1962年、16歳の時、「田邊昭知とザ・スパイダース」に加入し、1965年5月、ファーストシングル「フリフリ」でレコードデビューすると、当初は、一部のコアなファンには支持されるも、ブレイクとはならず、

1966年9月、自分たちのスタイルを曲げてリリースした、7枚目のシングル「夕陽が泣いている」が大ヒットとなった、堺正章(さかい まさあき)さん。

今回は、堺正章さんの、若い頃(「ザ・スパイダース」時代)の経歴をヒット曲を交えてご紹介します。

堺正章

「堺正章の生い立ちは?幼少期は裕福な家庭で父・堺駿二に溺愛され子役も!」からの続き

Sponsored Link

堺正章は16歳の時に「田邊昭知とザ・スパイダース」に加入していた

1年間頼み続け、ついに、喜劇役者の父・堺駿二さんに音楽をやることを許してもらったという堺正章さんは、

1962年、16歳の時、お父さんに、田邊昭知さんを紹介してもらうと、グループサウンズバンド「ザ・スパイダース」のボーカルを担当することになったそうです。

実は、堺正章さんの父・堺駿二さんが、共演者の斎藤チヤ子さんに、「息子が音楽をやりたがっている」と話したところ、それが、「ホリプロダクション」の堀威夫さんを通じて、「ザ・スパイダース」のメンバーを探していた田邊昭知さんに伝わったそうで、

田邊昭知さんは、

(渋谷テアトルで、堺正章さんに)「すみません、田邊さんってどの方でしょうか」と声をかけられ、「俺だよ」と答えたのが出会いだった

と、語っています。

堺正章は16歳の時に井上堯之とジャズダンスのレッスンで意気投合していた

そんな堺正章さんは、その後、ジャズダンスのレッスンを受けることになったそうですが、

一緒にレッスンを受けていた井上堯之さんとすぐに意気投合したそうで、お互い、「マチャアキ」「イノ」と呼び合う仲となったそうです。

堺正章は「田邊昭知とザ・スパイダース」では歌だけでなく司会の才能も発揮していた

そして、早速、「田邊昭知とザ・スパイダース」に合流した堺正章さんは、田邊昭知さん(ドラムス)、井上堯之さん(リードギター)、大野克夫さん(キーボード)、加藤充さん(ベース)、かまやつひろしさん(ギター&ボーカル)と共に活動するようになったそうですが、

歌手としてはもちろん、司会者としても才能を発揮し、「田邊昭知とザ・スパイダース」のステージを盛り上げたそうで、

かまやつひろしさんによると、メンバーみんなが、「マチャアキが次に何を言うのか」楽しみでワクワクしていたといいます。

また、そんな中、1963年には井上順さん(ボーカル)が加わったそうですが、メンバー全員がお笑いが好きな「ザ・スパイダース」のステージは、堺正章さんと井上順さんの2人を中心に笑いがあふれるものになったのだそうです。

(とはいえ、田邊昭知さんは、お笑いにも厳しく、一度、ステージで使ったネタを使い回すことを許してくれなかったことから、堺正章さんは、ステージで話したことはマメにノートに書き留めておき、トークの完成度を高めていったのだそうです)

堺正章が17歳の時、「田邊昭知とザ・スパイダース」は「ビートルズ」のコピーバンドとして活動するようになっていた

そんな「田邊昭知とザ・スパイダース」は、当初は、ロカビリーやジャズなどを演奏していたそうですが、

1964年4月頃からは、かまやつひろしさんが傾倒していた「ビートルズ」など、「ブリティッシュ・ビート」「リバプールサウンド」「マージービート」と呼ばれる楽曲を中心に演奏するようになり、そのビートに乗るために必死で練習を重ねたそうで、

1965年2月頃には、7人で「ビートルズ」をコピーした本格的なボーカル&インストルメンタルバンドに編成し直すと、結果、「田邊昭知とザ・スパイダース」は、

日本で一番早くビートルズの新曲を演奏できるバンド

として、急速に観客動員数を増やしていったそうで、

選曲、振り付けの斬新さ、海外情報の早さ、ファッションセンスなどで、他のバンドを圧倒し、月35本もジャズ喫茶に出演するなど、観客動員数1位のバンドに成長したのだそうです。

また、「田邊昭知とザ・スパイダース」は、同時期には、

  • 1964年4月には、「ピーター&ゴードン」のバックバンド
  • 1965年1月、9月には、「ザ・ベンチャーズ」の前座
  • 1965年6月には、「アニマルズ」の前座
  • 1965年8月には、「ザ・サファリーズ」や「ハニーカムズ」の前座
  • 1966年1月には、「ザ・ビーチ・ボーイズ」の前座

と、来日した海外アーティストの前座やバックバンドとしても活動しています。

堺正章は18歳の時、「田邊昭知とザ・スパイダース」として1stシングル「フリフリ」でレコードデビュー

そして、1965年5月10日には、ファーストシングル「フリフリ」(作詞・作曲:かまやつひろしさん)でレコードデビューすると、

「フリフリ」
「フリフリ」

それまでの日本にはなかった、ブリティッシュ・ビートに加え、ミリタリー・ルックをいち早く取り入れるセンスの良さと、コミカルタッチな演出が高く評価され、

その後も、

  • 1965年11月には、「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」
    「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」
    「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」
  • 1966年2月には、「ノー・ノー・ボーイ/リトル・ロビー」
    「ノー・ノー・ボーイ/リトル・ロビー」
    「ノー・ノー・ボーイ/リトル・ロビー」
  • 1966年3月には、「青春ア・ゴー・ゴー/クライ・アンド・クライ」
    「青春ア・ゴー・ゴー」
    「青春ア・ゴー・ゴー/クライ・アンド・クライ」
  • 1966年4月には、「ヘイ・ボーイ/ミシェル」
    「ヘイ・ボーイ/ミシェル」
    「ヘイ・ボーイ/ミシェル」
  • 1966年7月には、「サマー・ガール/なればいい」
    「サマー・ガール/なればいい」
    「サマー・ガール/なればいい」

と、立て続けにシングルをリリースします。

ただ、一部のコアな音楽ファンは虜(とりこ)にしたものの、当時の日本では、まだまだ、ムード歌謡曲が全盛の時代だったため、いずれもヒットとはならなかったのでした。

(※「ノー・ノー・ボーイ」から、「田邊昭知とザ・スパイダース」⇒「ザ・スパイダース」に改名しています)

堺正章は20歳の時、「ザ・スパイダース」として「夕陽が泣いている」が120万枚超えの大ヒット

そんな中、「ザ・スパイダース」設立者の田邊昭知さんが、なんとかヒット曲を出したいと考え抜き、

「「ビートルズ」などを真似て自分たちで曲を作り演奏する」という、これまでやってきたスタイルをやめ、ヒットメーカーの浜口庫之助さんに新曲を依頼したそうですが・・・

しばらくして、浜口庫之助さんから提供された曲「夕陽が泣いている」はというと、まるで歌謡曲で、これまで自分たちが演奏してきたブリティッシュ・ロックとはかけ離れたものだったそうで、メンバー全員が絶句したそうです。

とはいえ、一流のヒットメーカーである浜口庫之助さんの作品に文句を言う訳にもいかず、なんとか、「ザ・スパイダース」らしいアレンジを加えることで、完成にこぎつけ、1966年9月25日、7枚目のシングルとして「夕陽が泣いている」をリリースすると・・・

「夕陽が泣いている」
「夕陽が泣いている」

堺正章さんたちメンバーの気持ちとは裏腹に、売上120万枚を超える大ヒットを記録し、「ザ・スパイダース」は、一躍、スターダムを駆け上がったのでした。

(同時に、歌謡曲調のメロディであるこの曲を抒情的に歌い上げる堺正章さんの歌唱力の高さが広く世間に知られることとなったのでした)

ちなみに、堺正章さんは、「ザ・スパイダース」がブレイクした時のことを、

ヨーロッパにいる間に「夕日が泣いている」に火がついたの。帰ってきたら空港にメンバーを待つファンが押し寄せてきて、もうコンサート状態みたいだった。でも、自分なりに声援を分析すると「(井上)順ちゃ~ん!」が多かったね

(井上さんの人気は)すごかったよ、和製ポール・マッカートニーって言われてたんだから。これじゃ俺はやばいぞと思って、笑いの世界に引き込んだんだよ(笑)。「どうやってやるの?」っていうからコケ方を教えた。そしたらどんどん人気が落ちていったの(笑)

と、語っています。

堺正章は20歳~21歳の時、「ザ・スパイダース」として「なんとなくなんとなく」「太陽の翼」「風が泣いている」がヒットを連発していた

そんな「ザ・スパイダース」は、その後も、

  • 1966年12月25日「なんとなくなんとなく」
    「なんとなくなんとなく」
    「なんとなくなんとなく」
  • 1967年3月1日「太陽の翼」
    「太陽の翼」
    「太陽の翼」
  • 1967年7月15日「風が泣いている」
    「風が泣いている」
    「風が泣いている」

と、立て続けにリリースすると、次々とヒットを連発し、その人気を不動のものにしたのでした。

Sponsored Link

堺正章が24歳の時、「ザ・スパイダース」が解散

しかし、1967年3月15日、ライバルグループだった「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」が、シングル「ブルー・シャトウ」を発売すると、150万枚を売り上げる大ヒットを記録するほか、

ザ・タイガース」「ザ・カーナビーツ」「ザ・ジャガーズ」といった若手グループが台頭し、「ザ・スパイダース」の人気も次第に陰りが見え始めたそうで、

1969年夏頃には、ますます、観客数の落ち込みがひどくなると、「ザ・スパイダース」は、もともと、メンバーそれぞれの人気が高かったこともあり、次第にソロ活動へと転向していったそうで、

特に人気の高かった堺正章さんと井上順さんのスケジュールが過密状態だったことから、「ザ・スパイダース」は2人を除く5人での活動が多くなっていきます。

そして、1970年5月1日には、設立者の田邊昭知さんが脱退(芸能界を引退)すると、「ザ・スパイダース」は、1970年9月25日に、シングル「エレクトリックおばあちゃん」をリリースするも、売上はパッとせず、

「エレクトリックおばあちゃん」
「エレクトリックおばあちゃん」

その後、中心メンバーのかまやつひろしさんまで脱退してしまうと、ついに、1971年1月、「ザ・スパイダース」は解散することとなったのでした。

ザ・スパイダース
「ザ・スパイダース」

予定に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link