1968年、小さな芸能事務所「サンミュージック」をスタートさせると、その後、数多くのトップアイドルを世に送り出してきた、相澤秀禎(あいざわ ひでよし)さんは、1983年には、「スター誕生!」の決勝大会で合格した岡田有希子さんを獲得し、トップアイドルに押し上げているのですが、
岡田有希子さんは、人気絶頂の1986年4月8日、突然、自ら命を断っています。
今回は、相澤秀禎さんと岡田有希子さんの出会い、岡田有希子さんの遺書に記されていたとされた名前、「石原プロモーション」を巡る噂、金庫に封印された真実、そして、相澤秀禎さんが生涯抱き続けたという深い後悔の念を、相澤秀禎さんの視点からご紹介します。

「相澤秀禎と松田聖子の絆が泣ける!下宿生活から絶縁&和解!最期の別れは?」からの続き
相澤秀禎は福田時雄の熱心な推薦により岡田有希子を獲得していた
岡田有希子さんは、1982年、中学2年生の時、人気オーディション番組「スター誕生!」に応募すると、翌年、名古屋地区予選に出場しているのですが、
(当時の予選システムは、客席のスカウトマンたちが「良い」と思った瞬間に手元のボタンを押し、規定数に達すれば合格という形式だったそうです)
その際、審査に立ち会った「サンミュージック」の福田時雄さん(後に名誉顧問)は、
彼女が出てきた途端、直感的に『いい!』と思いボタンを押しました。それどころか、周囲の担当者にも『ほら、早くボタンを押して!』と促して回ったほどです。かつてのスター、桜田淳子さんに通じる圧倒的なオーラを彼女から感じたのです
と、語っており、
岡田有希子さんの登場した瞬間に衝撃を受けたといいます。
そんな岡田有希子さんは、予選に合格したそうですが、学校の先生や両親が芸能界入りに猛反対し、本戦(決戦大会)への出場は絶望的な状況だったといいます。
しかし、岡田有希子さんは諦めず、「本戦出場を認める条件」として、
- 学内テストで学年1位をとること
- 地方統一模試で学年5位以内に入ること
- 地元トップの進学校(向陽高校)に合格すること
という、非常に高いハードルの約束を両親と交わすと、見事、すべてクリア。
(この岡田有希子さんの凄まじい根性に、福田時雄さんも「本当に真面目な努力家だった」と舌を巻いたそうです)
こうして、1983年3月30日、「スター誕生!」の第46回決勝大会に出場した岡田有希子さんは、中森明菜さんの「スローモーション」を歌い、見事、合格したそうで、晴れて、「サンミュージック」に所属したのだそうです。
(ただ、岡田有希子さんが本戦で合格した後も、「サンミュージック」内では、別のスタッフが推薦していた千葉県選出の別の候補者と、どちらの新人を採用するかで意見が割れていたそうで、福田時雄さんの熱意が通って、岡田有希子さんの所属が決定したのだそうです)
相澤秀禎はデビュー前の岡田有希子を自宅に下宿させていた
そして、相澤秀禎さんは、他の所属タレント同様、岡田有希子さんも自宅の2階に下宿させて、日課だった毎朝のジョギングに岡田有希子さんを誘い、芸能界での心構え、一般常識、マナー、人との関わり方などを教えたそうですが、
相澤秀禎さんは、岡田有希子さんのことを、
全く手のかからない子だった
と、語っています。
(相澤秀禎さんは、いつも、所属したタレントは、高校を卒業するまで自宅に下宿させていたのですが、かねてより、「大切なお子さんを親御さんから預かるのだから」と話しており、そこには、「最も多感な時期だからこそ、寝起きを共にすることで、芸能人である前に一人の人間としての常識を学ばせたい」という親心があったといいます)

岡田有希子さんと相澤秀禎さん。
相澤秀禎は岡田有希子をトップアイドルに押し上げていた
さておき、岡田有希子さんは、1984年4月21日、ファーストシングル「ファースト・デイト」で歌手デビューすると、1986年にリリースした8枚目のシングル「くちびるNetwork」がオリコンチャートで初登場1位となる大ヒットを記録し、
たちまち、「ポスト松田聖子」として、トップアイドルの座に上り詰めます。
そして、同年3月、高校を卒業し、4月4日には、それまで下宿していた相澤秀禎さんの自宅を出て、念願の一人暮らしを始めたそうですが・・・
岡田有希子は自宅マンションでリストカット&ガス自殺を図るも一命を取り留めていた
そのわずか4日後の4月8日午前10時頃、外出中だった相澤秀禎さんのもとに、「岡田有希子さんが自宅マンションでリストカットを行い、ガス自殺を図った」という報せが入ったといいます。
ただ、幸い、この時は、異変に気づいた住人の通報で、岡田有希子さんは、一命を取り留め、北青山病院に搬送されており、
相澤秀禎さんは、すぐに、専務の福田時雄さんに、
有希子が大変だ。北青山病院に迎えにすぐ行ってくれ
と、電話を入れたそうで、
その後、岡田有希子さんは、福田時雄さんに付き添われて、「サンミュージック」の本社事務所に戻り、福田時雄さんと付き人の女性とともに、6階の社長室で休んだのだそうです。
相澤秀禎は岡田有希子の日記風のノート(遺書)を見つけ真実を知っていた
ただ、福田時雄さんが、相澤秀禎さんと電話で打ち合わせをするため、社長室を離れ、隣室へ移動すると、そのわずかな隙に、岡田有希子さんは屋上へと駆け上がり、そのまま帰らぬ人となってしまったそうで、
(相澤秀禎さんが事務所に戻った時には、ビルの下は騒然としていたそうです)
相澤秀禎さんは、
私に叱られるのが嫌で、屋上に行ってしまったのか
と、自分を責めたそうです。
しかし、その後まもなく、相澤秀禎さんは、岡田有希子さんが残した一冊の日記風のノート(遺書)を見つけ、真実を知ることになったといいます。
相澤秀禎は岡田有希子の自殺理由は「峰岸徹への叶うことのない片思い」と語っていた
ちなみに、報道では、俳優の峰岸徹さんの名前が遺書にあったとして、岡田有希子さんの自殺は、峰岸徹さんとの交際が原因ではないかと取り沙汰され、
峰岸徹さんは、記者会見を開き、交際を否定しながらも、
正直、ものすごくショックです。僕は兄貴のつもりでいたんですが、彼女はそれ以上のプラスアルファがあったのかもしれない。
と、言葉をつまらせているのですが、
相澤秀禎さんは、
彼(峰岸徹さん)を絶対に許さない
と、周囲に語っていたといいます。
また、相澤秀禎さんは、後に、インタビューで、
僕が歯医者から戻ると事務所のビルの下が大騒ぎ。有希子が飛び降り自殺したんです。僕を待っている間、朝の自殺騒動について僕に何か言われるのがいやで、屋上に言って飛び降りたんだと思ったんです。
ところが、彼女が残していた1冊の日記風のノートが発見されて、それを読んで自殺の真相が理解できました。有希子は峰岸さんに恋焦がれて、プラトニックな愛を持ち続けて、自殺したんです。
と、峰岸徹さんへの叶うことのない片思いが、岡田有希子さんの自殺の原因だったと語っています。
相澤秀禎は岡田有希子の本当の自殺理由(真実)を生涯守り抜いていた
しかし、その一方で、記者の間では、
峰岸徹さんは、誰かをかばっているのではないか?
との噂も絶えず、
岡田有希子さんの本当の相手は、峰岸徹さんではなく、岡田有希子さんの先輩である松田聖子さんの夫・神田正輝さんで、
1986年4月7日の松田聖子さんの妊娠発表にショックを受けた岡田有希子さんが死を選んだことに対し、「石原プロモーション」の石原裕次郎さんが、愛弟子のスキャンダルを避けるため、峰岸徹さんにカモフラージュを頼んだのではないかというのです。
ただ、芸能界の巨大な力関係が渦巻く中、相澤秀禎さんは、岡田有希子さんのノートを社長室の金庫に封印し、生涯大切に管理し続けたそうで、
酒の席で親しい記者からどれほど追及されても、
その話はやめてくれ
の一点張りで、
ついには、何も語らぬまま2013年に他界されたのでした。
また、相澤秀禎さんの他界後、一部公開されたノートには、「あなた」という言葉はあったものの、特定の名前は伏せられており、
岡田有希子さん、峰岸徹さん、石原裕次郎さん、相澤秀禎さんと、関係者がみな他界された今、岡田有希子さんが最後に誰を想い、何に絶望したのか、真相は藪の中です。
相澤秀禎は岡田有希子の父親の言葉に救われるも、生涯、後悔の念が消えなかった
ちなみに、岡田有希子さんが自ら命を絶ったわずか1時間後、相澤秀禎さんは、断腸の思いで、記者会見に臨んだそうですが、
葬儀の際には、岡田有希子さんのお父さんが、
(岡田有希子さんは)短い人生でしたが、人生を凝縮したような幸せな子でした
と、言ってくれたそうで、
この言葉に救われたといいます。
とはいえ、心のどこかでは「もしあの時」という後悔が消えることはなかったといいます。
というのも、岡田有希子さんは、亡くなる1ヶ月前、楽屋で2人で打ち合わせをしていると、ふと、何か話したいことがあるような、甘えたそぶりで寄り添ってきたそうですが、
(これまでそんなことは一度もなかったそうですが)相澤秀禎さんは、つい、避けてしまったのだそうです。
そして、その後、4月5日(自殺する3日前)には、4月3日に一人暮らしを始めたばかりの岡田有希子さんが、自宅に訪ねてきて、一緒に夕食を食べたそうですが、
その際、岡田有希子さんがなんとなく元気がなかったことから、
相澤秀禎さんが、
お前がこれからうちの会社を背負って行くんだから、頑張らなきゃだめだよ
と、励ますと、
岡田有希子さんは、
私なんかもう、ダメだから、後にいい子(酒井法子さんのこと)がいるじゃない
と、言ったそうで、
(酒井法子さんは、岡田有希子さんの使っていた部屋に入れ替わりで入ってきたそうです)
相澤秀禎さんは、この時のことを、インタビューで、
後から思えば、何か話したくて来たんだろうけど、気づいてあげられなかった
と、語っており、
親身に相談に乗ってあげられなかった自分を責め、悔やみ続けていたのだそうです。
この後悔から、相澤秀禎さんは、二度と同じ過ちを繰り返さないと、以降、所属タレントに対して、「どうしたの?」「どうしてる?」など、愛情のこもった問いかけを絶やさないことを誓ったほか、
それまで、所属タレントの写真は事務所の部屋に飾らなかった相澤秀禎さんでしたが、岡田有希子さんが亡くなった後、岡田有希子さんのサインと笑顔の写真パネルだけは掛け続け、
手帳には、いつも岡田有希子さんの写真を忍ばせ、毎朝、出社すると、必ず写真に挨拶をしてから業務を始めていたのだそうです。

「相澤秀禎は酒井法子を薬物逮捕で解雇するも執行猶予後のことを考えていた!」に続く
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