ミュージシャンから芸能プロモーターへと転身すると、日本の芸能界の近代化を成し遂げるほか、テレビ時代の到来を見抜いて数々のスターを世に送り出し、著作権ビジネスの確立や海外アーティストの発掘にも尽力するなど、「ナベプロ帝国」を築き上げ、日本のエンターテインメント界の礎を築いた、渡辺晋(わたなべ しん)さん。
今回は、そんな渡辺晋さんの、若い頃(「渡辺プロダクション」設立以降)から死去までの経歴を時系列でご紹介します。

「渡辺晋の家系図は?生い立ちは?大学時代からプロデュースの才能を発揮!」からの続き
渡辺晋は24歳頃、ミュージシャンの待遇改善や専門マネージャーの必要性を強く感じるようになっていた
渡辺晋さんは、1951年10月、24歳の時、「渡辺晋とシックス・ジョーズ」を結成し、横浜のライブハウス「ザンジバル」を拠点に活動していたそうですが、
当時の芸能界は、バンドリーダーが、演奏だけでなく、営業、ギャラの分配、スケジュール管理のすべてを一人でこなすのが通例だったことから、この”興行師”的な古い体質では、ミュージシャンが音楽活動に専念できないと、限界を感じていたほか、
ミュージシャンの生活は不安定で、社会的評価も高くなかったことから、ミュージシャンの待遇改善の必要性を強く感じていたそうで、
日本のポピュラー音楽の社会的評価を上げたい
音楽家たちの生活を保障したい
と、単に演奏するだけでなく、仕事を取り、出演を回し、音楽家の生活をどう守るかまで考えるようになり、
バンドが音楽に専念できるため、ビジネス面を統括する専門のマネージャーの必要性を感じるようになっていたといいます。
渡辺晋は24~25歳の時、曲直瀬美佐(後の妻)がマネージャーとなり「シックス・ジョーズ」の人気がNo.1となっていた
そんな中、渡辺晋さんは、1951~1952年頃、大学に通いながら複数の学生バンドを管理し、”学生マネージャー”として名を馳せていた、曲直瀬美佐(まなせ みさ)さんに、
うちのマネージャーもやってくれないか
と、依頼すると、
(曲直瀬美佐さんの両親は、「オリエンタル芸能社(のちのマナセプロダクション)」を営んでおり、芸能を「出演する側」ではなく、「動かす側」の感覚を持っていた人物で、曲直瀬美佐さん自身も、英語が堪能で進駐軍キャンプとの交渉術に長けていたそうです)
曲直瀬美佐さんは、当初は、週末だけの契約で、「シックス・ジョーズ」のマネージャーを引き受けてくれたそうですが、1952年以降、本格的にマネジメントに加わると、「シックス・ジョーズ」はまたたく間にスターダムへと駆け上がったそうで、
活動拠点は、横浜から東京に拡大し、1953年には、雑誌「スイング・ジャーナル」の人気投票の「コンボ部門」で第1位を獲得するなど、渡辺晋さんは、日本を代表するトップ・ジャズマンとしての地位を不動のものにしたのだそうです。

「渡辺晋とシックス・ジョーズ」
渡辺晋が人気絶頂期にバンドを解散してプロダクション設立へと舵を切った理由とは?
ただ、そんな人気絶頂の中、渡辺晋さんは、バンドを解散し、「組織(プロダクション)」の設立へと舵を切っているのですが、実は、象徴的な出来事が2つあったといいます。
ジャズブームの終焉
隆盛を極めたジャズブームが、1954年には翳(かげ)りが見え始め、翌1955年には、完全にブームが去り、多くのバンドが解散を余儀なくされたそうで、
渡辺晋さんは、この状況を目の当たりにし、ミュージシャンの生活を安定させるためには何が必要かを、より深く考えるようになったといいます。
元バンドメンバーの突然の入院
1954年には、「シックス・ジョーズ」から、テナーサックスの吉本栄さんとドラムスの南広さんが脱退し、2人は「バードランド・ファイブ」という新しいバンドを結成したそうですが、
「バードランド・ファイブ」は、地方公演の移動中に交通事故に逢い、メンバー全員が入院するという事態に見舞われたそうで、まだ、バンドを結成した直後の「バードランド・ファイブ」は、蓄えなどもない状態だったといいます。
そんな中、バンド仲間の面倒見のいい渡辺晋さんが、(彼らが自分のバンド「シックス・ジョーズ」を脱退した経緯も忘れて)知り合いのミュージシャンたちに寄付を募ったそうですが、それだけでは入院費は賄えず、
この時、「バードランド・ファイブ」の窮状を知った、マネージャーの山田通男さん(現・山田プロダクション代表取締役)も同様に寄付を募ったそうで、渡辺晋さんと山田通男さんが集めた見舞金で、「バードランド・ファイブ」は入院費を払うことができたそうで、
これらの出来事から、渡辺晋さんは、個人の善意だけでは限界があり、仲間を守るためには、組織としての保証制度が必要だと強く感じたのだそうです。
渡辺晋は27歳の時に「渡辺プロダクション」を設立していた
こうして、渡辺晋さんは、1955年1月、27歳の時、日比谷・三信ビル地階にあった「コンソール芸能社」の一角に、机4つを持ち込んで、事務所とすると、
曲直瀬美佐さん、山田通男さん、事務員の女性1人を加え、「渡辺プロダクション」を設立したそうで、
同年3月には、かねてより交際していた曲直瀬美佐さんと結婚したのだそうです。
渡辺晋は27歳の時に「渡辺プロダクション」設立と同時に近代的なシステムを導入していた
そんな渡辺晋さんは、「渡辺プロダクション」設立と同時に、近代的で、画期的なシステムを導入したといいます。
月給制の導入
当時のミュージシャンたちの報酬は、「一晩いくら」と、出演ごとに支払われていたほか、ステージに投げ込まれる、おひねり(チップ)という、不透明で不安定なものだったそうで、
渡辺晋さんは、「生活が安定してこそプレーに専念できる」という考えのもと、ミュージシャンが毎回の出演料だけで食いつなぐのではなく、安心して芸に打ち込める環境が必要だと考え、
「渡辺プロダクション」設立と同時に、従来の不安定な報酬体系を廃止し、ミュージシャン(所得者)が安心して芸に専念できるように「月給制」を導入したのだそうです。
組織的なマネジメント
また、渡辺晋さんは、
- 所属者をまとめて管理
- 出演の手配
- 収入の安定
- 歌手・作詞家・作曲家をプロダクションの傘下に集めていく
など、組織的なマネジメントを行ったそうで、
“個人の口利き”に頼っていた芸能界を、“組織的な事業”へと変えていき、歌手、作家、制作を傘下に置く、現代の芸能プロダクションのモデルを構築したのだそうです。
(このマネジメントが、多くのスターを輩出する礎となりました)
渡辺晋は34歳頃、テレビを使って「ハナ肇とクレイジーキャッツ」や「ザ・ピーナッツ」を爆発的にヒットさせていた
そして、渡辺晋さんは、妻の渡邊美佐さんと二人三脚で、芸能プロダクションの近代化を推し進めつつ、テレビという新しいメディアの可能性にもいち早く着目し、「ザ・ヒットパレード」(1959年)、「シャボン玉ホリデー」(1961年)といった音楽番組をプロデュースし、「シャボン玉ホリデー」から「ハナ肇とクレイジーキャッツ」や「ザ・ピーナッツ」を売り出すと、
爆発的にヒットさせて、最初の成功を収めており、これをきっかけに、ヒット曲とテレビの密接した関係を作り上げていったのでした。

「シャボン玉ホリデー」より。中央がハナ肇さん。その両側が「ザ・ピーナッツ」。
渡辺晋は30代頃、著作権ビジネスを収益の柱にしていた
また、渡辺晋さんは、レコード会社任せにせず、音楽出版と原盤制作まで自ら行ったそうで、
売れっ子ソングライター(作詞家・作曲家)のマネージメントも引き受けて、次々に優れた作品を世に送り出すと、ヒットさせ、それらの著作権をビジネスの収益の柱として確立し、
さらには、映画やコマーシャル制作、タレント養成学校、スタジオ経営など、関連のある事業を積極的に展開したのでした。
渡辺晋は48歳の時にロックバンド「クイーン」を世界に先駆けて日本でブレイクさせていた
そんな渡辺晋さんは、今や世界的なロックバンドとなっている「クイーン」を、世界に先駆けて日本で売り出し、爆発的な人気を獲得することに成功しています。

「クイーン」
というのも、「渡辺プロダクション」は、1973年、沢田研二さんの海外進出を狙っていたことから、その活動拠点としてロンドン支社を開設したばかりだったそうで、1973年5月、渡辺晋さん(46歳)は、妻の渡邊美佐さんとロンドンを訪れていたそうですが、
(渡辺晋さんは、「渡辺プロダクション」を設立した時から、「日本の音楽を世界に」という夢を抱いており、日本国内でのビジネスの拡大に成功すると、次に、海外への進出を企画したそうで、そのために白羽の矢を立てたのが、「ザ・タイガース」を解散し、ソロとなった沢田研二さんだったのだそうです)
レコーディングで提携していた「トライデント・スタジオ」の社長が、
うちのタレントを日本で売り出してみる気はないか
と、言いながら、数組の新人アーティストの写真を見せてきたそうで、
その中から、渡辺晋さんが、
よし、これをやろう
と、直感で引き抜いたのが、まだデビューアルバムすら発売前だった「クイーン」というグループだったといいます。
ちなみに、元ジャズマンである渡辺晋さんが、「クイーン」の音源をレコードで聴き、
クラシックの基礎がしっかりしており、歌唱力が素晴らしい
と、その音楽性を高く評価すると、
妻の渡邊美佐さんは、この直後に、エリザベス女王の初来日が予定されていたことから、グループ名との相乗効果に勝機を見出したそうで、
(当時の「クイーン」は、本国イギリスではメディアから酷評され、アメリカの発売元でもあるレコード会社「WEA」(現在のワーナー・ミュージック・グループ)も全く興味を示さないような状態だったそうです)
1974年5月、「クイーン」がアメリカで「モット・ザ・フープル」の前座としてツアーに同行することになると、渡辺晋さんが社長を務めていた「ワーナー・パイオニア」が、日本から5人ものマスコミ関係者を現地へ送り込んだそうですが、
(「渡辺プロダクション」は、ワーナー・ミュージック・グループの「WEA」、オーディオ機器メーカー「パイオニア」と、1970年、合弁会社「ワーナー・ブラザーズ・パイオニア株式会社」を設立し、1972年に、「ワーナー・パイオニア株式会社」に改称しています)
アメリカ側の担当者は、
なぜ無名のバンドに5人も取材に来るんだ?
と、驚いたそうで、
スタッフが、
クイーンのアルバムを日本で発売するので、その取材と調査を兼ねている
美佐(夫人)の意向だ
と、言ったそうですが、
実は、「ワーナー・パイオニア」のスタッフたちも十分な自信を持っていなかったのだそうです。
ただ、渡辺晋さんの戦略は、
まず日本で火をつけ、その熱狂を世界へ逆輸入する
というものだったそうで、
「クイーン」のルックスと音楽性を雑誌「ミュージック・ライフ」との巧みな連携により押し出すと、見事、日本の若い女性ファンの心を掴み、
1975年4月17日、「クイーン」が初来日を果たすと、羽田空港には1,000人(一説には3,000人)ものファンが詰めかけたのだそうです。
(その熱狂をイギリスのメディアが「日本で大変なことが起きている」と逆取材して報じたそうです)
そんな経緯から、「クイーン」のメンバーたちは、日本人が、自分たちの音楽性やステージ・ショーを深く理解し、愛してくれたことに深い感銘を受け、日本に対して特別な思い入れを持っているそうで、
日本のファンは自分たちを最初に認めてくれた
と、語っています。
(当時の日本では「ロックは一部の男性ファンのもの」という風潮があったことから、大手プロダクションがロックバンドを単独で招聘するのは異例のことで、実際に初来日公演は赤字だったと言われていますが、渡辺晋さんはそれを承知の上で、「鋭い直感と奔放な発想」を貫いたのでした)

「クイーン」のボーカルのフレディ・マーキュリーさんと渡邊美佐さん。
渡辺晋が46歳頃、絶対的な権力を持つ”ナベプロ帝国”は崩壊していた
しかし、そんな「渡辺プロダクション」も、1970年代に入った頃から、その勢いに翳(かげ)りが見え始めていたといいます。
というのも、1971年には、日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」が人気を集めるようになったことから、
(番組でグランプリに輝いた森昌子さんは、ホリプロが獲得しスターになっていました)
渡辺晋さんが、
テレビ局に主導権を握られる(芸能プロダクションの力が弱くなる)
と、強い危機感を抱き、
1973年には、NET(現・テレビ朝日)で「スター・オン・ステージ あなたならOK!」を企画し、月曜日20時から21時の放送枠で開始したそうですが、
裏番組の日本テレビの「紅白歌のベストテン」には、渡辺プロダクションの歌手が多数出演していたことから、慌てた日本テレビのプロデューサーが、(放送日を変えるように)協力を求めてくると、
渡辺晋さんは、
そんなにうちのタレントが欲しいのなら、日本テレビの「紅白歌のベストテン」が放送日を替えりゃいいじゃないか
と、言い放ったそうで、
この奢り(おごり)とも言える発言が、日本テレビ制作局次長の井原高忠氏の激昂を招き、井原高忠氏は、当時、新興だった「ホリプロ」の堀威夫さん、「第一プロダクション」の岸部清さん、「サンミュージック」の相澤秀禎さん、「田辺エージェンシー」の田邊昭知さんといった他プロダクションの社長たちを集め、
ナベプロは日本テレビに出ない。よって、あなたたちの協力がいる。その代わり、スター誕生で作ったスターは各社にお渡しする。
と、「渡辺プロダクション」を日本テレビから締め出したのでした。
結果、「スター・オン・ステージ あなたならOK!」は、わずか半年で終了してしまい、その一方で、「スター誕生!」からは、山口百恵さん、桜田淳子さん、ピンク・レディーなどの大スターが続々と誕生したそうで、
“ナベプロ帝国”と言われ、絶対的な力を持っていた「渡辺プロダクション」の天下は終焉したのだそうです。
(「渡辺プロダクション」は大手芸能プロダクションの1つとなったのでした)
ちなみに、同じ頃、「渡辺プロダクション」の強さの源泉であった優秀な社員たちも次々と独立して、
- イザワオフィス
- アミューズ
- プロダクション尾木
- アトリエ・ダンカン
など、自らプロダクションを設立しており、
これらのことも、”ナベプロ帝国”が崩壊した大きな要因となったと言われています。
(独立した者たちは、「渡辺プロダクション」で培ったマネジメントや商売のノウハウを新会社に持ち込んだそうで、これには、古巣「渡辺プロダクション」から、「商売敵」と批判されることもあったそうですが、結果として、”ナベプロ”のDNAが芸能界全体に広がったのでした)
渡辺晋の死因は?
そんな中、渡辺晋さんは、1970年に皮膚ガンを発症していたそうで、
一時は寛解したかと思われるも、1974年には再発すると、放射線(コバルト)照射を受けたそうですが、副作用により、左目を失明するほか、
思考が停止してしまう
と漏らすほど、四六時中、激しい頭痛に襲われたそうで、
経営者として脂の乗った50代という若さでありながら、病による消耗が激しく、その姿はかつての覇気を感じさせないほど、痛々しく老け込んで見えたといいます。
それでも、渡辺晋さんは、ゴルフ場に立ち、華やかなパーティーにも顔を出すなど、自らが築き上げたプロダクションのトップとして、表舞台に立ち続けたそうですが、
1987年1月31日、急性心不全により、59歳という若さで他界されたのでした、
ちなみに、渡辺晋さんは、臨終の際、ジャズシンガーを目指していた長女の渡辺ミキさんに、「シャボン玉ホリデー」のエンディング曲であり渡辺プロの象徴的な曲である「スターダスト」を枕元で歌うように望んだそうで、このスタンダードナンバーを聞きながら、永眠したと言われています。
渡辺晋の受賞・受章歴
そんな渡辺晋さんは、
- 1986年「藍綬褒章受章」※芸能産業界初の受章者
- 1987年「勲四等瑞宝章受章」
- 1987年「年間最優秀プロデューサーを選ぶ会特別賞受賞」
- 1987年「藤本真澄賞特別賞」
- 1987年「日本作曲大賞音楽文化賞」
- 1987年「日本レコード大賞文化賞」
など、数多くの、賞や勲章を受賞・受章しています。
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