2020年秋頃、持病の心臓病が悪化し、療養を続けるも、同年12月、心筋梗塞により他界された、なかにし礼(なかにし れい)さんですが、
死後、遺族によって、未発表だった小説「血の歌」が出版されると、それまで素性が一切明かされず、謎に包まれていた孤高の歌手・森田童子さんが、なかにし礼さんの姪(実兄の次女)だったことが明らかになりました。
今回は、なかにし礼さんと森田童子さんの関係や、互いに、生涯、互いの関係を明かさなかった理由などについてご紹介します。

「なかにし礼の死因は?誤診で心臓病が悪化?ガンを2度克服していた!」からの続き
なかにし礼の姪で謎に包まれた歌手・森田童子について
まず、なかにし礼さんの姪・森田童子さんについて簡単にご紹介します。
森田童子さんは、なかにし礼さんの実兄・正一さんの次女として、1952年(1953年という説も)1月15日に誕生し、1975年に歌手デビューすると、
本名や素顔を一切公表せず、カーリーヘア、サングラスにマフラー姿という神秘的なスタイルで、「ぼくたちの失敗」「さよならぼくのともだち」などの名曲を次々と世に送り出すと、小さなライブハウスやテント公演で活動するなど、商業主義とは一線を画した姿勢を貫き、
青春の挫折や喪失を描いた歌詞と、透明感のあるか細い悲しげな歌声で、若い世代を中心に熱狂的な支持を獲得しました。

森田童子さん。
そして、1983年には、突然、引退しているのですが、1993年には、テレビドラマ「高校教師」の主題歌として、楽曲「ぼくたちの失敗」が使用されると、100万枚に迫る大ヒットを記録し、再ブレイク。
それでも、森田童子さんは、一切、表舞台には姿を表さず、その存在は謎のままで、2018年、素性を明かさないまま、心不全により、65歳で他界されていました。
なかにし礼は死後、遺族によって未発表だった小説「血の歌」が出版され森田童子が姪であることが明らかになっていた
そんな森田童子さんがなかにし礼さんの姪であることが明らかになったのは、2020年12月、なかにし礼さんが他界された後のことでした。
実は、なかにし礼さんが他界後の2021年夏、なかにし礼さんの妻・中西由利子さんが、別荘でなかにし礼さんの遺品を整理していると、机の引き出しの中から未発表原稿(鉛筆で書かれた四百字詰めの原稿用紙60枚)を発見したそうで、
長男の中西康夫さんが、2021年12月、「血の歌」として刊行しているのですが、
(長男の中西康夫さんによると、この原稿は、1998年に出版された「兄弟」の習作(下書き)で、1995年に執筆されたものだと推測されるとのこと)
この中で、森田童子さんがなかにし礼さんの実兄・中西正一さんの娘(次女)であることが書かれているのです。
(「兄弟」は、なかにし礼さんの兄・正一さんが、事業の失敗と弟名義の借金を繰り返して、なかにし礼さんを破滅へと追い込んでいく常軌を逸した姿を描いた小説)
ちなみに、中西康夫さんは、「血の歌」を刊行した理由について、
父の兄と、その子である「謎の歌手」との葛藤に満ちた関係が、時代背景とともに濃密に描かれていて、これは発表に値する作品ではないかと考えた
と、あとがきで明かしています。
なかにし礼が「血の歌」を執筆当時の1995年に発表しなかった理由とは?
また、そもそも、なぜ、なかにし礼さんは、執筆した「血の歌」を発表しなかったのでしょうか。
その理由について、なかにし礼さんの著書「兄弟」を担当した元文藝春秋の編集者・鈴木文彦さんは、
『兄弟』執筆の前、お兄さんが亡くなられる以前に、かなり感情移入の激しい習作を読んだ覚えがおぼろ気にあります。
当時、お兄さんをモチーフにしたいわゆる“兄モノ”の習作がいくつかあって、その一つが『血の歌』だったのではないでしょうか。森田童子については、兄の娘だとなかにしさんから直接うかがったことがあります。
『血の歌』はモデル小説の引きの強さがありますが、森田童子が存命だった執筆時点では、彼女のプライバシーにも配慮していたので、発表には至らなかったのではないかと思います。
結果として、お兄さんの死を待って長篇仕立てで『兄弟』に結実し、なかにしさんの代表作になっていきます
と、語っています。
つまり、なかにし礼さんは、自身との関係が世間に知られれば、森田童子さんのプライバシーや世界観(神秘性)に差し障ると判断して、「血の歌」は発表しなかったのかもしれません。
(森田童子さんは、なかにし礼さんが「血の歌」を執筆していた1995年は、既に音楽活動を引退した後だったのですが、1993年に「ぼくたちの失敗」がテレビドラマ「高校教師」の主題歌として使われたことから再ブレイク中でした)
なかにし礼は森田童子が15歳から19歳の時まで一緒に暮らしていた
そんななかにし礼さんと森田童子さんの関係ですが、なかにし礼さんは、「知りたくないの」「恋のフーガ」「天使の誘惑」などの歌詞が当たり、1968年、東京・中野に百十坪の家を建て、脳溢血の後遺症で半身不随となっていた母親と兄・中西正一さんの家族と共に住んでいたそうで、
この家で、なかにし礼さんと森田童子さん(15歳~19歳)は、4年間、一緒に暮らしていたといいます。
また、なかにし礼さんの兄・正一さんには2人の娘がいたそうですが、なかにし礼さんは、長女よりも次女の森田童子さんと気が合い、なにかにつけて、森田童子さんをかわいがっていたそうで、
森田童子さんもまた、なかにし礼さんの肩を揉んだりしていると、なかにし礼さんは、肩を揉まれながら、自分なりの作詞の秘密を語り聞かせていたのだそうです。
そのような影響もあってか、森田童子さんは、いつの間にか、ピアノやギターを習得していたそうで、なかにし礼さんとの交流が、創作活動の土壌となっていたようです。
ただ、この家も、正一さんの度重なる事業の失敗による借金返済のため、たった4年で手放さなければならなくなってしまい、家族は離散し、森田童子さんも、その後、恋人と同棲を始めていたといいます。
七五調を排除した独創的な言葉のリズムを大切にしつつ、作詞を文学のレベルにまで昇華させ、4000曲にも及ぶ作品を通じて、昭和、平成で、歌謡曲の黄金時代を築いた、なかにし礼(なかにし れい)さん。 そんななかにし礼さんには、 …
なかにし礼は森田童子の叔父であることを生涯隠していた
そんな中、森田童子さんは、1975年、音楽プロデューサーの松村慶子さんにより、「さよならぼくのともだち」でメジャーデビューを果たしているのですが、
(松村慶子さんは、なかにし礼さんに初めて歌謡曲の作詞を書かせた人で、1964年、「知りたくないの」(歌:菅原洋一さん)でなかにし礼さんを作詞家デビューさせています)
松村慶子さんによると、なかにし礼さんは、森田童子さんを「手に負えない才能だ」と高く評価し、自身の手で世に出し、サポートしたいとの思いがあったといいます。
ただ、森田童子さんは、
叔父さんの七光りで世に出たくない
と、思っていたそうで、
松村慶子さんも、
メジャー過ぎて、どこか体制的な匂いがする礼ちゃん(なかにし礼さん)の姪ということはマイナスで、童子を反体制、非体制な姿勢で売りたい
俗っぽいところではなく、もっとアングラでマイナーなところから出発させたい
と考え、
森田童子さんを、「孤高のシンガーソングライター」として売り出したのだそうです。
(大衆の心に響く歌謡曲の作詞家・なかにし礼さんの対極的な存在として)
ちなみに、「森田童子」という男性か女性か分からない芸名も、なかにし礼さんと松村慶子さんがアイディアを出して考えたものだったそうですが、
なかにし礼さんは、兄・正一さんにも、森田童子さんが自身の娘であることを公言することを、固く口止めしていたといいます。
そして、ついに、なかにし礼さんは、最後まで、森田童子さんとの関係について沈黙を守り続け、森田童子さんもまた、生涯、「反体制的」なイメージを保つため、商業的に成功した叔父との関係を一切、明かすことはなかったのでした。
(森田童子さんは、なかにし礼さんが他界する2年前の2018年に他界されています)
「なかにし礼の前妻(最初の妻)清水秀子との離婚理由の真実は?」に続く
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菅原洋一さんの「知りたくないの」、黛ジュンさんの「恋のハレルヤ」「天使の誘惑」、北原ミレイさんの「石狩挽歌」、黒沢年雄さんの「時には娼婦のように」、細川たかしさんの「北酒場」など、誰でも一度は聴いたことがあるだろうヒット …










