堺駿二さんと幹千代子さんを両親に持ち、1965年、「ザ・スパイダース」として、1stシングル「フリフリ」でデビューすると、7枚目のシングル「夕陽が泣いている」が120万枚を超える大ヒットを記録し、一躍、スターダムに駆け上った、堺正章(さかい まさあき)さん。

そんな堺正章さんは、幼い頃から、喜劇俳優だったお父さんにしばしば撮影所に連れて行ってもらっていたそうで、6歳の時、映画「東京騎士伝」で子役デビューすると、その後、しばらく子役として活動するも、8歳の時に「ハワイ珍道中」に出演したのを最後に、芸能活動から遠ざかっていたそうですが、中学生の時、アメリカン・ポップスを聴いて影響を受け、音楽の道を志したといいます。

今回は、堺正章さんの生い立ち(幼少期~16歳で芸能界入り)をご紹介します。

堺正章

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堺正章のプロフィール

堺正章さんは、1946年6月6日生まれ、
(お父さんが出生届を2ヶ月出し忘れていたため、戸籍上では8月6日生まれとなっているそうです)
東京都世田谷区の出身、

身長163センチ、

靴のサイズは24センチ、

血液型はA型、

学歴は、
鎌倉市立御成小学校
⇒鎌倉学園中学校
⇒鎌倉学園高校卒業

趣味は、
グルメ、麻雀、クルマ、クラシックカーレース、クレー射撃、

ちなみに、堺正章さんの本名は「栗原正章(くりはら まさあき)」で、愛称は「マチャアキ」「堺先生(しゃかい しぇんしぇい)」「巨匠」「Mr.かくし芸」です。

堺正章が幼い頃は父・堺駿二と母・三浦たま子(幹千代子)のもと裕福な家庭で溺愛されて育っていた

堺正章さんは、喜劇役者の堺駿二さんと「松竹少女歌劇団」のダンサーだった幹千代子さん(芸名:三浦たま子)のもと、4人兄妹(姉2人兄1人)の末っ子として誕生すると、

6人家族のほか、お手伝いさん、庭師、運転手、お父さんの弟子と、鎌倉市にある1400坪もある敷地にある豪邸(ジャーマン・シェパードを10頭も飼っていたそうです)で、何不自由なく育ったそうで、

お父さんと過ごせるのは半年に1度、1週間のみだったそうですが、堺正章さんが幼稚園に行くのを嫌がると、お父さんは、連日、撮影所に連れて行ってくれたほか、小学5年生の時、堺正章さんがローラースケート場に行きたいとダダをこねると、庭にローラースケート場を作ってくれるなど、溺愛されて育ったそうです。

そんな堺正章さんは、5歳の時には、東京・鎌倉の自宅から京都太秦(うずまさ)まで、1人で汽車を乗り継いで、お父さんに会いに行ったこともあったそうです。

(「京都でおろしてください」という手作りのカードを、お母さんに持たせてもらったそうです)

堺正章は6歳の時に映画「東京騎士伝」で子役デビューするも8歳の時の「ハワイ珍道中」を最後に学業に専念していた

そんな堺正章さんは、5歳の時、お父さんに連れられて撮影所に行くと、そこで声をかけられたことがきっかけで、1952年、6歳の時、「東京騎士伝」で映画デビューすると、同年、映画「母は叫び泣く」にも出演しています。

「東京騎士伝」
「東京騎士伝」より。右が堺正章さん。

「東京騎士伝」
「東京騎士伝」より。(左から)多々良純さん、角梨枝子さん、堺正章さん、鶴田浩二さん。

また、堺正章さんは、1954年、8歳の時には、映画「ハワイ珍道中」に出演するなど、子役として活動していたそうですが、それ以降は芸能活動はせず、学業に専念したそうです。

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堺正章は中学生の時に音楽の道を志すも父親の反対に遭っていた

ただ、中学生の時には、エルビス・プレスリーなどのアメリカン・ポップスに夢中になり、音楽の道へ進みたいと考えるようになったそうで、

堺正章さんは、お父さんに、

役者のお父さんに迷惑をかけないように僕は歌の道に進みたい

と、伝えたそうですが、

お父さんには、

おまえは大学を出て、普通に勤めたりして、安定した生活をしなさい。この世界はしないでいい苦労があるんだ

と、芸能界入りを反対されたといいます。

それでも、堺正章さんは、音楽への道をあきらめられず、1年間頼み続けたそうで、

堺正章さんが16歳の時、ようやく、お父さんは、

やるからには最後までやれ

と、芸能界入りを許してくれたのだそうです。

予定に続く

お読みいただきありがとうございました

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