松田聖子さん、岡田有希子さん、酒井法子さんなどのスーパーアイドルを数多く世に送り出し、日本のエンターテイメント業界を牽引してきた、相澤秀禎(あいざわ ひでよし)さんですが、
そんな相澤秀禎さんは、進駐軍が多く駐留する横須賀市内で誕生したそうで、終戦から間もない15歳の時、進駐軍のラジオから流れるカントリー・ウエスタン・ミュージックに魅了されてスティールギターを始め、17歳の時には、横須賀市の武山の陸軍キャンプや進駐軍専用のビアホールなどで演奏活動を始めると、大学在学中には、バンド「ジミー・アンド・テネシー・ハニーズ」(後の「ウエスタン・キャラバン」)を結成し、各地の米軍キャンプを巡りを始めたといいます。
今回は、相澤秀禎さんの幼少期(生い立ち)からバンド「ウエスタン・キャラバン」時代までを時系列でご紹介します。

相澤秀禎のプロフィール
相澤秀禎さんは、1930年1月20日生まれ、
神奈川県横須賀市の出身、
学歴は、
三浦学苑高等学校
⇒法政大学専門部政治経済学科卒業
本名は、「相澤與四郎(あいざわ よしろう)」で、当初は、「相澤芳郎」名義で活動していたそうですが、姓名判断により、「相澤秀禎」と名乗るようになったそうです。
相澤秀禎は小中学生の頃から古賀政男の曲を見様見真似でギターで弾いていた
相澤秀禎さんは、横須賀市内で金物商を営むお父さんの相澤定吉さんのもと、四男(末っ子)として誕生すると、幼い頃は、「ドブ板通り」と呼ばれる、日本とアメリカの文化が混ざり合う、異国情緒溢れる商店街を庭のようにして育ったそうです。
また、相澤秀禎さんは、戦時中だった小中学生の頃から音楽が好きで、古賀政男さんの曲を見様見真似でギターで弾いていたそうです。
相澤秀禎は15歳の時に初めてカントリー・ウエスタン・ミュージックを聴き魅了されていた
そんな中、1945年、15歳の時に終戦を迎えると、横須賀に進駐軍が駐留するようになったそうですが、相澤秀禎さんは、進駐軍ラジオ「WVTR」から流れるカントリー・ウエスタン・ミュージックを聴いて魅了されたそうで、
特に、毎週土曜日に放送される「ウエスタン・ジャンボリー」はラジオの前にかじりついて聴いたそうです。
相澤秀禎は15歳の時にスティールギターを始めていた
また、「ドブ板通り」にある街で唯一の楽器店「山口楽器」にもしょっちゅう通うようになったそうで、そこで、スティールギターに出会うと、お姉さんに頼み込んでお金を借り、スティールギターを買ったそうですが、
借金を返済するため(米兵たちとも仲良くなったこともあり)、米軍基地でフリゲート艦のエンジンを洗うアルバイトを始め、そのアルバイトの合間に、自ら売り込んで米兵を前に演奏するようになったそうです。
相澤秀禎は15歳の時にハワイアンバンドを結成すると17歳の時には卓越したプロデュース能力を発揮していた
そして、やがては、二橋良彦さんらとハワイアンバンドを結成し、バンド活動をするようになったそうですが、
(まだ無名だった美空ひばりさんのバックで演奏したこともあったそうです)
相澤秀禎さんは、この頃からすでに卓越したプロデュース能力を発揮していたそうで、
米兵を相手に演奏するには英語の歌唱が不可欠だと考え、「山口楽器」で知り合った海兵隊員のロスティ・リチャードさんをボーカルとしてスカウトし、17歳の時、横須賀市の武山の陸軍キャンプや進駐軍専用のビアホールなどで、
ディス・イズ・ナンバーワン・ジャパニース・バンド!
と、精一杯の虚勢を張りながら、米兵たちの前で演奏すると、
相澤秀禎さんのバンドは、横須賀界隈で評判となったのだそうです。
(そんな中、陸軍で歓迎されることをリサーチ済だった「マウンテン・ソング」という曲を披露した時には、割れんばかりの拍手に包まれたそうで、その瞬間、相澤秀禎さんは、お腹の底から熱くなるような深い感動を味わったそうです)
相澤秀禎は大学在学中にバンド「ジミー・アンド・テネシー・ハニーズ」を結成し横須賀市内の米軍キャンプ巡りをしていた
そんな相澤秀禎さんは、高校卒業後は、法政大学専門部政治経済学科に進学したそうですが、
大学在学中も、バンド「ジミー・アンド・テネシー・ハニーズ」を結成し、ここでもスティールギターを担当したそうで、各地の米軍キャンプを巡り、演奏活動をするようになったそうです。

ジミー・アンド・テネシー・ハニーズ」時代の相澤秀禎さん(右端)。
相澤秀禎は24歳の時、バスを購入しアメリカ人が好むペイントをして米軍キャンプで有名になっていた
そして、大学卒業後は、プロのミュージシャンとして活動することを決意すると、横須賀市内だけではなく、他のキャンプも回ってみたいと思うようになったそうですが、
自家用車を購入したところで、全員乗れる訳もなく、移動手段がなくて困っていたといいます。
(この頃、バンド名を、「ジミー・アンド・テネシー・ハニーズ」から「相澤芳郎とウエスタン・キャラバン」に改名しています)
そこで、相澤秀禎さんは、たまたま、お兄さんがバス会社に勤めていたこともあり、バスを購入することを思いついたそうで、
1954年、24歳の時、お兄さんから、廃車になったバスを12万円で購入して、車のボディはアメリカ人が好きなグリーンに塗り、そこに「WESTERN CARAVAN」とバンド名を書いて、ニコニコしながらベースを弾くキャラクターを描くと、
このバスはすぐに評判になり、米軍キャンプにそのバスで乗りつけるだけで、米兵は大喜びし、最初から前のめりで自分たちの演奏を聴いてくれるようになったそうで、
「ウエスタン・キャラバン」は、横須賀周辺の基地で誰もが知る存在となったのだそうです。

右端が相澤秀禎さん。
相澤秀禎は27歳の時に自身の実力を確信し上京を決意していた
そんな中、1957年、27歳の時、自分たちの実力を確信した相澤秀禎さんは、
いよいよ機は熟した
上京するなら今しかない!
と、上京を決意したそうで、
さっそく、メンバーが共同生活をするための家を東京・大崎に借りたのだそうです。
相澤秀禎は27歳の時、銀座のジャズ喫茶「テネシー」への出演を果たしていた
そして、上京後、渡邊美佐さん(後に渡辺プロダクション副社長)の両親が経営する「マナセプロダクション」と契約すると、ついに、「ウエスタン・キャラバン」は、念願だった銀座のジャズ喫茶「テネシー」への出演が決まったのだそうです。
ちなみに、ある日の演奏後、相澤秀禎さんが一服していると、「テネシー」のママがやって来て、
ここに音楽を聴きに来ているお客さんたちはね、一杯80円のコーヒー代で、幸せを買いに来てるの。相澤さん、わたしたちの仕事は、幸福を売る商売と言えるわね
と、言ったそうですが、
相澤秀禎さんは、この言葉に強い感銘を受け、
金銭だけが目的なら、他にも効率のいい仕事はある。しかし、音楽には人の心を動かし、聴く人を幸せにする力があるはずだ
と、気づいたそうで、
自分たちの仕事は、夢を売ることなのだ
と確信したのだそうです。

「相澤秀禎が若い頃はミュージシャンを辞めマネージャーに専念していた!」に続く
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1957年、27歳の時、上京し、バンド「ウエスタン・キャラバン」として、「マナセプロダクション」と契約した、相澤秀禎(あいざわ ひでよし)さんは、ミュージシャンとしてスティール・ギターを演奏しつつ、マネージャーとしても活 …







