田邊昭知さんからの熱烈なスカウトを受け、「田邊昭知とザ・スパイダース」に加入すると、1966年9月25日にリリースした7thシングル「夕陽が泣いている」が120万枚を超える大ヒットとなった、大野克夫(おおの かつお)さん。

今回は、そんな大野克夫さんの、若い頃(「ザ・スパイダース」時代)の経歴を代表曲などを交えて時系列でご紹介します。

大野克夫

「大野克夫の生い立ちは?幼少期から天才!高2の時スカウトされていた!」からの続き

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大野克夫は20歳頃に田邊昭知から熱烈なスカウトを受けるも保留していた

高校卒業後、「ゲイリー石黒&サンズ・オブ・ザ・ウエスト」で活動していた大野克夫さんですが、

ある時、京都のジャズ喫茶「ベラミ」で、「スウィング・ウエスト」と共演したことがきっかけで、「田邊昭知とザ・スパイダース」を結成したばかりだった、「スウィング・ウエスト」のドラムス・田邊昭知さんと出会うと、

他のミュージシャン同様、大野克夫さんのテクニックを目の当たりにした田邊昭知さんから熱烈なスカウトを受けたといいます。

ただ、大野克夫さんは、ゲーリー石黒さんへの遠慮があったほか、誘われたからといってすぐに応じるのではなく、徹底的に腕を磨いてから参加したいと考え、すぐには首を縦に振らなかったといいます。

(上京して1年ほどで帰ってきたバイオリンの木村さんという人から言われた「東京へ行くなら、腕を磨いて行けよ」という言葉が頭に残っていたそうです)

大野克夫は22歳の時に「田邊昭知とザ・スパイダース」に加入

ただ、その後、1961年頃、大野克夫さんが、「ゲイリー石黒&サンズ・オブ・ザ・ウエスト」の活動で東京に行く準備をしていると、

かつて音楽仲間だった井上堯之さんがテレビに出演している姿を目にし、

神戸でくすぶっていた堯之が、あっという間にテレビに出とる

と、衝撃を受け、

自分も早く行かなければ

と、焦ったといいます。

すると、そんな中、田邊昭知さんから、

うちに来てほしい

もうスパイダースが始まるんだけど・・・

と、3回目となる誘いを受けたそうで、

すぐにでも行きたいところだったそうですが、さすがに、ゲーリー石黒さんに「明日から」と言うのはどうかと思い、

田邊昭知さんには、

7月なら行けます!

と、返事をしたのだそうです。

(大野克夫さんは、この頃、「京都に天才・大野克夫あり」と東京まで噂が轟いていたそうです)

そして、ゲーリー石黒さんに話をし、半年後に「ゲイリー石黒&サンズ・オブ・ザ・ウエスト」を脱退したそうで、

1962年7月に上京し、「田邊昭知とザ・スパイダース」に加入したのだそうです。

(大野克夫さんは、「田邊昭知とザ・スパイダース」加入にあたり、「(「ゲイリー石黒&サンズ・オブ・ザ・ウエスト」でベースを弾いていた)加藤充と2人一緒なら」との条件を出したとも言われています)

大野克夫は「田邊昭知とザ・スパイダース」ではオルガンとスチールギターを担当していた

こうして、「田邊昭知とザ・スパイダース」に加入した大野克夫さんは、オルガンとスチールギターを担当し、縁の下の力持ち的な存在となったそうですが、

「田邊昭知とザ・スパイダース」のメンバーの1人だったかまやつひろしさんは、

一言で言えば天才なんです。一度聴いた曲はすぐに譜面に書けるし、どんな楽器もうまい。ライブだけでなくスタジオワークも万全。こんな多彩なミュージシャン、日本にはそういない

と、絶賛しています。

(この頃、「田邊昭知とザ・スパイダース」は、それまでゲストボーカルを入れていたスタイルをやめ、独自で演奏するスタイルに移行している時期だったそうです)

大野克夫は「ザ・スパイダース」では井上堯之の裏演奏(ギター)も担当していた

一方、ギタリストの伊藤源雄さんとは折り合いが悪く、

ある日、ビートルズの曲をコピーしていた際、曲の入り方についてケンカになり、(これが原因かは不明ですが)ほどなくして伊藤源雄さんが脱退したそうで、

(大野克夫さんが、3日ほどで「辞めます」と田邊昭知さんに言ったとも)

急遽、コーラスだった井上堯之さんが、ギターを担当することになったそうですが、うまく演奏できなかったことから、大野克夫さんは、井上堯之さんの裏演奏などもしていたそうで、

大野克夫さんは、その時のことを振り返り、

もとスリー・ジェット(ホリプロ所属のボーカルグループ)の、ボーカルだった井上堯之は、スパイダースへ入ってから、ギターに転向したので、エレキ(ギター)のテクニックが、今ひとつだったんです。

でも当時はベンチャ―ズもやらなきゃならない…スパイダースはベンチャーズが大嫌いでしたが、そうも言っていられない。

そこで、あの♪テケテケテケを演奏する時、彼がさり気なくアンプの方へ回って、チューニングする様なふりををする…

その時、僕が代わりに、♪テケテケテケテケー♪ とスチールギターでやる訳。まぁ、良きも悪しきもそうゆう時代でしたからね。(笑)

と、語っています。

大野克夫は25歳の時、「田邊昭知とザ・スパイダース」として1stシングル「フリフリ」でレコードデビュー

その後、「田邊昭知とザ・スパイダース」は、1965年5月10日、ファーストシングル「フリフリ」でレコードデビューを果たすと、

「フリフリ」
「フリフリ」

  • 1965年11月には、「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」
    「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」
    「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」
  • 1966年2月には、「ノー・ノー・ボーイ/リトル・ロビー」
    「ノー・ノー・ボーイ/リトル・ロビー」
    「ノー・ノー・ボーイ/リトル・ロビー」
  • 1966年3月には、「青春ア・ゴー・ゴー/クライ・アンド・クライ」
    「青春ア・ゴー・ゴー」
    「青春ア・ゴー・ゴー/クライ・アンド・クライ」
  • 1966年4月には、「ヘイ・ボーイ/ミシェル」
    「ヘイ・ボーイ/ミシェル」
    「ヘイ・ボーイ/ミシェル」
  • 1966年7月には、「サマー・ガール/なればいい」
    「サマー・ガール/なればいい」
    「サマー・ガール/なればいい」

と、立て続けにシングルをリリースするのですが、

一部の洋楽好きのファンからは、「ブリティッシュ・ビート」「マージン・ビート」「リバプール・サウンド」と呼ばれる独自の音楽性、全員が同じ格好をせず一人ひとりの個性に合わせたファッション、コミカルタッチな演出などが評価されるも、

青春歌謡やムード歌謡が全盛の当時は、どれもセールスには結びつきませんでした。

(※「ノー・ノー・ボーイ」から、グループ名が「田邊昭知とザ・スパイダース」⇒「ザ・スパイダース」と変更しています)

大野克夫は27歳の時、「ザ・スパイダース」として「夕陽が泣いている」が120万枚超えの大ヒット

しかし、1966年9月15日、7枚目のシングル「夕陽が泣いている」をリリースすると、レコードの売り上げが公称120万枚を超える大ヒットを記録し、これにより、「ザ・スパイダース」は、一躍スターダムに駆け上がったのでした。

「夕陽が泣いている」
「夕陽が泣いている」

(実は、この「夕陽が泣いている」は、ヒットメーカーの浜口庫之助さんから提供された楽曲で、いかにも”歌謡曲”という楽曲だったことから、大野克夫さんほかメンバー全員が難色を示したそうですが、リーダーの田邊昭知さんから説得され、ロックテイストのアレンジを加えて、3日間ぶっ続けでレコーディングのための練習を繰り返して完成していたそうです)

大野克夫は27歳~28歳の時、「ザ・スパイダース」として「なんとなくなんとなく」「太陽の翼」「バラ・バラ」「風が泣いている」「あの虹をつかもう」「バン・バン・バン」「あの時君は若かった」などをリリース

こうして、一躍、スターの座にのし上がった「ザ・スパイダース」は、

その後も、

  • 1966年12月25日「なんとなくなんとなく」
    「なんとなくなんとなく」
    「なんとなくなんとなく」
  • 1967年3月1日「太陽の翼」
    「太陽の翼」
    「太陽の翼」
  • 1967年4月20日「バラ・バラ」
    「バラ・バラ」
    「バラ・バラ」
  • 1967年7月15日「風が泣いている」
    「風が泣いている」
    「風が泣いている」
  • 1967年8月25日「あの虹をつかもう」
  • 1967年10月25日「いつまでもどこまでも」
  • 1968年3月5日「あの時君は若かった」

と、立て続けにシングルをリリースすると、順調にヒットを飛ばし、1967年には、グループ・サウンズブームを牽引する存在となったのでした。

大野克夫が28歳~29歳頃には「ザ・スパイダース」の人気が低迷

しかし、1967年には、共にグループ・サウンズブームを牽引し、ライバルであり戦友だった「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」が「ブルー・シャトウ」で150万枚を売り上げる大ヒットを記録し、「日本レコード大賞」を受賞するほか、

ザ・タイガース」「ザ・カーナビーツ」「ザ・ジャガーズ」といった、若手グループが次々と台頭してくると、

グループ・サウンズブーム自体が下火となり、「ザ・スパイダース」の人気にも陰りが見え始めたそうで、1969年夏頃には、観客数が激減し、

「ザ・スパイダース」で、司会&ボーカルを務めていた堺正章さんは、

向かうところ客なし!

と、持ちギャグのように言うほどだったそうです。

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大野克夫が31歳の時に「ザ・スパイダース」は解散

そんな中、大野克夫さんは、作曲家として活動するようになったそうですが、他のメンバーたちも、それぞれの個性を活かした活動をするようになったそうで、

堺正章さんと井上順さんは、バラエティ番組の司会や俳優、井上堯之さん、かまやつひろしさん、加藤充さんは音楽活動と、それぞれの方向性が変化していくと、

今度は、リーダーの田邊昭知さんが、マネジメント業務に専念するため、「ザ・スパイダース」を脱退したのだそうです。

そして、1970年9月には、シングル「エレクトリックおばあちゃん」をリリースするも、ヒットとは程遠く、同年11月には、中心的メンバーだったかまやつひろしさんが脱退すると、

ついに、1970年12月、「ザ・スパイダース」は解散を発表し、1971年1月、「第43回日劇ウエスタンカーニバル」の出演を最後に、解散したのでした。

「エレクトリックおばあちゃん」
「エレクトリックおばあちゃん」
予定に続く

「ザ・スパイダースの大進撃」

お読みいただきありがとうございました

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