1957年、19歳の時、ロカビリーバンド「スウィング・ウエスト」のバンドボーイになると、翌1958年には、同バンドのボーカルに抜擢されて、「第2回 日劇ウエスタンカーニバル」のステージでデビューし、
その後は、歌謡歌手に転向すると、1959年、20歳の時、4枚目のシングル「僕は泣いちっち」が大ヒットとなった、守屋浩(もりや ひろし)さん。
今回は、そんな守屋浩さんの、若い頃から死去までの経歴を、代表曲、結婚&離婚&再婚を交えて時系列でご紹介します。

守屋浩のプロフィール
守屋浩さんは、1938年9月20日生まれ、
千葉県市川市の出身、
本名は、「守屋邦彦」(もりや くにひこ)、
学歴は、
安田学園中学校・高等学校卒業
だそうです。
守屋浩は19歳の時、堀威夫率いる「スイング・ウエスト」のバンドボーイになると翌年ボーカルに抜擢されていた
守屋浩さんは、高校生の時、ウエスタン・ミュージックが好きで、しょっちゅう、ライブを観に行っていたそうですが、
ある日のこと、「スイング・ウエスト」を結成したばかりの堀威夫さん(現・ホリプロ会長)に会いに行き、バンドボーイ(雑用係)にしてほしいと願い出たそうです。
ただ、堀威夫さんには、「スイング・ウエスト」を結成したばかりで、メンバーたちにさえお給料を支払えるか分からないから、バンドボーイは無理だと断られてしまったそうですが、
守屋浩さんは、無給でいいからと食い下がったそうで、1957年、19歳の時、「スイング・ウエスト」のバンドボーイになったのだそうです。
すると、翌年の1958年には、5月26日に開催される「第2回日劇ウエスタン・カーニバル」のボーカルに、突然、抜擢されたといいます。
というのも、「スイング・ウエスト」は、「第1回日劇ウエスタンカーニバル」では、直前でケガ人を出して、十分な力が発揮できず、「第2回」でリベンジしようと意気込んでいたそうですが、
リードボーカルの寺本圭一さんが、再三留年していた青山学院大学の卒業を目指すという理由で「スイング・ウエスト」を脱退していたそうで、リーダーの堀威夫さんは、頭を悩ませた末、後任のボーカルに守屋浩さんを抜擢したのだそうです。
守屋浩は20歳の時に「第2回日劇ウエスタン・カーニバル」に「三人ひろし」としてデビューするとたちまち人気を博していた
こうして、守屋浩さんは、1958年、20歳の時、本名の「守屋邦彦」から「守屋浩」に改名し、「第2回日劇ウエスタン・カーニバル」のステージでデビューを果たしたのですが、
同時に、「第2回日劇ウエスタン・カーニバル」には、人気ボーカリストだった、水原弘さんと井上ひろしさんも出演していたことから、特別に設けられたコーナーで、守屋浩さんも加わって「三人ひろし」として売り出されると、守屋浩さんは、女性客から大歓声を浴び、たちまちブレイクしたのでした。
ちなみに、守屋浩さんを、水原弘さんと井上ひろしさんと同じ「ひろし」という名にして売り出そうと考えついたのは、堀威夫さんだそうで、
堀威夫さんは、
守屋はまだ一曲もレコードを出していないんだけど、守屋浩にして「三人ひろし」にしようと山本紫郎さんに相談したんですよ。だから第2回の日劇ウエスタン・カーニバルで3人のコーナーをやっているんです。名付け親を山本紫郎にして、「三人ひろし」をでっち上げて。
と、語っています。
(山本紫郎さんは日劇ウエスタン・カーニバルで演出を担当していました)
守屋浩は20歳の時に映画「檻の中の野郎たち」の主演に抜擢されていた
さらに、守屋浩さんは、同年(1959年)夏、堀威夫さんの猛プッシュにより、新人ながら、ロカビリーのスターたちが総出演する映画「檻の中の野郎たち」の主演に抜擢されています。
ちなみに、守屋浩さんは、この映画の主題歌「檻の中の野郎たち」も担当すると、発売当日に5万枚が即日完売となって、大ヒットの兆しを見せていたのですが、
この主題歌は、少年鑑別所で自然発生的に生まれた「ネリカン・ブルース」をアレンジし、タイトルを、映画と同じ「檻の中の野郎たち」に改題したものだったことから、歌詞の内容が社会問題となり、途中で発売中止となっています。
守屋浩は20歳の時に「陽のあたる坂道」の主演級でテレビドラマデビュー
また、守屋浩さんは、1959年には、やはり、堀威夫さんの猛烈なプッシュにより、フジテレビ開局ドラマ「陽のあたる坂道」の主演級でテレビドラマデビューを果たしています。
(「陽のあたる坂道」は1959年3月9日から8月31日まで放送された全26回の連続ドラマ)

「陽のあたる坂道」より。芦川いづみさんと守屋浩さん。
守屋浩は20歳の時に4thシングル「僕は泣いちっち」が大ヒットを記録
そして、1959年9月15日、20歳の時には、浜口庫之助さんに提供された4枚目のシングル「僕は泣いちっち」をリリースすると、たちまち大ヒットを記録して、1960年末の「NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たし、人気歌手としての地位を確立したのでした。

「僕は泣いちっち」
実は、守屋浩さんが、「僕は泣いちっち」を歌うことになったのは、「檻の中の野郎たち」が発売中止となった直後、日本コロムビア厶のディレクターの長田幸治さんが、堀威夫さんに、
浜口庫之助の曲を守屋に歌わせたら
と、アドバイスしていたそうで、
堀威夫さんがこれに従って、浜口庫之助さんに楽曲制作を依頼していたのだそうです。
(浜口庫之助さんは、後に「バラが咲いた」「人生いろいろ」などのヒット曲を数多く誕生させているのですが、この時は、「アフロ・クバーノ」というバンドのリーダーとしては知られていたものの、作曲家としてはまだ駆け出しで、ヒット曲がなかったそうです)
とはいえ、守屋浩さんは、この「僕は泣いちっち」を初めて聴いた時、面食らい、絶対、ヒットしないと思っていたそうで、
当初は、ステージでも、
ぼーくは、泣いちっち 横向いて泣いちっち
という歌詞が恥ずかしく、毎回、歌うたびに、赤面していたといいます。
守屋浩は21歳の時に「達者でいるかよお母さん」「夜のため息」がヒット
さておき、守屋浩さんは、「僕は泣いちっち」の大ヒットをきっかけに、ロカビリーから歌謡曲路線へと転身し、
その後も、
- 1959年10月には、5枚目のシングル「達者でいるかよお母さん」

「達者でいるかよお母さん」 - 1959年11月には、6枚目のシングル「夜のため息」

「夜のため息」
とリリースすると、順調にヒットを飛ばしています。
守屋浩は22歳の時に島倉千代子との歌舞伎座公演を大成功させていた
そんな守屋浩さんは、1960年には、当時の歌謡界の女王・島倉千代子さんとの「歌舞伎座」共演(約1ヶ月)というオファーが舞い込んだそうで、
これは、それまでの単なるアイドルや流行歌手の枠を超え、「日本を代表する大スター」というステータス(格)を手に入れる最大のチャンスだったといいます。
ただ、当時、守屋浩さんが所属していた「東洋企画」にとって、守屋浩さんは屋台骨を支える最大の稼ぎ頭で、守屋浩さんが1ヶ月も「歌舞伎座」にかかりきりになると、他の営業活動ができなくなることから、
「東洋企画」の社長で、ジャズ喫茶「ACB」のオーナー・谷富次郎氏は、
せめて1日だけでもACBに出てくれ!
と、堀威夫さんに泣きついたそうです。
(たとえ歌舞伎座のギャラを上回る報酬を積んででも、”守屋浩”という名前を自社の店に掲げたい、そう切望させるほど、当時の守屋浩さんの集客力は群を抜いていたそうです)
しかし、堀威夫さんは、
これは金の問題ではなく、守屋の将来のための『格』の問題だ
と、突っぱね、「歌舞伎座」公演を優先させたそうで、
結果、「歌舞伎座」公演は空前の大成功を収め、守屋浩さんの知名度も全国区へと跳ね上がり、「東洋企画」には莫大な収益が舞い込むこととなったのだそうです。
守屋浩は22歳の時、堀威夫、田邊昭知とともに「堀プロダクション(現・ホリプロ)」の設立に参加していた
しかし、この出来事がきっかけで、堀威夫さんは、谷富次郎氏の恨みを買ったそうで、後にクーデターに遭い、「東洋企画」を追放されてしまいます。
すると、守屋浩さんも、恩人である堀威夫さんについていき、1960年秋の終わり頃には、堀威夫さん、田邊昭知さんとともに、「堀プロダクション(現・ホリプロ)」の設立に参加しているのですが、
堀威夫さんの自宅には、電話がなかったことから、「堀プロダクション」は、電話が設置されていた守屋浩さんのアパートの部屋を事務所代わりにして、スタートしたのだそうです。
(谷富次郎氏は、堀威夫さんに気づかれないように、社員や所属タレントの懐柔(かいじゅう)をしていたことから、守屋浩さん以外の所属タレントは全員「東洋企画」に残ったそうで、この事実に、堀威夫さんはショックに打ちひしがれたそうですが、スターに育て上げた守屋浩さんが自分についてきてくれたことが大きな励みとなり、ほのかに希望の光を見出すことができたといいます)
守屋浩は22歳~23歳の時に「有難や節」「月のエレジー」「大学かぞえうた」がヒット
すると、守屋浩さんは、「堀プロダクション」でも、
- 19枚目のシングル「有難や節」(ありがたやぶし)(1960年11月5日リリース)

「有難や節」 - 32枚目のシングル「月のエレジー」(1961年9月リリース)

「月のエレジー」 - 43枚目のシングル「大学かぞえうた」(1962年8月5日リリース)

「大学かぞえうた」 - 51枚目のシングル「がまの油売り」(1963年7月リリース)

「がまの油売り」
など、順調にヒットを飛ばし、「NHK紅白歌合戦」にも、「東洋企画」時代の1960年から4年連続出場を果たしています。
(当初、「堀プロダクション」で安定した収入を上げることができたタレントは、守屋浩さんのみで、堀威夫さんは、守屋浩さんに前借りしている状態だったそうです)
守屋浩は25歳の時に島倉千代子とのデュエット曲「星空に両手を」が70万枚を売り上げる大ヒット
そして、1963年、25歳の時には、島倉千代子さんとのデュエット曲「星空に両手を」が70万枚を売り上げる大ヒットを記録しています。

また、守屋浩さんは、
- 1961年「守屋浩の三度笠シリーズ 泣きとうござんす」※主演

「守屋浩の三度笠シリーズ 泣きとうござんす」より。守屋浩さんと浜美枝さん。 - 1961年「有難や三度笠」※主演
- 1961年「あんみつ姫の武者修業」
- 1961年「金づくり無法時代」
- 1962年「大学かぞえうた 先輩・後輩」
- 1968年「思い出の指輪」
など、映画にも数多く出演しています。(合計25本)
守屋浩の前妻(最初の妻)は本間千代子
そんな守屋浩さんは、1966年8月には、女優で歌手の本間千代子さんとの婚約を発表すると、1967年1月22日には、本間千代子さんと結婚しているのですが、
(守屋浩さんは、婚約中、早く帰って本間千代子さんに会いたいと、1時間20分のコンサートを45分で終わらせたことがあったと言われています)
守屋浩さんは創価学会員、本間千代子さんは熱心なキリスト教徒と、異なる宗教を信仰していたことから、二人の結婚は、世間から大きな注目を集めたといいます。
それでも、結婚当初、守屋浩さんと本間千代子さんは、
信仰の違いは問題にならない
と、語っていたといいます。
(最終的には、本間千代子さんが改宗し、結婚に至ったそうですが)

守屋浩さんと本間千代子さん。
ただ、そんな守屋浩さんと本間千代子さんも、1975年には離婚。
守屋浩さんと本間千代子さんは、二人揃って離婚会見を行っているのですが、離婚理由など、詳細は不明です。

離婚会見での守屋浩さんと本間千代子さん。
守屋浩は37歳の時に歌手業を引退し「ホリプロ」の取締役宣伝部長などを歴任していた
また、守屋浩さんは、1975年11月、79枚目のシングル「おかげ節」をリリースしたのを最後に、歌手業を引退すると、1976年3月には、「株式会社ホリプロ」で取締役宣伝部長に就任し、
同年(1976年)には、「ホリプロ」主催の「ホリプロタレントスカウトキャラバン」の発案、立ち上げに参加し、第1回では、実行委員長を務め、榊原郁恵さんなどのアイドルを発掘しています。
守屋浩の再婚相手は?
そして、1976年には、一般の女性と再婚しています。
ただ、守屋浩さんは、プライベートについて、ほとんど明かしていないため、馴れ初め、結婚に至った経緯、結婚後の夫婦仲など、詳細は不明です。
守屋浩の子供は?
また、守屋浩さんには、再婚相手との間に、男の子1人、女の子1の合計2人の子供がいるようですが、
奥さん同様、子供についても詳細は不明で、情報がないことから、芸能関係者ではないと思われます。
(前妻・本間千代子さんとの間には子供はいません)
守屋浩は48歳の時に歌手活動を再開していた
さておき、守屋浩さんは、1986年、48歳の時には、勤続10年で「ホリプロ」を退職して、歌手活動を再開していたそうで、
懐メロ番組や歌のステージなどに積極的に出演していたといいます。
また、その後、静岡県伊東市に移り住むと、カラオケ教室も開いていたといいます。
そして、2011年時点では、「ホリプロ」で、スカウト部長を務める傍ら、新人の発掘だけでなく、次代を担う若手歌手や社員の育成・指導も務めていたといいます。

「星空に両手を」を歌唱する守屋浩さんと島倉千代子さん。
守屋浩の死因は?
実は、守屋浩さんは、2008年頃、脳梗塞で倒れていたそうで、リハビリの末、復帰するも、病気の後遺症が残っていたといいます。
そんな中、テレビの音楽番組に積極的に出演し、ステージでは椅子に座って歌唱するなど、歌手活動を続けていたのですが、
2018年頃には、前立腺ガンになり、闘病生活を送るようになっていたそうで、2020年8月頃、静岡県内の施設に入ると、同年9月19日午後7時頃、家族に看取られて、81歳で他界されています。
(守屋浩さんは、「ホリプロ」の第1号タレントで、他界される2020年まで「ホリプロ」に在籍していました)
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