テレビ、映画、CM、アニメなどで、ジャンルを問わず、数多くの作曲を手掛けるほか、当時、日本ではほとんど知られていなかったシンセサイザーの分野でも、世界的な功績を残した、冨田勲(とみた いさお)さん
そんな冨田勲さんは、幼い頃、紡績会社(鐘紡)の嘱託医だったお父さんの転勤で、中国に住んでいた時、お父さんに連れられて、北京市天壇公園にある「回音壁(かいおんぺき)」を訪れると、壁の向こうの思いがけない方向から音が聞こえてくる不思議な体験をしたことがきっかけで、音に興味を持ったそうで、
戦争の影響で、一旦は、音楽への興味が薄れるも、中学1年生の時、終戦を迎えると、進駐軍のラジオから流れてくる音楽を聴いて、再び、音楽に興味を持ったといいます。
今回は、冨田勲さんの幼少期(生い立ち)から大学時代までをご紹介します。

冨田勲のプロフィール
冨田勲さんは、1932年4月22日生まれ、
東京府豊多摩郡(現・東京都杉並区)の出身、
学歴は、
本宿村立本宿尋常小学校
⇒愛知県岡崎中学校
⇒愛知県立岡崎高等学校
⇒慶應義塾高等学校(編入)
⇒慶應義塾大学文学部哲学科美学美術史学専攻卒業
だそうです。
冨田勲の先祖は徳川幕府の旗本の代官から医者に転身していた
冨田勲さんの先祖である冨田家は、徳川幕府の旗本・柴田氏の三河国本宿(現在の愛知県岡崎市)の領地の代官を代々務めた家柄で、明治維新の混乱で、一時、家運が傾くも、その後、家業を医者へと転換したことで家を再興させたそうで、
冨田勲さんの祖父・冨田丈次郎さんは、愛知県額田郡本宿村で病院を開業し、冨田勲さんの父・清さんが2代目院長、冨田勲さんの弟・冨田実さんが3代目院長という、医師の家系です。
(ちなみに、柴田氏は、戦国時代の武将・柴田勝家の子孫だそうです)
冨田勲は幼少期、父親の転勤で日本と中国を行き来していた
冨田勲さんは、当時、紡績会社(鐘紡)の嘱託医だったお父さんの清さんのもと誕生すると、
4歳の時には、お父さんの転勤で、中華民国青島に移り住み、その後、山口県防府市⇒中華民国北京と移り住んだそうです。
冨田勲は幼少期の「回音壁」での体験をきっかけに音響に興味を持つようになっていた
そんな冨田勲さんは、中国・北京で暮らしていた時(6歳)のこと、お父さんに連れられて、北京市天壇公園にある「回音壁(かいおんぺき)」を訪れたことがあったそうですが、
そこで、壁の向こうの思いがけない方向から音が聞こえてきたことに強く心を奪われたそうで、以来、氷の上に乗るとピピピと走る音、やまびこ、雷、蒸気機関車の汽笛などの音の響きにも興味を持つようになったそうで、
冨田勲さんは、
父の仕事の関係で、一時期北京に移り住んだとき、「回音壁」という丸い巨大な壁に出会いました。湾曲した城壁がくねくねと続いていて、音が反響するんですね。幼い頃のこの体験が音響というものに興味を持つきっかけだったと思います。
と、語っています。
ただ、お父さんは、冨田勲さんが音楽に興味を持っていることに気づきつつも、冨田勲さんを医者にするつもりだったことから、音楽は習わせてくれなかったそうです。
冨田勲は7歳の時に帰国するも戦時下の日本では軍歌、唱歌、行進曲ばかりで音楽への興味が薄れていた
そんな中、冨田勲さんは、1939年、7歳の時には、家族とともに日本に帰国したそうですが、
戦時下の日本では、軍歌、唱歌、行進曲ばかりが流され、ピアノの音を鳴らすだけでも、「非国民」と言われ、石を投げられたことから、やがて、音楽に対する興味は薄れていったそうです。
冨田勲は中学1年生の時、進駐軍のラジオから流れる”20世紀の現代音楽”で再び音楽へ興味を持つようになっていた
しかし、1945年(冨田勲さん中学1年生)、終戦を迎え、進駐軍のラジオから、クラシック、ジャズ、ラテン、シャンソン、カンツォーネなど、多種多様な音楽が洪水のように流れ込んでくると、再び、音楽への興味が沸いたそうで、
中でも、ラヴェルやストラヴィンスキーといった作曲家たちの”20世紀の現代音楽”は、メロディよりも”音の色彩”を重んじていたことから、
冨田勲さんは、
戦争中に聞いた「ブカブカドンドン」の音楽隊と同じ楽器を使っていながら、なんでこんな音がするんだろうと疑問に思ったことが現代音楽にのめり込んだきっかけで、それが今でも続いているわけです。
軍楽隊の演奏するブカブカドンドンは耳にしましたが、あれは音楽ではなく、町で聞こえる音の一つにすぎなくて、ちっとも感動しなかったんですよ。
ところがその放送を聴いたらまるで違う。ラベルの「ダフニスとクロエ」を聴くと、海の向こうから太陽が出てくる風景がイメージとしてわいてくるんです。同じ楽器を使ってなんでこうも違うのかと思いました。
と、語っています。
冨田勲は高校生の時にストラヴィンスキーの「春の祭典」のレコードを父親に頼み込み購入していた
さておき、冨田勲さんは、1948年、中学を卒業すると、愛知県立岡崎高等学校進学したそうですが、
1949年、岡崎高等学校2年生の時には、両親の命により、慶應義塾高等学校の編入試験を受けると、見事、合格したそうで、上京して、慶應義塾高等学校に編入したそうです。
そんな中、冨田勲さんは、どうしても、ストラヴィンスキーの「春の祭典」のレコードが欲しくなったそうですが、当時、山手線がどこまで乗ってもわずか10円という中、お目当ての「春の祭典」の輸入盤は3,800円もしたといいます。
(さらに、店員からは、「輸送中に割れるかもしれないから、予備も含めて2枚買ったほうがいい」と勧められたそうです)
ただ、冨田勲さんには、到底、日本盤の発売をのんびり待つ心の余裕はなく、岡崎にいる実家のお父さんに平身低頭で頼み込み、なんとか購入費用を出してもらい、念願のレコードを手に入れたそうですが・・・
お父さんは、
そんなに高いレコードなら、さぞ素晴らしい音楽が流れるのだろう
と、期待していたようで、
早速、冨田勲さんのところにやって来たそうですが、
レコードに針を落とし、冒頭のファゴットの音色を聴くやいなや、
なんだかアヒルが首をひねられているような声だな
とポツリ。
その後、低い半音階が続くと、いたたまれなくなったのか、途中でトレイに立ち、座って、そのまま寝入ってしまったのだそうです。
そして、それから間もなく、冨田勲さんは、お父さんに、実家の岡崎へ呼び出され、
東京で真面目に勉強しているかと思ったら、邪教徒のような音楽を聴いているではないか。あんな音楽をやって、おまえ、飯が食えるのか?
と、問い詰められたのだそうです。
ただ、冨田勲さんにも自信があったわけではなく、お父さんの質問には本当に困ってしまったといいます。
冨田勲は高校2年生の時、作曲家を志すようになっていた
また、一方で、冨田勲さんは、同じ頃(高校2年生の時)、独学で作曲も学んでいたそうで、
いつかは自分もこういった曲(ストラヴィンスキーの「春の祭典」)を。
と、夢見て作曲家を志すようになっていたといいます。
そして、作曲家の平尾貴四男さんや小船幸次郎さんについて作曲を学び、高校生にして、「みすず児童合唱団」で歌の指導もするようになったのだそうです。
(「みすず児童合唱団」には、後に女優・歌手となる本間千代子さんも所属していたそうです)
冨田勲さんは高校卒業後はあえて音大には進学しなかった
そんな冨田勲さんは、高校卒業後は、音楽大学に進学することも考えたそうですが、最終的には、あえて、音楽大学には進学しなかったといいます。
というのも、当時の音楽大学は、ベートーヴェンやブラームスのようなドイツ音楽の伝統(古典)を重んじる教育が主流だったそうで、
冨田勲さんは、
ここへ入ったら、自分のやりたい音楽(ストラヴィンスキーのような現代的な音楽)とは違う方向へ深入りしてしまう(自分の居場所ではない)
と、直感し、危機感を感じたからだといいます。
(音楽理論なら独学で本を読んで覚えればいいと思ったそうです)
こうして、冨田勲さんは、あえて、音大ではなく、慶応義塾大学を選んだそうですが、慶応義塾大学には、当時、クラシックの音楽家を目指す人はほとんどいなかったそうです。
とはいえ、大学には、流行に敏感な”音楽青年”や、驚くほど耳の早い”情報通”がたくさん集まっていたそうで、彼らと交流することで、教科書からは得られない生きた知識が自然と入ってきたのだそうです。
また、友人たちの紹介で知った「YMCA芸術園」の存在も大きかったそうで、そこでは、弘田龍太郎先生から直接音楽理論を学ぶ機会を得られたそうで、
わざわざ音大に行かなくても、ここで十分に学べる
と、確信したのだそうです。
冨田勲は大学2年生の時に全日本合唱連盟のコンクールで「風車(ふうしゃ)」が1位に選ばれていた
さらに、冨田勲さんは、大学2年の時には、朝日新聞主催の全日本合唱連盟のコンクールに応募すると、合唱曲「風車(ふうしゃ)」が見事1位で当選したそうで、このことがきっかけとなり、作曲家への道に進む決意を固めたのだそうです。
ちなみに、冨田勲さんは、
それで、ちょっと親父の態度が変わりましたし、僕も自信がついた。
と、語っています。
「【画像】冨田勲の若い頃から死去までの代表作品やアルバムは?死因は?」に続く
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慶応義塾大学2年生の時に、作曲家としての活動を始めると、以降、テレビ、映画、CMで、様々な作品のテーマ曲を作曲して数多くの名曲を生み出したほか、当時、日本ではほとんど知られていなかったシンセサイザーを使って制作・演奏した …







