書籍要約『学校は死んだ:教育における代替案に関するエッセイ』エベレット・レイマー 1971

教育

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『School is Dead:An Essay on Alternatives in Education』Everett Reimer [1971]

『学校は死んだ:教育における代替案に関するエッセイ』エベレット・レイマー [1971]

目次

  • 第1章 学校に対する論拠 / The Case Against Schools
  • 第2章 学校がすること / What Schools Do
  • 第3章 学校とは何か / What Schools Are
  • 第4章 学校の仕組み / How Schools Work
  • 第5章 学校の起源 / Where Schools Came From
  • 第6章 特権を支える制度的な道具 / Institutional Props for Privilege
  • 第7章 民主的な制度は可能か / Are Democratic Institutions Possible?
  • 第8章 自由のための教育 / Education for Freedom
  • 第9章 人々が知る必要があること / What People Need to Know
  • 第10章 事物のネットワーク / Networks of Things
  • 第11章 人々のネットワーク / Networks of People
  • 第12章 教育の資金調達 / Financing Education
  • 第13章 教育の革命的な役割 / The Revolutionary Role of Education
  • 第14章 平和的な革命のための戦略 / Strategy for a Peaceful Revolution
  • 第15章 私たち一人ひとりにできること / What Each of Us Can Do

本書の概要

短い解説

本書は、学校教育が教育の独占的システムとして機能し、社会的特権を再生産し、真の学習を阻害していると批判する。レイマーは学校に代わる複数的で安価な教育資源ネットワークを提案し、自由で公正な社会の実現に向けた教育の根本的再編を論じる。

著者について

エベレット・レイマーはイヴァン・イリイチと共にCIDOC(異文化間ドキュメンテーションセンター)で活動した教育思想家。プエルトリコ政府の人的資源委員会書記や米州進歩同盟での経験から、ラテンアメリカの教育問題に取り組んだ。学校教育への批判的視点は実務経験に基づく。

テーマ解説

学校制度は教育を独占することで、真の学習を阻害し、社会的特権を再生産する支配的な制度である。

キーワード解説

  • 脱学校化:教育を学校の独占から解放し、多様な学習資源へのアクセスを可能にすること
  • スクーリング:学校制度が行う保護的監視、社会的役割の選別、教化、認知技能の伝達という四つの機能の複合体
  • メリトクラシー:学校での成功を「 merit 」と定義し、それを基に社会的地位を配分するシステム
  • 教育的ネットワーク:事物(記録、道具)、技能モデル、学習仲間、教育者の四つの資源を独立して組織化するシステム
  • パッケージング:本来分離すべき教育的機能を一つにまとめ、コストを高め効率を下げる学校の手法

3分要約

世界中のほとんどの子供たちは学校に通っていない。通ったとしても大多数は早期にドロップアウトする。学校のコストは就学者数や国民所得よりも速く上昇しており、もはやどの国も学校という形態で国民が望む教育を提供できない。学校教育は神話を広め、不平等を永続させ、大多数の者を教育に対して「予防接種」する。学校は子供を「飼いならし」、競争的消費のゲームに参加するように条件づける。

学校は保護的監視、社会的役割の選別、教化、認知技能の伝達という四つの機能を組み合わせている。この組み合わせこそが学校を高コストにし、教育学的に非効率にしている。保護的監視は学校予算の大半を消費する。社会的選別は勝者と敗者を生み出し、敗者は自分が「価値がない」と学習する。教化は子供たちに教えられることへの依存を教え込み、自発的な学習を奪う。真の認知的学習は、これらの機能のために残されたわずかな資源でしか行われない。

学校を定義する四つの特性は、義務的な年齢別出席、教師監督下の教室、段階的カリキュラムである。これらの特性は制度化された「子供時代」を生み出し、子供たちを経済的・政治的権利から排除する。教師の役割は審判、裁判官、カウンセラーを組み合わせたものとなり、学生に対して圧倒的な権力を与える。段階的カリキュラムは世界共通の基準を確立し、学校システムを他の教育資源へのアクセスを独占する国際的なネットワークにしている。

学校は「機会の平等」「自由」「進歩」「効率」という四つのイデオロギーと現実の間のギャップを埋める儀式として機能する。進級の儀式は不平等を隠し、民主的手続きの儀式は自由の幻想を維持し、研究の儀式は進歩の限界を覆い隠し、活動の儀式は真の効率性の問題から目をそらす。これらの儀式を通じて、人々は自分たちの利益に反する現実を受け入れるようになる。

学校の歴史的な爆発的拡大は、ヘレニズム時代やイエズス会の時代と同様に、伝統的な価値体系が危機に瀕した時期に起こった。現代の技術社会は特権の階層構造を必要としないにもかかわらず、学校はこの階層構造を維持し正当化する。学校は特権を永続させるための制度的な道具であり、教会や他の伝統的制度と同様に、普遍的なアクセスを約束しながら実際にはそれを否定している。

学校に代わるものは、より経済的で、より効果的で、複数的であり、競争を最小化し、学習を仕事や生活から切り離さないものでなければならない。レイマーは教育的資源を四つのカテゴリーに分けて再組織化することを提案する。記録と道具のネットワーク、技能モデルのネットワーク、学習仲間のネットワーク、そして真の教育者(ペダゴーグ)である。これらのネットワークは独立して組織され、学習者が自らのペースと興味に従って資源を選択できるようにすべきである。

公的教育資金は個人の教育口座を通じて分配されるべきであり、これにより学習者が自らの資源を管理できるようになる。これにより学校への公的資金の現在の逆進的な分配が是正され、貧困層の子供たちは現在の五倍の支援を受けられるようになる。教育資源のネットワークは学校よりもはるかに低いコストで運営でき、現在の学校予算で十分に賄える。

このような教育的革命は、学校への広範な幻滅、法的・財政的改革、そして新しい教育機関の創造を伴う平和的な革命でありうる。第一修正条項と同様に「教育施設の確立」を禁じる法律、学歴に基づく差別禁止、公的教育資源の平等な分配が提案されている。最終的に、個々人がすでに望ましい世界にふさわしい生き方を始めること——消費を減らし、資源を共有し、自然を保全し、自らの子供の教育責任を取り戻すこと——が最も強力な革命的プログラムである。

各章の要約

第1章 学校に対する論拠

世界中の子供たちの大部分は学校に通っていない。通った者のほとんどは早期に退学する。学校のコストは就学者数や国民所得よりも速く上昇しており、もはやどの国も学校という形態で国民が望む教育を提供できない。プエルトリコでは国民所得が十倍に増加した期間に学校コストは二十五倍に増加したが、それでも生徒の半数未満しか九年間の教育を完了しなかった。学校に通ったことのない者は物質的に最も奪われているが心理的苦痛は最も少ない。一方、学校に通って退学した者は、自分たちが教育システムに「適合しない」ことを学び、特権を持つ少数派の支配を受け入れるように条件づけられる。

第2章 学校がすること

学校は四つの社会的機能を組み合わせている。保護的監視(学校予算の大半を消費する)、社会的役割の選別(学校の存続レベルが生涯の社会的地位を決定する)、教化(子供時代の価値、競争の価値、教えられることの価値を教え込む)、そして認知技能の伝達である。これらの機能の組み合わせが学校を高コストにし、教育学的に非効率にしている。認知的学習については、読み書きや計算能力は学校なしでも習得できるというデータがある。学校は特に不利な環境の子供たちに対して、学習への動機付けと資源の両方を奪う効果を持つ。

第3章 学校とは何か

学校は、義務的な年齢別出席、教師監督下の教室、段階的カリキュラムを要求する制度として定義される。これらの特性は制度化された「子供時代」を生み出し、子供たちを大人の世界から隔離する。教師の役割は審判(正誤の判定)、裁判官(道徳的規範への違反に罪悪感を誘発)、カウンセラー(言い訳を聞き選択を助言)を組み合わせたものとなる。段階的カリキュラムは世界共通の基準を確立し、学校システムを他の教育資源へのアクセスを独占する国際的なネットワークに変える。レイマーは「学校は、あたかも処理可能であるかのように人と知識を扱う」と述べる。

第4章 学校の仕組み

学校はイデオロギーと現実の間のギャップを埋める社会的儀式として機能する。「機会の平等」のイデオロギーと現実の不平等は進級の儀式によって橋渡しされる。「自由」のイデオロギーと実際の抑圧は民主的手続きの儀式によって調和される。「進歩」のイデオロギーと有限性の現実は研究の儀式によって隠蔽される。「効率」のイデオロギーと非効率の現実は活動の儀式によって覆い隠される。これらの儀式を通じて、人々は自分たちの利益に反する現実を受け入れ、自分たちが「まだ頂上に達していない」だけだと信じ込む。

第5章 学校の起源

学校の前身は先史時代の儀式やシャーマンに見いだせる。書き言葉の発明と都市・宗教の成立が教育の専門化をもたらした。古典ギリシャのアテネでは当初、教育は主に個別指導的であったが、民主化とともに集団指導が増加した。ローマはヘレニズム的学校を採用し、少数エリートの教育に用いた。中世のベネディクト会修道院は時間と空間を学習のパラメータとして導入した。イエズス会は意図的に設計されたカリキュラムと教育方法を発展させた。国民学校システムはフランスとプロイセンで発展し、特にプロイセンのシステムは国家の主要な基盤として意図的に設計された。

第6章 特権を支える制度的な道具

教会と同様に、学校は普通のアクセスを約束しながら実際にはそれを否定する制度である。人間のニーズが制度化されるにつれて、ニーズと特定の製品(教育と学校、健康と病院など)の同一視が強化される。このプロセスは製品をますます複雑にし、高価にし、アクセスを制限する。特権を持つ者はより良い学校を要求し続け、これにより教育の普遍的提供はますます困難になる。発展途上国は先進国の制度を採用する限り決して追いつけない。必要なのは、より効率的な「先住民の」制度であり、先進国の制度よりも少ない投入でより多くの学習を提供するものである。レイマーは「私たちは制度の主人ではなく囚人である」と指摘する。

第7章 民主的な制度は可能か

大部分の制度は支配的であるが、程度の差はある。電話網や郵便システムのような公共ユーティリティは、アクセスが任意で、使用者に優位性を与えず、真の規模の経済を示すという点で、比較的民主的制度のモデルを提供する。これに対し、自動車のような支配的制度は、アクセスを制限し、依存を生み出し、負の規模の経済を示す。重要な選択は、二つのまったく異なるライフスタイルの間にある。平等主義的で複数的なライフスタイル(人々は自分で多くのことを行うが、自由な時間を持つ)と、統一された特権の階層に基づくライフスタイルである。学校は後者の制度であり、チャンスネットワークではなく生産システムである。

第8章 自由のための教育

学校に代わる教育は、学校よりも経済的で効果的で複数的であり、競争を最小化し、学習を仕事や生活から切り離さないものでなければならない。すべての人が自分の利益のために知的に行動するために必要なことを学ぶ機会を持てるようにすべきである。しかし現在、人々は知る必要がある最も重要なことを系統的に学べないようにされている。情報は隠蔽され、神話や制度によって歪められている。パウロ・フレイレが示すように、抑圧された人々は「沈黙の文化」に閉じ込められ、自分たちの状況について真剣に語ることを忘れている。子供たちも同様に、「大人の事柄」を知ることを許されない「子供時代の文化」に閉じ込められている。

第9章 人々が知る必要があること

自由で公正な世界における教育の基本的目標は、社会のユニバーサルな価値(福祉、富、技能、権力、尊敬)がどのように創造・分配され、社会がどのように統治されているかを理解することである。この理解を得るためには、批判的に言語を使用し、物理科学、政治、経済、心理学の最小限の幅広さを学ぶ能力が必要である。特別化された言語は新しい知識の創造には必要だが、一般の人々を混乱させ搾取するために使われるべきではない。真の教育は「現実を批判的に認識し、それに対して効果的に行動するプロセス」である。真の教師の役割は隠された真実を開示することであり、これこそが常に不足している教育的資源である。

第10章 事物のネットワーク

教育的事物は、記録(本、テープ、フィルム)と、記録を生産・解釈する道具(タイプライター、テープレコーダー、コンピューター)の二種類に分類される。図書館システムの拡張により、これらの資源へのアクセスを組織化することが可能である。道具や機械はますますアクセスが困難になっており、大規模生産は理解を深める機会を奪っている。ジャンクヤードは職業訓練校よりもはるかに教育的で安価である。ゲームは楽しく効果的なスキル練習を提供し、知的システムのパラダイムとして機能する。しかし最も大きな障壁は秘密である。国家的・企業的秘密が科学的知識やその他の重要な情報へのアクセスを遮断している。レイマーは「秘密を守るコストは非常に大きい」と述べる。

第11章 人々のネットワーク

教育的人間資源は優先順位をつけて組織化されるべきである。第一に技能モデル(技能を実演できる人)、第二に学習仲間(共に学ぶ者)、第三に教育者(学習を促進する経験を持つ者)。学校はこの順序を逆転させ、最も希少な資源である教育者を最も重要視している。技能モデルは十分に存在するが、組合や専門職団体によって制限されている。学習仲間を見つけることは、興味に基づくマッチングシステム(コンピューター、掲示板、新聞など)によって促進できる。真の教育者には三種類ある。教育資源ネットワークの設計者・管理者、個別教育プログラムを診断・処方するペダゴーグ、そしてあらゆる学習分野のリーダーである。レイマーは「教師という言葉は学校ができる以前から大きく敬われていた」と指摘する。

第12章 教育の資金調達

学校は世界最大の企業であり、農業や産業よりも大きい。学校への公的資金は完全に逆進的であり、貧困層が支払い富裕層が受益している。米国では最も貧しい十分の一の層は生涯で2,500ドル以下の公的教育費しか受け取らず、最も裕福な十分の一の層は35,000ドルを受け取る。ボリビアでは上位1パーセントが公的教育費の半分を消費する。解決策は個人の教育口座であり、生涯にわたる教育クレジットを各人に与え、その使い道を本人が決定する。現在の公的教育支出を均等に分配すれば、米国の各人は年間250ドル(生涯17,000ドル)を受け取ることになる。これにより貧困層の子供たちは現在の五倍の支援を受けられる。

第13章 教育の革命的な役割

真の教育は基本的な社会的力である。教育された人口(たとえ相当数の少数派であっても)が存在すれば、現在の社会構造は存続できない。教育された人間とは、世界を効果的に扱えるほどよく理解する者である。もしそのような人間が人口の20%(現在は2%)存在すれば、もはや少数者のために世界を運営することは不可能になる。競争的消費は短い期間か小さな少数派にしか不可能な生き方であると人々は認識するだろう。教育は革命的な社会変革を単独で達成できないかもしれないが、不可欠な前提条件である。平和的な制度革命のモデルは、科学的革命や宗教的改宗にある——共通言語、コミュニケーション、合意された理性の基準、そして強力な新しい真理の提示である。

第14章 平和的な革命のための戦略

平和的な革命のための法的プログラムは四つの要素からなる。第一に「教育施設の確立」を禁じる法律(政教分離の類推)、第二に学歴に基づく差別禁止、第三に公的教育資源の平等な分配、第四に教育分野への反独占法の効果的な拡張である。財政的には、教育への公的資金を個人の口座に直接振り向ける。制度的には、教育資源のネットワーク(事物、技能モデル、仲間、教育者の公共ユーティリティ)を創造する。教育的には、パウロ・フレイレの方法を用いて、人々が学校が自分たちと子供たちに何をしているかを理解できるようにする。最も重要なのは教育そのものであり、幻滅した学生、教師、納税者、管理者が革命の建築家となる。

第15章 私たち一人ひとりにできること

英雄になることができない者のほとんどは、望ましい世界にふさわしい生き方を始めることができる。それには消費を減らし、資源を共有し、自然環境を保全することが含まれる。これら三つの行動は強力な革命的プログラムを構成する。北米大西洋コミュニティでこれらを実践すれば、需要は直ちに減少し、特に贅沢品の市場は崩壊する。米国のGNPは半分になっても人々を実際に benefit する財・サービスは減少しない。個人ができる最も重要なことの一つは、自分の子供の教育責任を取り戻すことである。結局のところ、量より質を選び、共同体を創り、協力すること——これらは古くからの知恵だが、現代技術は初めて普遍教育を可能にし、苦役を時代遅れにした。レイマーは「革命を起こすのは、それが生きる最善の方法だからである」と結論づける。


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