遊び仲間だった田邊昭知さんからゲストボーカルに誘われ、「田邊昭知とザ・スパイダース」に加入すると、やがて、「田邊昭知とザ・スパイダース」を、”日本でどこよりも早くビートルズの新曲を演奏するバンド”に押し上げた、かまやつひろしさんは、
その後、1stシングル「フリフリ」を作詞作曲するなどして、一部の熱狂的な洋楽ファンからはライブで支持されるのですが、大衆的な大ヒットには至らなかったといいます。
そんな中、「田邊昭知とザ・スパイダース」は、メンバーの意向とは違う形で大ブレイクするのですが、今回は、かまやつひろしさんの視点で「ザ・スパイダース」ご紹介します。

「【画像】かまやつひろしの若い頃(ロカビリー歌手時代)は全く売れなかった!」からの続き
かまやつひろしは22歳の時「田邊昭知とザ・スパイダース」のゲストボーカルとなると、その後正式メンバーとなっていた
「日劇ウエスタンカーニバル」では、”三人ひろし”として脚光を浴びるも、ヒット曲がなく、新人扱いだったというかまやつひろしさんは、将来が見えない中、音楽活動を続けていたそうですが、
1961年頃、「田邊昭知とザ・スパイダース」を結成したばかりだった田邊昭知さんに誘われ、「田邊昭知とザ・スパイダース」のゲストボーカルとして出演するようになったそうです。
(かまやつひろしさんは、田邊昭知さんは、もともと、一緒に悪ふざけをするような遊び仲間だったそうで、堀威夫さん、田邊昭知さん、守屋浩さんの3人が設立した「堀プロダクション(現・ホリプロ)」に所属していたそうです)
ただ、「田邊昭知とザ・スパイダース」は、ロカビリー、モダンジャズやシャンソン、歌謡曲など、ジャンルを問わず、何でも演奏するも、バックバンドをやるくらいしか、目玉となるような仕事がなかったそうで、
やがて、かまやつひろしさんは、そんな現状を打破するためメンバーを一新することにした田邊昭知さんから、その才能と人柄を買われ、メンバー探しを依頼されたといいます。
すると、「田邊昭知とザ・スパイダース」は、徐々にメンバーが集まり、1964年2月頃には、かまやつひろしさんも、ゲストボーカルから正式メンバーとなったそうで、
最終的には、「田邊昭知とザ・スパイダース」は、田邊昭知さん(ドラムス)、かまやつひろしさん(ギター、ボーカル)、大野克夫さん(キーボード)、加藤充さん(ベース)、堺正章さん(ボーカル)、井上堯之さん(ボーカル)、井上順さん(ボーカル)の7人のメンバーとなったのだそうです。
かまやつひろしは25歳の時、「ビートルズ」の「ミート・ザ・ビートルズ」を偶然見つけ衝撃を受けていた
そんな中、かまやつひろしさんは、1964年4月頃、「渡辺プロダクション」が入っている三信ビル1階にあった、輸入雑貨店の輸入レコードのコーナーに、「ビートルズ」のアメリカ盤レコード「ミート・ザ・ビートルズ」を、偶然見つけたそうですが、
ジャケットを見ただけでハッとし、即座に購入して帰宅し、聴くと、斬新なリズムやキャッチーなメロディとコーラスに、予想を上回る衝撃を受け、その後、繰り返し聴いたそうで、
(特に、2曲目の「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」がお気に入りだったそうです)
かまやつひろしさんは、この時のことを、著書「ムッシュ!」で、
彼らのビジュアル、伝わってくる雰囲気、すべてひっくるめて、あのグリニッジ・ヴィレッジの空気と同じだった。まだ日本では無名だったビートルズだが、僕はジャケットを見ただけで、彼らを一瞬にして理解した。「これだ!」そう直感した。
カントリーを始めとするアメリカの音楽は乾いた響きがするが、ビートルズは全体に紗がかかったような、ファンタジックな音だった。その時、僕には近未来が見えたと思った。次に来るもののフックを捕まえたという確信があった。震える位の感動だった。
と、綴っています。
(かまやつひろしさんは、1962年3月から半年ほど、アメリカに滞在していたそうですが、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジでは、デビュー直後のボブ・ディランや詩人たちが街を沸かせていたそうで、黒いタートルネックに身を包んだ風変わりな集団が醸し出す雰囲気から新時代の予感を感じていたそうです)
かまやつひろしは25歳の時「田邊昭知とザ・スパイダース」に「ビートルズ」路線に変更することを提案し採用されていた
そこで、かまやつひろしさんが、その感動と確信を伝えようと、すぐさま、田邊昭知さんに、
ビートルズってバンドがあるんだ。こういうのをやろうぜ
と、興奮気味に伝えると、
それから、毎日のように、かまやつひろしさんの自宅に、「ザ・スパイダース」のメンバーが集まり、「ミート・ザ・ビートルズ」を繰り返し聴いたそうで、
やがて、リーダーの田邊昭知さんが、
我々はビートルズ路線で行く
と、決定し、
かまやつひろしさんら「ザ・スパイダース」のメンバーたちは、「ビートルズ」をコピーした本格的なボーカル&インストゥルメンタルバンドとして活動することになったのだそうです。
ちなみに、かまやつひろしさんは、著書「ムッシュ!」に、
ぼくの家のテレビで、スパイダースのみんなと一緒に、ビートルズの出演する「エド・サリバン・ショー」を観たときのことも忘れられない。ブラウン管を通してとはいえ、初めて見るビートルズのライブに、感激はひとしおだった。
スパイダースのメンバーもビートルズに夢中になった。100%彼らを真似しようというわけで、七人で本格的なボーカル・インストルメンタル・グループに編成しなおすことになった。
と、綴っています。
かまやつひろしは25歳の時、福澤幸雄から海外の最新ファッション、音楽、ダンスを取り入れていた
また、かまやつひろしさんは、友人であり、レーサーやモデルとして活動していた福澤幸雄さんから、海外の最新ファッション、音楽、ダンスステップなどを事細かく教えてもらっていたそうで、
「ザ・スパイダース」は、鮮烈なダンスがトレードマークとなっているのですが、
「ザ・スパイダース」は、そんな福澤幸雄さんや横浜のアメリカン・スクールの学生らを通じて手に入れた貴重な最新レコードを、すぐさま”耳コピー”してレパートリーに加えていったそうで、
その結果、”日本でどこよりも早くビートルズの新曲を演奏するバンド”として評判を呼び、爆発的に観客動員数を増やしていったのでした。
(福澤幸雄さんは福澤諭吉の曾孫にあたり、仕事で頻繁に海外を飛び回る時代の最先端を行く人物でしたが、テスト走行中の事故により25歳の若さで他界されています。また、福澤幸雄さんは、「ザ・スパイダース」のブレイン的な存在だったことから、かまやつひろしさんは、福澤幸雄さんのことを敬意を込めて「8人目のザ・スパイダース」と呼んでいます)
かまやつひろしは26歳の時、「田邊昭知とザ・スパイダース」として自作曲「フリフリ」でレコードデビュー
そんな中、かまやつひろしさんは、田邊昭知さんに勧められ、オリジナル曲の作詞作曲を始めたそうで、
「田邊昭知とザ・スパイダース」は、1965年5月10日(かまやつひろしさん26歳)、「フリフリ」(かまやつひろしさん作詞作曲)でレコードデビューを果たすと、
当時、日本にはまだ馴染みのなかった最新のブリティッシュ・ビートやミリタリールックををいち早く取り入れ、実力派でありながらコミカルな演出もこなす独自のスタイルの「田邊昭知とザ・スパイダース」は、高い評価を得たのでした。

「フリフリ」
ちなみに、「フリフリ」のジャケット写真には、かまやつひろしさんが写っていないのですが、これは、かまやつひろしさんが遅刻をして、撮影時間に間に合わなかったからだといいます。
(ただ、かまやつひろしさんが到着してから、再度、全員で写真を撮ったそうですが、なぜか6人の写真が採用されたのだそうです)
「田邊昭知とザ・スパイダース」は、当初、熱狂的な洋楽ファンからしか支持されなかった
そんな「田邊昭知とザ・スパイダース」は、その後も、
- 1965年11月には、「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」

「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」 - 1966年2月には、「ノー・ノー・ボーイ/リトル・ロビー」

「ノー・ノー・ボーイ/リトル・ロビー」※「ノー・ノー・ボーイ」の作曲はかまやつひろしさん。 - 1966年3月には、「青春ア・ゴー・ゴー/クライ・アンド・クライ」

「青春ア・ゴー・ゴー/クライ・アンド・クライ」 - 1966年4月には、「ヘイ・ボーイ/ミシェル」

「ヘイ・ボーイ/ミシェル」※「ヘイ・ボーイ」の作曲はかまやつひろしさん - 1966年7月には、「サマー・ガール/なればいい」

「サマー・ガール/なればいい」※「サマー・ガール」の作曲はかまやつひろしさん
と、立て続けにシングルをリリースし、1966年5月には、「日劇ウエスタンカーニバル」にも初出場を果たしたそうですが・・・
当時はまだ、青春歌謡やムード歌謡が全盛の時代だったことから、一部の熱狂的な洋楽ファンからは支持されたものの、大衆的な大ヒットには至らなかったのだそうです。
(「ノー・ノー・ボーイ」から、「田邊昭知とザ・スパイダース」⇒「ザ・スパイダース」に名称を変更しています)
かまやつひろしは27歳の時、1stアルバム「ザ・スパイダース・アルバムNo.1」をリリースするも話題にならなかった
また、「ザ・スパイダース」は、1966年の4月15日には、日本のバンドとして初の全曲オリジナルによるアルバム「ザ・スパイダース・アルバムNo.1」をリリースするのですが、これもさほど話題にならなかったといいます。

「ザ・スパイダース・アルバムNo.1」
かまやつひろしは27歳の時「ザ・スパイダース」としての7thシングル「夕陽が泣いている」が売上120万枚超の大ヒット
そんな中、高い演奏技術を持ちながらもヒット曲がないことに、リーダーの田邊昭知さんとホリプロの堀威夫社長は危機感を抱いたそうで、
堀威夫社長が、ヒットメーカーだった浜口庫之助氏の、
堀くん、夕焼けというのは、お陽さまが泣いているんだよ
との言葉に感銘を受け、浜口庫之助さんに楽曲制作を依頼したそうですが・・・
浜口庫之助さんから提供された「夕陽が泣いている」は、あまりに”歌謡曲”然としており、かまやつひろしさんらメンバーが傾倒していたリバプール・サウンドの欠片もなかったことから、メンバーは強い拒絶反応を示したといいます。
ただ、この「夕陽が泣いている」を起死回生の一手に選んだリーダーの田邊昭知さんの熱意に押された、かまやつひろしさんらメンバーは、なんとか、自分たちらしいロック風なアレンジを加え、楽曲を完成させると、後にも先にも例がないという”3日間不眠不休の猛練習”でレコーディングしたそうで、
1966年9月15日、7枚目のシングルとして「夕陽が泣いている」をリリースすると・・・
なんと、公称120万枚を超えるセールスを叩き出し、「ザ・スパイダース」は、一躍、スターダムに駆け上がったのでした。

「夕陽が泣いている」
かまやつひろしが27歳~29歳の時、「ザ・スパイダース」は「なんとなくなんとなく」「太陽の翼」「バラ・バラ」「風が泣いている」「あの虹をつかもう」「いつまでもどこまでも」「あの時君は若かった」をリリース
そんな「ザ・スパイダース」は、その後も、
- 1966年12月25日「なんとなくなんとなく」

「なんとなくなんとなく」 - 1967年3月1日「太陽の翼」

「太陽の翼」 - 1967年4月20日「バラ・バラ」

「バラ・バラ」 - 1967年7月15日「風が泣いている」

「風が泣いている」 - 1967年8月25日「あの虹をつかもう」
- 1967年10月25日「いつまでもどこまでも」
- 1968年3月5日「あの時君は若かった」
と、立て続けにシングルをリリースすると、
今度は、「太陽の翼」「風が泣いている」などがヒットし、8月には主演映画が公開されるなど、グループ・サウンズブームの先駆者として、その人気を不動のものにしたのでした。
かまやつひろしが31歳の時に脱退したのを引き金に「ザ・スパイダース」は解散となっていた
しかし、1967年には、盟友だった「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」の「ブルー・シャトー」が150万枚の大ヒットで日本レコード大賞に輝くほか、「ザ・タイガース」ら若手グループが台頭してくると、
やがて、グループ・サウンズブーム全体の人気も下火となり、あれだけ熱狂的だった「ザ・スパイダース」の客足も、1969年夏頃には途絶えてしまいます。
そんな中、かまやつひろしさんは、これに合わせるように、シンガーソングライターとしての歩みを始めたそうですが、
他のメンバーたちも、バンドという枠を超えて個々の才能を活かす場所へと活動の場をシフトしていき、リーダーの田邊昭知さんもマネジメント業務に専念するため「ザ・スパイダース」を脱退したそうで、
1970年9月、「ザ・スパイダース」は、シングル「エレクトリックおばあちゃん」をリリースするも、やはり、ヒットとはならず、

「エレクトリックおばあちゃん」
同年(1970年)11月、かまやつひろしさんが、「ザ・スパイダース」を脱退すると、これが引き金に、「ザ・スパイダース」は、同年12月、解散を発表し、1971年1月、「第43回日劇ウエスタンカーニバル」の出演を最後に、解散したのでした。
「【画像】かまやつひろしのスパイダース脱退以降の代表曲ほか経歴は?」に続く
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「ザ・スパイダース」脱退以降は、シンガー・ソングライターに転身し、フォークソングなど、これまでのグループ・サウンズとは異なったジャンルの様々なミュージシャンと交流すると、 1975年、36歳の時には、「あゝ!我が良き友よ …


















