ボーカルユニット「スリー・ジェット」が自然消滅し、「田邊昭知とザ・スパイダース」に加入した、井上堯之(いのうえ たかゆき)さんは、当初はボーカルだったそうですが、ギターの伊藤源雄さんが脱退したことで、一からギターを猛練習し、ギターに転向していたといいます。
そんな井上堯之さんは、大ヒットした7枚目のシングル「夕陽が泣いている」のイントロのギターもアレンジしているのですが、
今回は、井上堯之さんの若い頃(「ザ・スパイダース」時代)の経歴を、代表曲を交えながら時系列でご紹介します。

「【画像】井上堯之の生い立ちは?スリージェットでデビューも全く売れなかった!」からの続き
井上堯之は20歳頃「田邊昭知とザ・スパイダース」にボーカルとして加入していた
田邊昭知さんのもと、ボーカルユニット「スリー・ジェット」としてデビューした井上堯之さんですが、ほどなくして、「スリー・ジェット」が自然消滅状態となると、
田邊昭知さんに、
お前も、いつまでも「スリー・ジェット」じゃしょうがないから、明日から「スパイダース」にボーカルで参加しろ
と、言われ、「田邊昭知とザ・スパイダース」にボーカルとして加入したといいます。
(この頃の「田邊昭知とザ・スパイダース」は、リーダーの田邊昭知さんがロカビリー全盛期に活躍したメンバーたちを集めて結成したラウンジ・ジャズ系のバンドだったそうです)
井上堯之は22歳の時にボーカル(コーラス)からギターに転向していた
そして、1964年2月には、「田邊昭知とザ・スパイダース」には、田邊昭知さん(ドラムス)、井上堯之さんさんのほか(コーラス)、
大野克夫さん(キーボード)、加藤充さん(ベース)、堺正章さん(ボーカル)、伊藤源雄さん(ギター)、井上順さん(ボーカル)のメンバーが集まっていたそうですが・・・
ある日、ビートルズの曲をコピーしていた際、大野克夫さんと伊藤源雄さんが、曲の入り方についてケンカになり、伊藤源雄さんが辞めてしまったといいます。
そんな中、井上堯之さんは、大野克夫さんに、コーラスからギターに転向するよう勧められたそうですが、
それを聞いていた田邊昭知さんにも、
お前が明日からリードギターな
と、背中をポンッと叩かれたそうで、
当初、全くギターを弾けなかった井上堯之は大野克夫さんにギターを教わると、あとは独学でギターの練習を重ね、田邊昭知さんも驚くほどの努力量で、すぐにギターの腕を上げていったのだそうです。
(大野克夫さんはキーボード担当ですが、どんな楽器もこなせる天才だったそうです)
ちなみに、大野克夫さんは、
「スパイダース」がリヴァプールサウンドを押し出していきたいという方針となったとき、声をかけたんです。真面目なタイプで、バイプレーヤーとしての魅力がありました
と、語っています。
井上堯之は「田邊昭知とザ・スパイダース」で「ベンチャーズ」を演奏するも「テケテケテケ・・・」が大嫌いだった
ところで、当時は、「ベンチャーズ」が大ブームだったことから、ほとんどのバンドが「ベンチャーズ」のスタイルをコピーしていたそうで、「田邊昭知とザ・スパイダース」も例に漏れず、当初は、普通に「ベンチャーズ」を演奏していたそうですが、
実は、「田邊昭知とザ・スパイダース」のメンバーは「ベンチャーズ」が嫌いで、特に、井上堯之さんは、「ベンチャーズ」のトレードマークだった「テケテケテケ・・・」という奏法が大嫌いだったといいます。
そんな中、ステージでは、井上堯之さんが目一杯格好をつけてギターを弾き始めるも、見せ場の「テケテケテケ・・・」のところで、わざと「テケ、テケケ、テケテケ」とつっかえて、メンバー全員がずっこけ、
堺正章さんが、
ちょっと、そこのおじさん!何やっているのよ!ちゃんと真面目にやってくれないと困るんだよ!これでギャラは同じだからね。やってられないのよ!
と、ツッコこみ、観客を爆笑の渦に巻き込んだそうです。

左端が井上堯之さん。
井上堯之は24歳の時、「田邊昭知とザ・スパイダース」として1stシングル「フリフリ」でレコードデビュー
ただ、その後、「田邊昭知とザ・スパイダース」は、かまやつひろしさんの猛プッシュにより、「ビートルズ」路線となると、やがて、振り付けの斬新さ、選曲、海外情報の早さ、ファッションセンスなどで、他のバンドを圧倒し、観客動員数1位のバンドになったそうで、
1965年5月10日(井上堯之さん24歳の時)には、ファーストシングル「フリフリ」でレコードデビューを果たし、

「フリフリ」
その後も、
- 1965年11月には、「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」

「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」 - 1966年2月には、「ノー・ノー・ボーイ/リトル・ロビー」

「ノー・ノー・ボーイ/リトル・ロビー」 - 1966年3月には、「青春ア・ゴー・ゴー/クライ・アンド・クライ」

「青春ア・ゴー・ゴー/クライ・アンド・クライ」 - 1966年4月には、「ヘイ・ボーイ/ミシェル」

「ヘイ・ボーイ/ミシェル」 - 1966年7月には、「サマー・ガール/なればいい」

「サマー・ガール/なればいい」
と、「ブリティッシュ・ビート」に影響を受けたかまやつひろしさんが手掛けたシングルを、立て続けにリリースすると、
「ブリティッシュ・ビート」「マージン・ビート」「リバプール・サウンド」と呼ばれる独自の音楽性や、ミリタリーのほか、一人ひとりの個性に合わせたファッション、コミカルタッチな演出などが、一部の洋楽好きのファンから支持されたのでした。
(「ノー・ノー・ボーイ」から、「田邊昭知とザ・スパイダース」⇒「ザ・スパイダース」と名称を変更しています)
井上堯之が25歳頃、「ザ・スパイダース」は海外アーティストの前座を務めると本家よりも演奏技術が高かった
そんな「ザ・スパイダース」の演奏技術は非常に高かったそうで、
この頃、「ザ・ビーチボーイズ」や「アニマルズ」といった海外のバンドが来日した際、「ザ・スパイダース」が前座を務めると、どの海外のバンド(本家)よりも、「ザ・スパイダース」の方が演奏技術が高いと評判だったそうで、「ビートルズ」の前座のオファーも来たそうですが、
(「海外アーティストの前座といえばザ・スパイダース」と言われていたそうです)
「ビートルズ」の前座だけは、話し合いの結果、断ったそうで、
リーダーの田邊昭知さんは、その理由について、
本物のビートルズが来て演奏するのに、コピーバンドが前座に出てもしょうがありません。太刀打ちできませんよ。
確かにスパイダーズは多くの外タレの前座をしていましたが、ビートルズ以外はすべて我々の方が上手いと思っていましたから、外タレのオリジナルだろうと何であろうと、前座で演奏していました。ただし、ビートルズだけは特別なのです。
と、語っています。
(そのため、1966年6月30日から3日間(全5回)行われたビートルズの来日公演の前座は、「ザ・ドリフターズ」、尾藤イサオん、内田裕也さん、「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」が務めています)
井上堯之は25歳の時、「ザ・スパイダース」が7thシングル「夕陽が泣いている」が公称120万超えの大ヒット
ただ、そんな実力派バンドだった「ザ・スパイダース」も、青春歌謡やムード歌謡が全盛だった当時は、一般の人々には理解されず、レコードのセールスは伸びなかったそうで、リーダーの田邊昭知さんがヒット曲を模索していると、
所属事務所「ホリプロ」の堀威夫社長が、ヒットメーカー・浜口庫之助さんの、
堀くん、夕焼けというのは、お陽さまが泣いているんだよ
というロマンティックな言葉に感動して、すぐに、浜口庫之助さんにそれを元にした「ザ・スパイダース」楽曲の制作を依頼したそうで、
1966年9月15日、7枚目のシングルとして「夕陽が泣いている」をリリースすると、公称120万枚を超えるセールスを叩き出し、「ザ・スパイダース」は、一躍、スターダムにのし上がったのでした。

「夕陽が泣いている」
井上堯之は「夕陽が泣いている」のイントロを苦労してロック風にアレンジしていた
とはいえ、浜口庫之助さんから提供された楽曲「夕陽が泣いている」は、まさに歌謡曲のメロディだったそうで、当初、井上堯之さんらメンバーは、これまで演奏してきたリバプール・サウンドの香りが微塵もないこの曲を歌うことに、難色を示していたといいます。
しかし、リーダーの田邊昭知さんが、歌謡曲でヒットを連発している浜口庫之助さんの言葉の力を信じて、起死回生の一手として、この「夕陽が泣いている」に賭け(浜口庫之助さんの作品だったことから断れなかったという話も)、メンバーたちを説得・鼓舞したそうで、
井上堯之さんらメンバーも、田邊昭知さんの熱意に押され、なんとか、「夕陽が泣いている」に自分たちらしいロック風なアレンジを加えて完成させ、3日間、ぶっ通しでレコーディングのための練習を繰り返してレコードが完成させたのだそうです。
(特に、イントロは、井上堯之さんが苦労してアレンジしたそうです)
ちなみに、ベースの加藤充さんは、
私が一番影響を受けたのが、シルヴィー・バルタンのバックをやっていたギターのミッキー・ジョーンズですね。彼がよく銀座ACBに来ていて、彼のチューニングを見て、いのやん(井上堯之さん)とかみんなチューニングを覚えたんです。
ガシャって感じの音で。だから、「夕陽が泣いている」のギター(井上堯之さん)の音は彼の音に影響されたんです。だから、これは絶対人には教えないって、アンプを演奏が終わると全部ゼロにしました。
と、語っています。
井上堯之は25歳~26歳の時、「ザ・スパイダース」として「なんとなくなんとなく」「太陽の翼」「バラ・バラ」「風が泣いている」「あの虹をつかもう」「いつまでもどこまでも」「あの時君は若かった」をリリース
さておき、「ザ・スパイダース」は、
その後も、
- 1966年12月25日「なんとなくなんとなく」

「なんとなくなんとなく」 - 1967年3月1日「太陽の翼」

「太陽の翼」 - 1967年4月20日「バラ・バラ」

「バラ・バラ」 - 1967年7月15日「風が泣いている」

「風が泣いている」 - 1967年8月25日「あの虹をつかもう」

「あの虹をつかもう」 - 1967年10月25日「いつまでもどこまでも」
- 1968年3月5日「あの時君は若かった」

「あの時君は若かった」
と、立て続けにシングルをリリースすると、「太陽の翼」「風が泣いている」などがヒットし、
5月には、映画「夕陽が泣いている」、8月には、映画「ザ・スパイダースのゴー・ゴー・向こう見ず作戦」が公開されるなど、絶頂期を迎えたのでした。
井上堯之は26歳の時に阿木譲、森進一と共に「ギンシャリ会」を結成していた
また、そんな中、井上堯之さんは、1967年には、プライベートグループとして、阿木譲さん、森進一さんと共に、「ギンシャリ会」を結成しています。

ギンシャリ会。(左から)阿木譲さん、森進一さん、井上堯之さん。
井上堯之が29歳の時、「ザ・スパイダース」は解散
しかし、1967年には、共にグループ・サウンズブームを牽引していた「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」が「ブルー・シャトウ」で150万枚を売り上げる大ヒットを飛ばすほか(「日本レコード大賞」も受賞)、
「ザ・タイガース」「ザ・カーナビーツ」「ザ・ジャガーズ」といった、10代後半から20代前半の若手グループも次々と台頭してきたことから、比較的年齢層の高かった「ザ・スパイダース」の人気にも陰りが見え始め、
1969年夏頃には、ライブでの観客数の落ち込みが進むと、収益面などの理由から、メンバーそれぞれの個々の活動が優先されるようになったそうで(バラ売り化)、
1970年5月には、リーダーの田邊昭知さんが、マネジメント業務に専念するため「ザ・スパイダース」を脱退し、ミュージシャンも引退すると、同年11月には、中心的メンバーだったかまやつひろしさんが脱退し、
同年12月、「ザ・スパイダース」は解散を発表したのでした。
(1971年1月、「第43回日劇ウエスタンカーニバル」を最後のステージに解散)
「【画像】井上堯之が若い頃はPYGを結成し本格的なロックを目指していた!」に続く
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