「君たちがいて僕がいた」「十七才のこの胸に」「あの雲に歌おう」などの青春映画で主演を務め、清純派女優として人気を博した、本間千代子(ほんま ちよこ)さんですが、

その輝かしい表舞台の裏側では、所属する東映との深刻な路線のズレに苦しんでいたといいます。

今回は、清純派としての自身のキャラクターを守り抜いた本間千代子さんと東映の確執、本間千代子さんが人気絶頂の中で映画界と距離を置いた理由についてご紹介します。

本間千代子

「本間千代子は舟木一夫のファンの脅迫電話や手紙、誹謗中傷に苦しんでいた!」からの続き

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本間千代子は吉永小百合と二分する人気を誇っていた

本間千代子さんは、1961年、16歳の時に、東映のアクション映画「恋と太陽とギャング」で本格的に女優デビューし、同年、映画「歌う明星・青春がいっぱい」にも出演すると、その清楚なルックスで、たちまち注目を集め、

以降、「明星」「平凡」「近代映画」などの雑誌の表紙を幾度となく飾るほか、雑誌の人気投票では、日活の吉永小百合さんを抜いて1位に輝いたこともあったほか、ブロマイドの売り上げも常に上位をキープするほど、絶大な人気を博していたのですが、映画のヒットには恵まれなかったといいます。

本間千代子は東映東京撮影所長・岡田茂と路線の違いで対立していた

というのも、当時の東映東京撮影所長・岡田茂氏は、「不良性感度」を掲げ、暴力やエロを売りにした映画を推進していたため、本間千代子さんはそのイメージに合わず(「善良性」が強すぎるとして)、

岡田茂氏が好む映画(鶴田浩二さんや高倉健さんの主演作など)の中では、脇役や”便利屋”的な扱いに甘んじることが多くなっていたのですが、

本間千代子さん自身も、

東映に入社したら”ギャング映画”ばかりなんです。私なんか親分の娘とか妹に使われるだけでしょ。このまま便利屋で終わってしまうんじゃないかと不安になって、

それでテレビに出て役柄を広げたいと思ったんですが、テレビドラマには出させてくれない。テレビでも音楽番組ならいいというんで、小学校の頃やっていた歌をもう一度本格的に勉強しはじめたんです

やくざ映画のお付き合いはイヤ!

エロ映画は嫌い!

生意気なようだけど、今の映画って『私、今日映画に行くわ』っていうのが恥ずかしいものばかり

三流エロ雑誌みたいな映画にはこちらからお断り

などと公言し、

岡田茂氏が企画した映画の出演を拒んだため、”生意気な女優”というレッテルを貼られ、次第に、本間千代子さんのための映画の企画自体が立てられなくなっていったのでした。

本間千代子は青春スターとしての黄金期を迎えるも短命に終わっていた

しかし、やがて、岡田茂氏が京都へ転任し、その後、後任の辻野力弥所長が、本間千代子さんのために、青春路線映画を企画してくれたそうで、

1964年、本間千代子さんは、映画出演22作目にして、「君たちがいて僕がいた」で映画初主演を果たし、青春スターとしての地位を確立したのでした。

ただ、このチャンスも、辻野力弥氏が半年で転任し、後任の今田智憲氏(岡田茂氏の盟友)が再び岡田路線(夜の青春シリーズなど)へ回帰したことで、短期間で終わっています。

(当時、社会的に”純愛ブーム”が起こっていたことから、今田智憲氏は青春路線を敷くと明言し、本間千代子さんを主演とする「野菊の如き君なりき」を企画していたそうですが、(理由は不明ですが)実現していません)

本間千代子の単独主演映画は興行的に成功せず孤立していった

そんな中、本間千代子さんは、ブロマイドなどでの人気は高かったものの、単独主演作でヒットが出ず、集客に苦戦を強いられていたそうです。

(また、当時の映画は2本立ての公開が一般的だったのですが、東映自体が成人向け映画に傾倒していたため、本間千代子さんが西郷輝彦さんと共演した青春映画「十七才のこの胸に」は、併映する適切な映画がないといったハプニングもあったそうです)

本間千代子は東映で干された状態となっていた

そして、1965年以降、東映は、岡田茂氏の指揮下で完全に「エロと暴力」の路線へシフトしていったことから、

唯一の青春路線を担っていた本間千代子さんは出番がなくなり、1965年5月公開の「おゝい・雲!」以降は、事実上、干された状態となってしまったのでした。

(そのため、本間千代子さんは、活路を求め、1965年6月には、舞台(ワンマンショーや東映歌舞伎)にも挑戦するほか、1966年には、初の地方巡業も行ったそうですが、思うような評価は得られず、東映内での居場所を失っていったそうです)

本間千代子はテレビや歌へ活動の場を移しお茶の間の人気を博すも東映からは評価されなかった

そんな中、本間千代子さんは、活動の場をテレビや歌へと移していくと、1965年には、「チコといっしょに」やNHK大河ドラマ「太閤記」に出演し、その親しみやすいキャラクターがお茶の間の人気を博しています。

また、本間千代子さんは、歌手として、数多くのレコードをリリースするほか、民音(民主音楽協会)や労音(勤労者音楽協議会)主催の歌の仕事をこなしていたそうですが・・・

東映内での本間千代子さんの評価は極めて厳しいものだったそうで、東映は、小川知子さんや大原麗子さんら次世代の女優の売り出しに注力し始めたのでした。

本間千代子は東映から冷遇され「Dグループ」へと格下げされていた

そして、ついに、1966年には、東映のスター起用方針において、本間千代子さんは「当分の間、起用を静観」とされる最下位の「Dグループ」に入れられてしまったといいます。

(今田所長は、1965年、本間千代子さんを「売り出す」と公言していましたが、その言葉とは裏腹の冷遇措置となったのでした)

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本間千代子は東映との溝を埋めることができず退社しフリーとなっていた

そんな本間千代子さんは、1966年、約1年半ぶりとなる映画「大忍術映画 ワタリ」に出演するのですが、これが、東映での最後の映画出演となり、同年、東映を退社し、フリーとなったのでした。

(本間千代子さんは、東映の過激化(エロ・暴力路線)に抵抗し、自身の清純なキャラクターを活かせる場所を、テレビや歌の世界に見出すも、組織内での冷遇によって東映を去らざるを得なかったのでした)

「本間千代子は前夫・守屋浩と離婚後はひのきしんじと再婚していた!子供は?」に続く

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