26歳で「渡辺エンタープライズ」社長に就任すると、父・渡辺晋さんの死後は、グループ再建に奔走して数々の人気タレントを育て、現在は、「ワタナベエンターテインメント」代表取締役社長を務めている、渡辺ミキ(わたなべ みき)さん。
そんな渡辺ミキさんは、両親の影響で、幼い頃から、エンターテイメントが身近にある、華やかな家庭環境で育ったそうですが、周囲が光り輝くスターばかりという環境の中、自分はつまらない人間だと思い込み、目立つことが嫌いな、暗い少女時代を過ごしていたといいます。
ただ、小学3、4年生の時、担任の先生がかけてくれた言葉で少しずつ変わり始めると、中学生の時には、演劇部に入部し、裏方の音響効果を担当したことがきっかけで、ものづくりの楽しさに目覚めたといいます。
今回は、渡辺ミキさんの生い立ち(幼少期~大学時代)を時系列でご紹介します。

渡辺ミキのプロフィール
渡辺ミキさんは、1960年4月23日生まれ、
東京都の出身、
学歴は、
日本女子大学附属豊明幼稚園
⇒日本女子大学附属豊明小学校
⇒日本女子大学附属中学校・高等学校
⇒日本女子大学文学部国文学科卒業
ちなみに、本名は、「吉田美樹」(旧姓は「渡邊美樹」)で、お父さんは、芸能プロダクション「渡辺プロダクション」の創業者で元社長の渡辺晋さん、お母さんも、「渡辺プロダクション」創業者で、名誉会長の渡邊美佐さん、妹も、芸能プロダクション「トップ・コート」の代表取締役の渡邊万由美さんと、芸能プロダクション一族です。
渡辺ミキが幼い頃はスターが出入りする華やかな環境で育つ一方で祖母に厳しく育てられていた
渡辺ミキさんは、お父さんの渡辺晋さんとお母さんの渡邊美佐さんのもと、2人姉妹の長女として誕生すると、幼い頃は、家にスターが出入りする、華やかで活気あふれる環境で育ったそうですが、
仕事で忙しい両親に代わって、同居していた父方の明治生まれのおばあちゃんに厳しく育てられたそうで、
おばあちゃんにはいつも、
あなた達はゼロから学ぶために、当たり前の環境の中で学んで行かなくてはならないのだから、けじめをつけましょう
と、言われていたそうです。
ちなみに、お父さんである渡辺晋さんは、とても心が大きく、温かい人だったそうですが、けじめがついていないと、すごく叱られたそうで、特に、学校選びや仕事に関係することには厳しかったそうです。

渡辺ミキさんの家系図。
渡辺ミキが幼い頃はスターが出入りする家庭環境で育っていた
そんな渡辺ミキさんは、物心がついた頃には、日本劇場(日劇)や国際劇場に連れて行ってもらったり、お父さんが「ザ・ヒットパレード」に出演する姿をテレビで見ていたり、
梓みちよさんや中尾ミエさんらタレントが家に同居していたり、アイドル雑誌の取材で記者が家に来て、庭で写真を撮り、小道具として子供が必要な時に呼ばれたりしていたことから、
家が芸能の仕事をしていることを自然に感じ取っていったそうで、知らず知らずのうちに、エンターテイメントの世界の中で育ったそうです。
(渡辺ミキさんが幼い頃は、お母さんがずっと働いていたことから、大きくなるにつれて、友達のお母さんと比較し、自分の家が特殊だということが、だんだん分かってきたそうですが、渡辺ミキさんにとっては、生まれた時から、それが普通だったことや、おばあちゃんがしっかりと育ててくれたことから、不満を感じることはなかったそうです)
渡辺ミキの少女時代は「自分はつまらない人間だ」と思い込み目立つことが嫌いだった
ただ、少女時代には、母・渡邊美佐さんをはじめ、周囲が光り輝くスターばかりだったことで、「自分はつまらない人間だ」と思い、周囲が期待する「華やかなイメージ」と、内面にある「自信のなさ」のギャップに苦しんだといいます。
しかも、1960~1970年代は、芸能界が今よりももっと注目されていた時代だったこともあり、”ナベプロの娘”というだけで(沢田研二さんではないのに、沢田研二さんであるかのように見られてしまい)上級生が渡辺ミキさんを見物に来たそうで、
それが恥ずかしくて、本当に嫌で、目立たないように、あえて地味でダサい格好をして自分を隠そうとしていたのだそうです。
(小学校時代は、授業中に手を挙げることもできないほど、目立つことが嫌いな子供だったそうで、日々、「(授業が)早く終わらないかな」とやり過ごすことしかできず、自分の存在意義を見いだせないまま、空虚な時を過ごしていたそうです)
渡辺ミキは小学3、4年生の時に担任の先生に「ありのままのあなたでいい」と言われ少しずつ変わっていった
こうして、自分の人生の目的が見えないまま、つまらない日々を送っていたという渡辺ミキさんですが、
小学3、4年生の時、担任の先生が、特別扱いせずに、
ありのままのあなたでいい
と、ざっくばらんに接してくれたことで、少しずつ変わっていったそうです。
渡辺ミキは中学で演劇部に入部して音響効果を担当したことがきっかけで「ものづくり」の喜びに目覚めていた
そして、中学校に進学すると、演劇部に入部したそうですが、(役者の)オーディションに落選してしまい、音響効果の係(裏方)を担当することになったそうですが、
分からないながらも、音響効果という裏方をやるうちに、一つのものを作り上げるために、不特定多数の人間が集まって役割分担し、全員で一つの目標に向かう「ものづくり」の喜びに目覚めたそうで、
渡辺ミキさんは、その時のことを、
たった一回の公演で「何て人生は楽しいの!」と、周りの世界が急に白黒からカラーの世界に変わったんです(笑)。それによって勉強さえも楽しくなりました。
と、語っており、
中学3年の時には、演劇部の部長を務めるほか、演出、役者も務めたそうで、ものづくりに関われることが本当に楽しくて仕方なくなったのだそうです。
渡辺ミキは大学時代には早稲田大学の演劇サークル「テアトル50」に参加していた
そんな渡辺ミキさんは、高校時代も演劇を続け、大学では演劇サークルがなかったため、早稲田大学の「テアトル50」という演劇サークルに参加し、アルバイトをしながら演劇活動を続けたそうですが、
決して女優になりたかったわけではなく、むしろ、舞台で裏方をしたいと思っていたといいます。
ただ、裏方の何になりたいのか、何に向いているのか、自分でも分からない状態だったそうで、
しかも、オーディションに参加できるのは、役者しかなく(裏方のオーディションはないという意味)、どうやって演劇や舞台の世界に入っていけばいいのか分らなかったことから、とりあず、オーディションを受けていたそうですが、落ちてばかりいたそうです。
渡辺ミキは20歳の時にミュージカル「HAIR」で女優として初舞台を踏んでいた
それでも、大学在学中の1980年、20歳の時、ミュージカル「HAIR」のオーディションを受けると、見事、合格し、女優として初舞台を踏んだそうで、
この頃、ジャズのボーカルとしても活動したのだそうです。
「渡辺ミキ(ナベプロ)の若い頃から現在までの経歴は?夫は吉田正樹!子供は?」に続く
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エンターテイメントが好きで、大学卒業後は、経営を学びながら舞台のプロデュースを手掛けるも、1986年、26歳の時、「渡辺プロダクション」の創業者である、父親の渡辺晋さんが余命1か月と宣告されたことがきっかけで、「渡辺プロ …







