七五調を排除した独創的な言葉のリズムを大切にしつつ、作詞を文学のレベルにまで昇華させ、4000曲にも及ぶ作品を通じて、昭和、平成で、歌謡曲の黄金時代を築いた、なかにし礼(なかにし れい)さん。
そんななかにし礼さんには、14歳年上のお兄さん(正一さん)がいたそうですが、お兄さんは、戦後、様々な事業に手を出しては失敗し、その度に弟のなかにし礼さんに借金を被せていたそうで、
なかにし礼さんが売れっ子作詞家として稼いだ巨万の富のほとんどは、正一さんの借金返済に消えていたといいます。
今回は、そんななかにし礼さんの、兄・正一さんとの関係や、正一さんへの思いについてご紹介します。

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なかにし礼は当初は兄・正一は憧れの存在で自慢の兄だった
なかにし礼さんの両親は、戦前、満州で酒造業を興して大成功しているのですが、そんな中西家の中でも、長男である兄・正一さんは、文武両道で(勉強、音楽ともに優れていたそうです)、一家の誇りだったそうで、
幼いなかにし礼さんにとっても、憧れの存在で自慢のお兄さんだったそうです。
なかにし礼の兄・正一は戦後復員すると人が変わったように放蕩生活を送るようになっていた
そんな正一さんは、太平洋戦争が始まると、陸軍特別操縦見習士官として出征したそうですが、戦後(なかにし礼さん8歳)、復員し、北海道の小樽に引き揚げていた中西家に戻って来ると、
敗戦の影を引きずる他の復員兵たちと違って、まるで以前とは人が変わったように、チェックのオーバーコートを羽織り、足には磨き上げられてピカピカした靴を履き、
反米感情どころかアメリカ文化を楽しみ、朝から晩までダンスや洋楽に酔いしれる日々を送るほか、ビリヤードや麻雀などのギャンブルに明け暮れるなど、放蕩生活を送るようになったといいます。
なかにし礼の兄・正一はニシン漁の投資に失敗し担保にしていたなかにし家の自宅が失われていた
そして、同年、正一さんは、「今年は絶対にニシンが来る」という自分の勘を信じ込み、家族が住んでいた北海道・小樽の家を無断で担保に入れて、高利貸しから巨額の資金を借り、そのお金でニシン漁の網や権利(網元としての権利)を買い占め、勝負に出たといいます。
すると、大漁には恵まれたそうですが、正一さんは、それだけでは満足せず、わざわざ秋田の能代まで運んで高く売ろうとしたそうで、結果、ニシンはほとんど腐ってしまい、捨てなくてはならなくなったそうで、
この失敗により、担保に入れていた小樽の家は人手に渡り、一家は文字通り路頭に迷うことになってしまったのだそうです。
しかも、なかにし礼さんは、この時のことを、
僕は幼い頃にニシンが群来(くき)るのを見ている。本当に凄い。ソーランを歌いながら、浜にニシンが山と積み上がる。当時の値段で何十万円というニシンが次々浜辺に打ち上げられるの。
そして、とうとう兄貴はオババの印鑑を持ち出して、家を担保にして高利貸しから金を借りてニシンの網を買うんです。
兄貴は、船を借りて日本海に持っていけば値が3倍、1日の漁で3日分になると。この辺が僕が兄貴の真実がわからないところ。負けることが好きなのか? 欲が深すぎるのか? とにかくまた一勝負でる。
ドラマではなかったんだけど5隻で秋田の能代に向かうの。冬の日本海は荒れてるから、ニシンが白子から数の子から全部ゲロしちゃって、しかも積荷を捨てないと船が沈む危険から、ほとんど捨てて、船底にほんの1mぐらいニシンが残った状態で、
能代に入ったら『お疲れさまでした』と漁協ではなく農業組合に“畑の肥料”として二束三文で引き取られた。今の金で200万円ほど。本当は6000万になるはずだったのが……」
兄貴はその金(200万円)持って能代の女廊屋に上がって20日間ぐらい居続けて、全部すっかり使って帰ってきたのよ!
と、語っており、
家族が家を失い、泣いている中、なんと、正一さんは、残ったお金200万円を持って遊郭に泊まり込み、遊び尽くして帰ってきて、悪びれもせず「へへっ」と笑っていたというのです。
(なかにし礼さんは、兄の失敗そのものよりも、その後の兄の態度に「悪魔」だと感じたそうです)
なかにし礼の「石狩挽歌」は兄・正一がニシン漁で失敗した時の情景や心情が元になっていた
ちなみに、なかにし礼さんが、北原ミレイさんに作詞を提供した「石狩挽歌」は、この時の幼い記憶と正一さんが追いかけた「幻」を詞にしたもので、
歌詞の中に出てくる「オンボロロ」(古くなったニシン漁の網小屋)や、空っぽの海を見つめる情景は、この時の絶望的な実体験がベースになっているそうですが、
なかにし礼さんは、幼い日の記憶を「石狩挽歌」で表現したことについて、
昭和52年、僕は、「♪私バカよね~(細川たかし『心のこり』)」って書いたのがヒットしたわけ。ヒット曲の模範解答みたいな曲で。
でも、こんなことばっかやってちゃまずいなと思って、もう少し自分の人生とイコールの作品を作ってみたい。重みがありながら、我が家の貧困と流浪の歴史を他人が聴いて面白い歌にしたいなと思って書いたんです
と、語っています。

「石狩挽歌」
なかにし礼の兄・正一は様々な事業を立ち上げては失敗を繰り返していた
また、正一さんは、その後も、次々と無謀な事業を立ち上げては失敗し、生活は困窮していったそうで、
なかにし礼さんは、
兄貴は、押出しのある雰囲気でしたから、金のありそうな人のところに行って『一緒に仕事をやろう』と持ちかけると、相手は信用する。それで、兄貴は社長になって、相手が工面した金を使ってしまい、会社が潰れる。その繰り返しですよ
と、語っています。
なかにし礼は兄・正一から総額6億円の借金を背負わされ失踪されていた
さておき、やがて、なかにし礼さんは、作詞家として活躍するようになり、印税で豪邸を建て、家族と住んでいたそうですが、
正一さんは、なかにし礼さんに多額のお金を無心しては豪遊し、なかにし礼さんの印税の振込先を勝手に自分の口座へ書き換え、あろうことか、なかにし礼さんに生命保険をかけ、
挙句の果てには、事業失敗で膨らんだ4億円の負債と個人的な借金2億円をなかにし礼さんに背負わせたまま、失踪してしまったといいます。
(正一さんは、なかにし礼さんの名前で借金を繰り返していたそうです)
なかにし礼は兄・正一に絶縁を宣言していた
そんな中、なかにし礼さんは、必死に作詞を続け、豪邸を処分し、生活費に事欠く状態に陥りながらも、借金を完済し、ようやく生活を立て直したそうですが、
そんな頃、正一さんは、何食わぬ顔で戻ってきて、反省の色がないどころか、今度は、クラブの女性に入れあげ、2000万円もの借金を抱えていることが判明したそうで、
これまで、なかにし礼さんは、「兄弟の争いは母を悲しませる」と、お母さんを悲しませたくないとの思いから、耐え続けてきたそうですが、1977年にお母さんが亡くなったことをきっかけに、正一さんに絶縁を宣言したのだそうです。
なかにし礼は兄・正一の死に万歳していた
それから16年後の1996年、正一さんの訃報を知らせる電話があったそうですが、なかにし礼さんは、この時、「万歳!」と小さく叫んだそうで、
正一さんの葬儀が終わると、
兄貴、死んでくれて本当に、本当にありがとう
と、心の中で叫んだのだそうです。
なかにし礼の著書「兄弟」はテレビドラマ化もしていた
ところで、なかにし礼さんが正一さんに背負わされた借金は10億円を超えていたとも言われており、なかにし礼さんは、正一さんを激しく憎んでいたそうですが、
なかにし礼さんは、
平穏な生活をしながら作詞をしていたら、つまらない作品になっていたかもしれない
とも語っており、
正一さんによって借金地獄に突き落とされ、裏切られ、人間の醜い部分をこれでもかと見せつけられた経験は、なかにし礼さんの書く詞に、他の作詞家にはない「凄み」や「毒」、そして「真実の哀しみ」などを与えるほか、「人間の業」が色濃く表現され、なかにし礼さんの文学的才能を開花させたのかもしれません。
ちなみに、なかにし礼さんは、1998年、戦後、破滅的に生きる正一さんと、それに翻弄され、苦しめられる自身の姿を描いた自伝的小説「兄弟」を出版し、
翌1999年には、豊川悦司さん(なかにし礼さん役)、ビートたけしさん(正一さん役)でテレビドラマ化もされています。
「なかにし礼は「風吹ジュン誘拐事件」に関与していた?その真相は?」に続く
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