エンターテイメントが好きで、大学卒業後は、経営を学びながら舞台のプロデュースを手掛けるも、1986年、26歳の時、「渡辺プロダクション」の創業者である、父親の渡辺晋さんが余命1か月と宣告されたことがきっかけで、「渡辺プロダクション」の系列会社、「渡辺エンタープライズ」の社長に就任すると、

翌年の1987年、渡辺晋さんが死去したことで、「渡辺プロダクション」本社の取締役にも就任した、渡辺ミキ(わたなべ みき)さん。

今回は、そんな渡辺ミキさんの、若い頃(大学卒業後)から現在までの経歴、夫や子供についてご紹介します。

渡辺ミキ

「渡辺ミキ(ナベプロ)の生い立ちは?幼少期は?大学ではテアトル50に参加!」からの続き

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渡辺ミキは大学卒業後はアルバイトをしながらミュージカル制作に没頭していた

中学、高校、大学と、演劇活動を続けていた渡辺ミキさんは、大学卒業後は、就職せず、アルバイトをしながら、演出家の宮本亜門さん、振付師の五十嵐かおるこさん、南流石さん、ラッキィ池田さん達とミュージカルの制作集団を結成し、「日本のオリジナル作品を作りたい」と考えたそうで、

その前段階として、過去のブロードウエイ・ミュージカルの名作の連続上映をすることにしたそうですが、資金繰りや集客の壁にぶつかったそうで、

お父さんである渡辺晋さんに相談したところ、

渡辺晋さんからは、

企画にヘソ(核心)がない

と、一喝され、

渡辺ミキさんは、人は「なるほど」と思っても、正論だけでは動かず、「観たい」と思わせる魅力と、資金を集めるための具体的な戦略が必要であることを痛感したそうです。

渡辺ミキは資金難を打開するために「バッカーズ方式」(投資型支援))を考案していた

そこで、渡辺ミキさんは、まず、資金難を打開するため、いろいろ考えた結果、アメリカの投資システムを応用したアイデアとして、現代のクラウドファンディングやファンドの先駆けともいえる「1口10万円の出資システム」(「バッカーズ方式」(投資型支援))を考案し、渡辺晋さんに提案したところ、

渡辺晋さんには、

おもしろい

誰もやっていない切り口

と、評価されたそうで、

渡辺ミキさんは、その時のことを、

今から22年くらい前の話ですから早かったかもしれませんね。ですから父は「No」を言い続けるだけでなく、新しいアイデアや自分の興味を惹くことに対しては、きちんと評価をしてくれました。

また、「人と同じことをしていても駄目」ということと、「勝たなければ意味がない」ということはよく言われましたね。

と、語っています。

ちなみに、自らプロデュースを手掛けたミュージカルは、なんとか上演にこぎつけ、無事、終了したそうですが、

内容的には、成功とは言い難く、公演の宣伝も、やりながら方法論を知るような状態だったほか、取材をしてもらえても掲載されるとは限らないなど、いろいろなことが勉強になったといいます。

渡辺ミキは22歳頃に父・渡辺晋から喫茶店の経営を命じられていた

また、渡辺ミキさんは、ミュージカルの上演と前後して、

渡辺晋さんに、

これだけはやらないともう家には置かない

と、喫茶店の経営を命じられたそうで、

渡辺ミキさんは、エンターテイメントの仕事ではないため、当初は抵抗したそうですが、

数字の基本だけでも勉強しておきなさい

と言われ、渋々、引き受けると、

華やかな世界とは対極にある現場で、原価、客単価、バランスシートといった、「経営の基本」を徹底的に叩き込まれたといいます。

(渡辺ミキさんは、コーヒの値段は消費者としてよく知っていても、その値段の中に何が入っているのかは、この時まで全く知らなかったそうで、一から覚えていったそうです)

渡辺ミキは26歳頃、舞台制作を封印しゼロから勉強し直そうと思っていた

すると、そこで、少しだけ、経営のおもしろさを感じたそうで、22歳~26歳まで、お店の経営をやりつつ、舞台も2公演プロデュースしたそうですが、

この2つの公演は、どちらも失敗に終わってしまったそうで、

渡辺ミキさんは、2回目が大失敗した時、

本当はピラミッドの底辺を支える人間になりたかったのに、これでは単に傍(はた)迷惑な人間だ・・・

と、思い、舞台を一度封印し、エンターテイメント業界の中で一番優秀な人が集まっているところで、ゼロから勉強し直そうと思ったのだそうです。

渡辺ミキは26歳の時に「渡辺エンタープライズ」の社長に就任していた

しかし、その矢先、お父さんの渡辺晋さんがガンに冒され、余命1か月であることを、お母さんの渡邊美佐さんから聞かされたそうで、

渡辺ミキさんは、「渡辺プロダクション」に入るつもりは全くなかったそうですが、1986年、26歳の時、「渡辺プロダクション」の系列会社「渡辺エンタープライズ」の社長に就任したのだそうです。

実は、渡辺晋さんは、その2年前に手術を受けていたのですが、渡邊美佐さんは、「完治するに違いない」と信じ続け、病気がガンであることを伏せていたのだそうです。

ただ、医師に余命宣告され、「もうダメかもしれない」と娘2人に打ち明けたそうで、渡辺ミキさんは、この時、初めて、渡辺晋さんがガンであることを知ったのだそうです。

渡辺ミキは26歳の時、父・渡辺晋の死をきっかけに「渡辺プロダクション」本社の取締役にも就任

そして、1987年1月31日、渡辺晋さんが、突然、他界したそうですが、カリスマ創業者である渡辺晋さんの突然の死は、家族のみならず、様々な人たちの人生のバランスが失われるほど、組織に計り知れない衝撃を与えたそうで、

渡辺ミキさんは、「渡辺晋社長」の喪失によって、初めて”世界の冷たさ”を痛感し、いかに、「渡辺晋社長」という存在がみんなを温かく守っていたかを知ったといいます。

また、渡辺ミキさんは、お父さんの死をきっかけに、「渡辺プロダクション」本社の取締役にも就任したそうですが、

適性云々ではなく、会社を存続させるため、「娘である」という理由だけで、お父さんが役員を務めていた全関連会社の役員に妹と共に名を連ねることになったそうで、

自ら望んだ道ではなく(つまり、後を託されたわけではなく)、仕方なくといった状況だったため、「これからどうすべきか」との思いでいっぱいだったそうです。

それでも、以前からグループ会議に出席し、各社のバランスシート(貸借対照表)をチェックしていたため、グループ全体の財務状況を理解していたことや、

業績の悪い子会社を整理すれば、その負債が親会社に跳ね返ってくる構造は理解していたことから、会社の体質改善を急がなければ会社が倒れるという強い危機感を持ち、

「自分にはまだ力はない」と自覚した上で、まずは売上と利益を上げることだけに集中し、脇目も振らずに邁進することを決意し、行動に移したそうで、

渡辺ミキさんは、

とにかく会社のお金を使わないで利益を上げて借金を返すという大変シンプルな目標に向かって仕事をしていました。

もちろんお客様の幸せがなければ利益は上がりませんから、スターや売れる人を作るという意識はありましたが、「いいものを作れば、みんなが最終的には喜べる」みたいな甘いことは言っていられなかったです。

肩に力を入れすぎて、すごく遠回りもしましたし、必要のないぶつかり合いもたくさんしたと思います。その頃はバブル景気の真っ直中だったんですが、私はまるで戦後まもない頃のような気分でガツガツ仕事をしました。

あの当時の私は全くエレガントとは程遠く。まあ、今も違いますが(笑)。そのことは決して褒められたことじゃないと思いますし、尊敬もされないと思いますが、信念を持って仕事ができたので、結果的に短期間で仕事を覚えましたね。

と、語っています。

渡辺ミキは29~30歳の時に吉田栄作をプロデュースし一大ブームを巻き起こしていた

そんな渡辺ミキさんは、1989年~1990年代初頭にかけて、吉田栄作さんをプロデュースし、一大ブームを巻き起こすなど一時代を築くと、そのほかにも、松本明子さん、中山秀征さん、飯島愛さん、ネプチューン、RAG FAIR、波田陽区さん、青木さやかさん、アンガールズなどのプロデュースを手掛け、

2000年には、「渡辺プロダクション」からマネージメント部門を独立させ、「ワタナベ・エンターテインメント」を設立すると、

  • 2004年4月には、「ワタナベエンターテイメントカレッジ」
  • 2004年10月には、「ワタナベコメディスクール」

を設立し、理事長に就任しています。

渡辺ミキの現在は?

近年、渡辺ミキさんのメディア露出は控えめですが、お母さんである渡邊美佐さん(現・取締役名誉会長)が築いた「ナベプロ」の伝統を継承しつつ、若手タレントの選抜や育成システム(ワタナベエンターテイメントカレッジ等)の指揮を執っており、

現在もなお、渡辺ミキさんは エンターテインメント業界で大きな影響力を持っています。

渡辺ミキの夫は?

ところで、渡辺ミキさんは、元・テレビプロデューサーで、現在、「ワタナベエンターテインメント」代表取締役会長の吉田正樹さんと結婚しているのですが、馴れ初め、結婚に至った経緯などは不明です。

ただ、渡辺ミキさんは、青木さやかさんとの対談で、

青木さやかさん:仕事の悩みは仕事で解決されるんですね。社長は結婚されていて“妻”でもあるわけですよね。これまでのお話を聞いていると1に仕事、2に仕事という感じですが、社長と妻の役割バランスはどんなふうにとっているんですか?

渡辺ミキさん:妻としてやらなければいけないことの優先順が高いものは、もちろんそちらをやります。ただ、仕事とプライベートの線引きという意味では、見事にできていないですね。それは、天職だと思えることを仕事にできているということであり、幸せなことだと考えています。

と、語っているほか、

夫・吉田正樹さんとの会話が、「ワタナベエンターテイメント」のタレントの話がほとんどで、

私の仕事は、人を活かす仕事だと思っているんです。もちろん、社員も含めてね。だけど人を活かすって相当高度な技術が必要だから、夫である吉田さんとも自然と仕事の話が多くなりますよね。

お互いの関係性も含めて、人を活かすことを通じて、自分の人生を磨かせてもらっている感じかもしれません。

と、語っていることから、夫婦関係は良好のようです。

(吉田正樹さんは、「オレたちひょうきん族」「森田一義アワー 笑っていいとも!」「夢で逢えたら」「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」など、人気のバラエティ番組を数多く手掛けました)

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渡辺ミキの子供は?

渡辺ミキさんは、子供について、ほとんど語っていないようで、子供がいるかは不明です。

もし、子供がいるとしても、情報がないことから、芸能関係者ではないと思われます。

さて、いかがでしたでしょうか。

渡辺ミキさんの、

  • 渡辺ミキ(ナベプロ)の生い立ちは?幼少期は?大学ではテアトル50に参加!
    • 渡辺ミキのプロフィール
    • 渡辺ミキが幼い頃はスターが出入りする華やかな環境で育つ一方で祖母に厳しく育てられていた
    • 渡辺ミキが幼い頃はスターが出入りする家庭環境で育っていた
    • 渡辺ミキの少女時代は「自分はつまらない人間だ」と思い込み目立つことが嫌いだった
    • 渡辺ミキは小学3、4年生の時に担任の先生に「ありのままのあなたでいい」と言われ少しずつ変わっていった
    • 渡辺ミキは中学で演劇部に入部して音響効果を担当したことがきっかけで「ものづくり」の喜びに目覚めていた
    • 渡辺ミキは大学時代には早稲田大学の演劇サークル「テアトル50」に参加していた
    • 渡辺ミキは20歳の時にミュージカル「HAIR」で女優として初舞台を踏んでいた
  • 渡辺ミキ(ナベプロ)の若い頃から現在までの経歴は?夫は吉田正樹!子供は?
    • 渡辺ミキは大学卒業後はアルバイトをしながらミュージカル制作に没頭していた
    • 渡辺ミキは資金難を打開するために「バッカーズ方式」(投資型支援))を考案していた
    • 渡辺ミキは22歳頃に父・渡辺晋から喫茶店の経営を命じられていた
    • 渡辺ミキは26歳頃、舞台制作を封印しゼロから勉強し直そうと思っていた
    • 渡辺ミキは26歳の時に「渡辺エンタープライズ」の社長に就任していた
    • 渡辺ミキは26歳の時、父・渡辺晋の死をきっかけに「渡辺プロダクション」本社の取締役にも就任
    • 渡辺ミキの現在は?
    • 渡辺ミキの夫は?
    • 渡辺ミキの子供は?

について、ご紹介しました。

渡辺晋さん、渡邊美佐さんという芸能界の大きな存在を両親に持ち、大学在学中より、裏方としてのものづくりの喜びや経営感覚を身につけていくと、

父の死という大きな転機を乗り越えた後は、「ナベプロ」グループを支え、吉田栄作さんをはじめ数多くの才能を世に送り出すなど、日本のエンターテインメント界に確かな足跡を残してきた渡辺ミキさん。

そんな渡辺ミキさんは、近年は表立ったメディア露出こそ多くないものの、現在も若手タレントの発掘・育成を通じて芸能界に強い影響力を持ち続けており、名門プロダクションの伝統を受け継ぐ女性経営者として、今もなお大きな存在感を放っています。

お読みいただきありがとうございました

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