていれば・・・』と悔やみました

彼女は何度も電話をくれたんです。でも、ぼくは出なかった・・・。悪いなって思ったけど、出なかった。それがずーっと、いつまでも心に引っ掛かっていたんです

などと、語っており、

実の娘のように手塩にかけて育てた松田聖子さんが独立することに、言葉では言い表せられないほどの失望と寂しさを感じていたのだそうです。

相澤秀禎は松田聖子と17年間絶縁状態もディナーショーに招待されて和解していた

それから、相澤秀禎さんと松田聖子さんは、長い間、絶縁状態にあったそうですが、

2006年12月、相澤秀禎さんが、知り合いに頼まれ、松田聖子さんのディナーショーのチケットを取ることになったそうで、気まずい思いで、松田聖子さんのマネージャーに連絡を入れると、

マネージャーからは、

本人が相澤さんに“ディナーショーに来てください”と言っている

と、思わぬ言葉が返ってきたといいます。

ただ、松田聖子さんとは袂(たもと)を分けてから17年という歳月が経っていたことから、素直に喜べず、重い足取りでディナーショーに赴くと、席につき、複雑な思いでステージを見つめていたのだそうです。

すると、松田聖子さんが、ショーの最中、

今夜、デビュー当時からお世話になってきた事務所の会長さんが、この会場に来てくださいました。会長さんがいたからこそ、私も26年、頑張ることができました

と挨拶し、観客から割れんばかりの拍手が巻き起こったそうで、

相澤秀禎さんは、長年、胸につかえていたわだかまりがすーっと溶けていったのだそうです。

そして、ディナーショーの終演後、楽屋に駆けつけると、松田聖子さんは、相澤秀禎さんを見るやすぐに大粒の涙をこぼしたそうで、

相澤秀禎さんも、17年間、何度も鳴る松田聖子さんからの電話に出なかったことを、ただただ、謝りたくて、

ごめんな、聖子

としか言うことができず、

相澤秀禎さんと松田聖子さんは、そのまま抱き合い、和解したのだそうです。

相澤秀禎は松田聖子を全盛期のように輝かせることが人生の目標となっていた

そして、翌年の2007年には、相澤秀禎さん率いる「サンミュージック」と松田聖子さんが18年ぶりに業務提携を結ぶことになったそうで、

相澤秀禎さんは、そのことについて、

彼女が提携を提案してきたのは、彼女自身も現状に満足していなくて、打破したいと考えているからだと思うんだ。

彼女と再び仕事ができるというのは、僕にとって本当にうれしいこと。もう一度全盛期のように彼女を輝かせたいし、そのためのアイデアもいろいろ考えている

と、語っています。

こうして、相澤秀禎さんは、松田聖子さんを全盛期のような至高の輝きを取り戻させるための再生計画を練り始めると、2011年頃には、週刊誌の記者に、

今度、僕と聖子と2人でアルバムを作ろうと考えているんだ

と、目を輝かせて語っていたそうで、

それが、相澤秀禎さんの人生において、大きな目標となっていたといいます。

ただ、レコード会社や松田聖子さんの所属事務所との兼ね合いもあったようで、計画は思うように進まず、その願いが形になる前に、2013年5月23日、相澤秀禎さんは他界。

松田聖子さんをもう一度、誰よりも輝かせたいという夢は、果たせなかったのでした。

相澤秀禎の通夜で松田聖子は棺にすがりつき号泣していた

そして、2013年5月28日、相澤秀禎さんの通夜がしめやかに営まれると、松田聖子さんは、娘の神田沙也加さんとともに参列したそうで、

「青い珊瑚礁」が流れる中、相澤秀禎さんの息子で「サンミュージック」の社長・相澤正久さんに促されて、祭壇の前に進み、相澤秀禎さんの遺体と対面を果たすと、声を震わせ、その場に泣き崩れたといいます。

また、関係者の話によると、松田聖子さんは、棺にすがりつくように、遺体に向かって泣きながら、何度も何度も語りかけていたそうで、隣にいた神田沙也加さんもまた、泣きじゃくっていたといいます。

松田聖子と神田沙也加
相澤秀禎さんの遺体を前に号泣する松田聖子さん(左)と神田沙也加さん(右)。

そんな松田聖子さんは、

今にも会長が起きてきそうです。懐かしいし、寂しい・・・

と、絞り出すような声でもらしていたそうで、

(松田聖子さんは、相澤秀禎さんの奥さんに声をかける際も、涙が止まらなかったといいます)

通夜を終え、帰り際に報道陣から「何と声をかけましたか?」と問われた際には、目を潤ませながら、

ありがとうございました、と言いました

と語り、3度深く頭を下げたといいます。

(この日は、松田聖子さんの母・一子さんも参列しており、松田聖子さんは、親子三代で相澤秀禎さんと最期の別れをしたのでした)

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松田聖子は相澤秀禎が他界する1週間前に見舞いに訪れていた

そんな松田聖子さんは、2013年12月10日に放送された特番「独占!昭和芸能界の真実 アイドル発掘王・相澤秀禎~泣いて笑った人生最後の10日間~」に出演しているのですが、

相澤秀禎さんが亡くなる1週間前に、相澤秀禎さんのお見舞いに行ったことを明かし、

相澤会長がお元気になっていただかないとがんばれないので、と言いました。そしたら『うん、元気になるよ』って。本当に優しくて、まだ亡くなった気はしない

と、涙ながらに、相澤秀禎さんを偲んでいます。

一人の少女・松田聖子さんがトップスターへと駆け上がる姿を一番近くで見守ってきた相澤秀禎さんですが、その最期に、松田聖子さんの心からの涙と感謝の言葉を受け、幸せだったに違いありません。

「相澤秀禎は岡田有希子の本当の自殺理由を知るも遺書を金庫に封印していた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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