1985年、「’86 ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」に出場していた酒井法子さんに才能を感じ、急遽、特別に賞を作って、酒井法子さんを「サンミュージック」に所属させたという、相澤秀禎(あいざわ ひでよし)さんは、
これまでのタレント同様に、自宅に下宿させると、複雑な家庭環境で育った酒井法子さんのために本当の家族になろうと心を砕いたそうですが、
酒井法子さんは、2009年8月に覚醒剤取締法違反(所持)で逮捕され、起訴されると、同年11月には、東京地方裁判所から懲役1年6か月、執行猶予3年の有罪判決を受けています。
今回は、相澤秀禎さんと酒井法子さんの実の親子さながらの深い絆が伺えるエピソードや、相澤秀禎さんの通夜での酒井法子さんのコメントなどをご紹介します。

「相澤秀禎は岡田有希子の本当の自殺理由を知るも遺書を金庫に封印していた!」からの続き
相澤秀禎は酒井法子の才能に惹かれ、急遽、特別に賞を作っていた
酒井法子さんは、14歳の時、1985年10月に開催された「’86 ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」の九州地区予選を通過すると、
中野サンプラザで行われた本選(最終オーディション)の特技審査では、落語「寿限無」を披露するも、グランプリを受賞することはできなかったそうですが、
相澤秀禎さんは、酒井法子さんの才能を惜しみ、急遽、特別に「BOMB!賞」という賞を作って、「サンミュージック」に所属させたそうです。
相澤秀禎は酒井法子を自宅に下宿させ本当の家族のような関係を築こうと心を砕いていた
こうして、同年12月、酒井法子さんが地元福岡から上京して来ると、相澤秀禎さんは、他の所属タレント同様に、酒井法子さんを自宅に下宿させ、芸能界のイロハを教えたそうですが、
酒井法子さんは、幼い頃から、母親が3人にいて、異母兄弟もいるほか、住まいも転々とする、複雑な家庭環境で育ったそうで、そのせいか(人間関係に苦労していたのか)、とにかく、周囲の人に気を遣う少女だったそうで、
相澤秀禎さんは、
みんなでファミリーになって、本音を言える関係を築こう!
と、心を砕いたといいます。
相澤秀禎は酒井法子の父親の葬儀委員長を務め、押し寄せるマスコミから酒井法子を守っていた
その後、酒井法子さんは、1987年2月5日、ファーストシングル「男のコになりたい」でアイドル歌手デビューすると、以降、「のりピーマン」のキャラや、「マンモスうれピー」などの”のりピー語”などで、たちまち、トップアイドルの座に上り詰めるのですが、
絶大な人気を博す一方で、1989年、18歳の時には、お父さんが交通事故で他界するという大きな悲しみも経験していたといいます。
また、実は、お父さんの事故死は”怪死”ではないかとの憶測も飛び交っていたそうで、マスコミが、酒井法子さんのコメントを求めて、押し寄せていたそうですが、
葬儀委員長も務めた相澤秀禎さんが対応し、酒井法子さんを守り続けたといいます。
相澤秀禎は酒井法子が失踪後、自殺を心配してすぐに捜索願を出し記者会見も開いていた
そんな酒井法子さんも、1998年には、結婚して子供も生まれ、公私ともに幸せになったと思われていたのですが・・・
2009年8月3日、酒井法子さんの夫(当時)が路上で覚醒剤を隠し持っていたところを現行犯逮捕されます。
また、一緒にいた酒井法子さんも、警視庁渋谷警察署から任意同行を求められたそうですが、
酒井法子さんは、
子供がいるので、後で行きます
と、署員に告げると、知人男性の車で現場から立ち去り、その後、都内の別の知人に、子供を預けた後、失踪してしまったそうで、
これを知った相澤秀禎さんは、岡田有希子さんのこともあり、酒井法子さんが自殺でも選んだら・・・と、ひどく心配し、すぐに捜索願を出したそうです。
また、相澤秀禎さんは、すぐに記者会見も開いたそうですが、
この時は、とにかく、酒井法子さんに、
なにも心配しないで戻っておいで
と、呼びかけることしかできなかったそうです。
相澤秀禎は酒井法子に裏切られたと感じていた
すると、酒井法子さんは、失踪してから6日後の2009年8月8日、自ら警視庁に出頭して逮捕され、同年8月28日、覚醒剤取締法違反(所持)で起訴されているのですが、
これを受け、相澤秀禎さんは、酒井法子さんとのマネジメント契約を解除すると、同日(8月28日)、記者会見を開き、断腸の思いで、酒井法子さんを解雇したことを明かし、
会長(相澤秀禎さん)も裏切られたと言う気持ちはどこかにある?
との質問に対しては、
はい。裏切られた気持ちと、何でこうなったのかなと。でもいまこういう風な彼女の形になって、廃人になる前にもっともっと自分のことを考えて、更生してほしいなと思います。
と、語っています。
また、相澤秀禎さんは、
判決後に手をさしのべることはない?
との質問にも、
現在は、さしのべる気持ちはありません。
と、きっぱりと答えたのでした。

酒井法子さんが起訴されたことを受け、記者会見を開いた、相澤正久社長(左)と相澤秀禎さん(右)。
相澤秀禎は酒井法子が執行猶予後、福祉大学への入学を勧めていた
とはいえ、相澤秀禎さんは、酒井法子さんが執行猶予を終えた後の道筋をずっと考えていたといいます。
そして、さすがに、すぐに芸能界に復帰するのは難しいと思い、酒井法子さんには、福祉関係の大学への入学を勧めたそうで、
酒井法子さんは、2009年10月26日に行われた初公判で、
覚醒剤を完全に断ち切り、介護の勉強をしたい
と、語っているのですが、
相澤秀禎さんは、手記を通して、
法子は自分の「道」を見つけたが、それは決して平坦ではない。むしろ、茨の道であり、立ち止まったり後退することもあるだろう。そんなときは真っ先に相談してほしい
と、エールを送っています。
(酒井法子さんは、同年11月9日、覚せい剤取締法違反で東京地方裁判所から懲役1年6か月、執行猶予3年の有罪判決を受けると、検察側、弁護側ともに控訴せず、刑が確定しています)
相澤秀禎の通夜での酒井法子のコメントは?
しかし、そんな相澤秀禎さんも、2013年5月23日には他界。
そして、同年5月28日には、通夜が営まれ、大勢の著名人が弔問に訪れる中、酒井法子さんも訪れると、
酒井法子さんは、
私が14歳のまだ子どものころからひとつ屋根の下で一緒にご飯を食べて、おはようからおやすみまで一緒だった
サンミュージックの名前の通り、太陽みたいな偉大な方だった
と、語るほか、
最後に相澤秀禎さんと会ったのは3年前、相澤秀禎さんの体調が悪化していることを知ったのは死去の1週間ほど前で、病院へお見舞いに行くことを希望するも、相澤秀禎さんの体調が思わしくなかったため、断念したこと、
そして、相澤正久社長(相澤秀禎さんの息子)から、
法子が手紙を書いてくれたら枕元で読むからな
との伝言を聞き、
一日でも早く元気になって、太陽のような温かい笑顔でお会いしたい
と、手紙に書いたこと、
(この手紙は、関係者が、相澤秀禎さんが亡くなる2日前の21日に届けたそうです)
また、2009年の薬物事件後も、相澤秀禎さんから、
法子、頑張れ。大丈夫だから
と、声をかけてもらったことを明かしており、
頑張れと優しく言って見守ってくださって。こんなに悪いと知らなかったので本当に寂しいです。長生きしてほしかったです
今日も夢だったらいいのになって思う。本当に迷惑ばかり掛けて何のご恩返しもできなくて・・・
恥ずかしくないように一生懸命生きたいと思います。次にまた会えるときがあったら一生懸命生きましたという言葉を伝えられるようにしたい
と、涙ながらに語っています。
予定に続く
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