書籍要約『果てしない教育?-教育を超える対話-』佐々木賢、松田博公 1986年

イヴァン・イリイチ教育

サイトのご利用には利用規約への同意が必要です

英語タイトル:Endless Education?:Dialogue Beyond Education – Ken Sasaki, Hirokimi Matsuda (1986)

日本語タイトル:『果てしない教育?-教育を超える対話-』佐々木賢、松田博公 1986年

https://note.com/alzhacker/n/n9daef88eb433

目次

  • はじめに:/ Introduction
  • 第一章 「教育環境」の子どもたち / Chapter 1:Children of the “Educational Environment”
  • 第二章 教育が生み出す非行 / Chapter 2:Delinquency Generated by Education
  • 第三章 学歴・資格社会の見取り図 / Chapter 3:A Sketch of the Academic Credential and Qualification Society
  • 第四章 教科書/エコロジー / Chapter 4:Textbooks / Ecology
  • 第五章 管理主義とシャドウ・ワーク / Chapter 5:Managerialism and Shadow Work
  • 第六章 臨教審・自由化論のパラダイム / Chapter 6:The Paradigm of the Ad Hoc Council on Education and Liberalization Theory
  • 第七章 国家と教育-沖縄から / Chapter 7:The State and Education – From Okinawa
  • 第八章 教育を超えて / Chapter 8:Beyond Education
  • おわりに:/ Epilogue

本書の概要

短い解説:

本書は、新聞記者と高校教師の対話を通じて、「教育」という営為の本質に根本的な疑問を投げかけ、教育幻想から脱却するための視点を探求することを目的としている。教育問題に何らかの違和感を覚える読者に向けて書かれた。

著者について:

佐々木賢は東京都立の定時制高校で長年教鞭をとる教師であり、現場の生徒たちの意識や行動の変化を実感として捉えてきた。松田博公は共同通信の記者で、教育問題を長年にわたり取材。二人はともに「教育」への疑念を共有し、ジャーナリズムと教育現場という異なる立場から対話を重ねた。

テーマ解説

本書の核心的テーマは、「教育」が本質的に支配・差別・抑圧の構造を内包しているという認識に立ち、その上でいかにして「教育を超える」関係性を切り拓くかという問いである。

キーワード解説

  • 教育環境:自然・共同性・労働が奪われ、人工的で管理的な環境が整備される近代社会の状態。子どもたちの身体反応として登校拒否や非行が現れる背景。
  • シャドウ・ワーク:準備のための教育サービスを消費する、支払われない労働。資格取得のために意味を実感できないまま従事する学習活動。
  • 埋め込まれた教育:生活全体の中に自然に溶け込み、わざわざ「教育」として切り出されない学びの形態。対義語は「離床した教育」。
  • 教育無化:教育的な意図や操作、権力関係をできるだけ排除し、子どもたちの自律的な生命の秩序が発揮される余地を創出すること。
  • 二項対立の超克:文部省対日教組、善玉対悪玉といった単純な対立図式を超え、重層的で複雑な権力のせめぎ合いとして現実を捉える視点。

3分要約

本書は、新聞記者の松田博公と高校教師の佐々木賢が、教育に関する新聞記事をたたき台に交わした約二年間にわたる対話の記録である。二人は「教育」という営為そのものへの根源的な疑念を共有し、従来の教育論議が陥りがちな二項対立的な思考枠組みを超え出ようとする。彼らの問題意識の出発点には、子どもたちの身体が示す「登校拒否」「非行」「いじめ」といった反応が、単なる個人の病理ではなく、社会全体の「教育環境化」に対する警鐘であるという認識がある。

「教育環境」とは、自然がコンクリートで固められ、危険は「立入禁止」の看板で知らされ、自然な遊びグループが大人主導の人工的集団に置き換えられ、生産劳动が消失して「勉強」という課題だけが残された状態を指す。こうした環境のもとで、子どもたちは自らの身体を通して違和感を感じ取りながらも、資格やブランド志向に駆り立てられるか、無為や他律の状態に沈むか、あるいは擬似的な活動欲求を非行という形で発散する。特に「無為非行」の増加は、教育環境が若者から生きる手応えを奪い取っている深刻な事態を示している。

対話は、学歴・資格社会の構造分析へと進む。受験競争は単なる教育制度の問題ではなく、若年失業を吸収する「強制モラトリアム」としての経済的機能や、勝ち残った者たちのアイデンティティ、さらには無意識の通過儀礼的サディズムに支えられている。また、新たな「具体資格」の増加は、かえって資格ギルド社会を強化し、身体で学ぶ修業の場をさらに奪い去る。教科書論では、佐々木が「無味乾燥な教科書の方がよい」と過激な主張を展開する。これは教科書のおもしろさが結局は誘導や操作の装置として機能し、生徒の自律的な関心を阻害するからだ。重要なのは「与えない時間空間」であり、そこからこそ子どもたち自身の生命の躍動が始まる。

管理主義教育の問題は、単に悪質な教師や体制の問題に還元できない。親や子どもたち自身の中にも管理を求める欲望があり、「シャドウ・ワーカー」としての意識が内面化されている。臨教審の自由化論に対しては、単純に「反動」と決めつけるのではなく、それが体制内部からの自己変革の試みとして歴史的意味を持つ可能性を真剣に受け止めるべきだと論じる。同時に、自由化論も結局は「教育」のパラダイムを脱していないという批判的距離も保たれる。

沖縄をテーマとする章では、日の丸・君が代の問題が、単なる軍国主義復活論では捉えきれない複雑な位相を持つことが示される。本土のナショナルな教育マインドと、沖縄の固有の歴史や共同体感覚との間の両義的な緊張関係は、教育そのものを相対化する可能性を秘めている。最終章では、「こころみ学園」「オープンスクール」「トロプス」などの実践事例を手がかりに、「教育のない教育」とも言うべき「埋め込まれた教育」の概念が提示される。著者たちは、教育無化の唯一の方法など存在しないとしながらも、制度のなかから制度を超える瞬間が、日々の具体的な関わりの中に確かに生きられていると主張する。

各章の要約

第一章 「教育環境」の子どもたち

教師の辞職と教室で犬を飼う事例から、従来の教育論議が文部省対日教組のような二項対立に陥っていると批判する。佐々木は「教育環境」という概念を提起し、子どもたちの登校拒否や非行は個人の病理ではなく、自然・共同性・労働が奪われた社会全体への身体的反応だと論じる。図式を用いて、子どもたちが「資格志向」「無為」「擬活動欲」などの様々な態度をとる状況を整理。教育問題を文明転換の問題として捉える視点の必要性を強調する。

第二章 教育が生み出す非行

非行を「恨み非行」「遊び非行」「無為非行」の三類型に分類。非行は教育制度が予め内包する「アンチ制度」であり、制度が自ら生み出した産物だと論じる。熱中教師の教育物語を批判し、教師のナルシシズムや指導欲求の問題を指摘。日米の非行論の比較を通じて、日本側の規範意識回復論の抽象性を批判する。学校が「トンネル」として機能し、通過困難性が非行を生むメカニズムを解明。教師は「マラソンの伴走者」として、生徒の自律を引き出す姿勢が重要だと説く。

第三章 学歴・資格社会の見取り図

大学入試改革の挫折事例から、誰も本気で受験システムを変えようとしていない現実を暴く。受験競争は勝ち残ったエリートのアイデンティティ、庶民の同調競争、強制モラトリアムとしての経済機能、さらには無意識のサディズムに支えられていると分析。学歴インフレと「具体資格」の増加がもたらす「資格ギルド社会」の到来を予見する。最後に「奪自然」「奪体験」「奪共同」の視点から、産業社会の進歩に依存せず「遅れに依拠する」生き方の可能性を模索する。

第四章 教科書/エコロジー

日本の教科書の無味乾燥さを、検定制度や儒教的な暗記儀礼の伝統と関連づけて分析。佐々木は「無味乾燥な教科書の方がよい」と主張する。これは教科書のおもしろさが結局は誘導や操作の装置となるからである。授業内容への関心よりも資格関心が優位する生徒たちの現状を報告。教育と運動(エコロジー運動など)は根本的に対立する営為であり、エコロジーが「非教育的」要素を含むからこそ意味を持つと論じる。カリキュラム化された興味関心に潜む危険を警告する。

第五章 管理主義とシャドウ・ワーク

愛知県の管理教育事例を分析し、管理主義の問題を単純な悪者探しに還元できない複雑さを指摘する。親や子ども自身の中にも管理を求める欲望が存在し、生徒たちの意識は「シャドウ・ワーカー」として構造化されている。提示された表は、過去十数年間の生徒意識の劇的変化を示す。教師は「正義の味方」的姿勢を捨て、自分自身の中の管理欲求を直視する必要がある。管理教育の背景には「世界システムとしての子ども」という視点が必要だと結論する。

第六章 臨教審・自由化論のパラダイム

従来の教育論議が二項対立的な「綱引き理論」に囚われていると批判。臨教審の自由化論を単なる反動や仮面として片付けるのではなく、体制内部からの自己変革の試みとして真剣に受け止めるべきだと主張する。自由化論は「消費」「解釈」「関係性」のパラダイムに立脚しており、これは伝統的な「生産」「真理」「主体性」のパラダイムと衝突する。しかし自由化論も結局は「教育」の枠内に留まっており、より根底的な「教育の無化」の発想が必要だと論じる。

第七章 国家と教育-沖縄から

沖縄における日の丸・君が代問題を、単なる軍国主義復活論では捉えきれない複雑な位相から分析する。本土の記者が沖縄の人々と真正面から向き合うことの困難(言語や文化の問題)を率直に告白。沖縄の人々の意識の二重性(本土への両義的な想い)を「生徒アンビ」と重ね合わせて考察する。琉球独立論の系譜や海洋民としての沖縄の可能性を参照しつつ、「教育無化」の思想にとって沖縄が持つ示唆を探る。バナキュラーな領域の破壊としての教育の本質を論じる。

第八章 教育を超えて

「こころみ学園」「オープンスクール」「トロプス」の実践事例を検討し、これらの試みに共通する「教育のない教育」の可能性を探る。「埋め込まれた教育」の概念を導入し、教育が生活から「離床」する近代的プロセスを歴史的に辿る。教育・学び・遊びの三項パラダイムを提示し、遊びの領域こそが身体の解放と自己治癒の最も強力な場だと論じる。他者の不可侵性の感覚を取り戻すことの重要性を強調し、制度のなかから制度を超える瞬間が日常的に生きられていると結論する。

教育の本質は支配なのか?――「果てしない教育?」を読み解く

by DeepSeek

教育を疑うことから始まる対話

この本を手に取って最初に感じたのは、「また過激な脱学校論か」という少しの違和感だった。帯に「教育の本質は支配、差別、抑圧」とある。さすがにそれは言い過ぎではないか。しかし読み進めるうちに、著者たちが単なる扇動的な批判者ではないことに気づく。新聞記者の松田博公と高校教師の佐々木賢は、自らの現場の経験から「教育」という営為に疑念を抱き、それを二年間にわたって対話し続けた。彼らの問いは単純だ。「なぜ子どもたちは学校に行きたがらないのか」「なぜ非行やいじめはなくならないのか」。そして彼らは、その答えを「悪い教師」や「体制」に求めるのではなく、「教育」という概念そのものの中に見出そうとする。

読んでいてしばしば居心地の悪さを覚える。それは自分自身が「教育される側」でありながら、「教育する側」の視点も内面化しているからかもしれない。著者たちの核心的な主張はこうだ。教育とは本質的に「上の者が下の者に授ける」上下関係であり、権威と計画性を不可避的に含む。だから「個性教育」という言葉は「平和のための戦争」と同じ矛盾を含んでいる。この指摘には論理的には頷けるものの、やはり抵抗感が残る。では私たちはどうすればいいのか。彼らは「教育を超える」対話へと読者を誘う。

「教育環境」という視点の鋭さ

佐々木が提起する「教育環境」という概念は非常に説得力がある。自然の山をコンクリートで固め、「立入禁止」の看板を立てる。自然な遊びグループの代わりに大人が少年野球チームを作る。生産労働が消滅し、その代わりに「勉強」という課題が与えられる。これらすべてが「教育環境」の整備だという。なるほど、確かに私たちは子どもから「危険」や「不潔」、「不公平」を奪い去ることで、同時に彼らが自ら対処する力を奪ってきた。登校拒否や非行は、この人工的な環境への身体的反応であり、「時代への警鐘」だという視点は納得できる。

しかしここで疑問が湧く。「では、子どもたちを危険に晒すべきなのか?」。著者たちは単純な復古主義に陥っていない。彼らが言うのは、危険を全面的に排除するのではなく、子ども自身が対処する余地を残すことの重要性だ。この微妙なバランスが現代社会では失われている。同時に、この「教育環境」論は「親や教師が悪い」という単純な責任論を超えている点で優れている。私たち誰もがこの環境の産物であり、加害者であり被害者でもある。この視点を持たない教育論議は、結局「あの教師が悪い」「あの親が悪い」という非生産的な水掛け論に終わるだろう。

「シャドウ・ワーク」としての学習

第五章で展開される「シャドウ・ワーク」の概念は、現代の教育問題を理解する鍵のように思える。シャドウ・ワークとは、将来のための準備として教育サービスを「消費する」、支払われない労働のことだ。多くの生徒は「なぜこれを勉強するのか」という問いに明確に答えられない。それでも「資格を取るため」と言われれば、なんとなく納得した気になる。これはまさに「資格意識」であり、彼らが分析する「シャドウ・ワーカーの意識構造」の一つだ。

ここで自分自身の学生時代を振り返ると、確かに多くの時間を「意味がよくわからないけど、テストに出るから」という理由で勉強に費やしていた。そしてその経験は、社会に出てからも「とりあえず資格を取っておこう」という思考パターンとして残っている。著者たちが示した表(ある定時制高校における生徒意識の変化)は衝撃的だ。1975年以前と以後で、図書室の利用率と保健室の利用率が完全に逆転している。生徒たちは本を読まなくなり、心身の不調を訴えるようになった。このデータは、単なる「勉強嫌いの増加」ではなく、生きる手応えを失っていく過程を示しているように思える。

管理主義は「悪者の陰謀」ではない

この本の特筆すべき点は、管理主義教育を単純な悪者扱いしないことだ。松田は愛知県の管理教育を取材し、最初は「告発に行く」という正義感で臨んだが、現地で話を聞くうちに「ここで起きていることは何も特別なことじゃない」と気づく。親たちは管理を期待し、子どもたちの中にも「しかってほしい」という欲求がある。これは「子捨て」の心理と紙一重だ。教師の側も、生徒の無為や遅刻・欠席の増加に対処する中で、自然と管理を強化せざるを得なくなる。

このジレンマは痛いほどわかる。現代の学校現場では、少しでも「自由」を認めると、すぐに「秩序が崩れる」という恐怖がある。実際、本書で紹介されている「トロプス」(競争原理を排した協同的なゲーム)のような試みも、教育委員会から「講師を派遣してほしい」と依頼される段階で、制度に回収される危険性をはらむ。著者たちはこの両義性を明確に意識している。良い教育を求める運動が、結局は教育制度を強化するという逆説。これは教育に限らず、あらゆる「改革」運動に当てはまるかもしれない。

自由化論への批判的共感

第六章の臨教審(臨時教育審議会)の自由化論を扱った部分は、当時の文脈を知らないと少し難しい。しかし重要なのは、松田が香山健一の自由化論を「反動」と一蹴せず、体制内部からの自己変革の試みとして真剣に受け止めている点だ。左翼系の教育批判者がよく陥る「敵を悪と決めつければ自分は善」という二項対立を、彼は徹底的に避ける。

この姿勢には共感する。現代の議論でも、例えば「競争教育かゆとり教育か」という対立図式は生産的ではない。どちらの立場も「教育」という枠組みを共有しているからだ。松田と佐々木は、自由化論が「消費」「解釈」「関係性」という新しいパラダイムに立脚していると評価しつつも、それが結局は「教育」の延長線上にあると見抜く。私もこの指摘に同意する。情報化社会の中で「自由に選択する消費者」としての教育も、結局は「より良い教育サービスを受ける権利」という発想を超えていない。

「教育無化」のリアリティ

最終章で語られる「教育のない瞬間」という考え方は、一見すると禅問答のようで掴みどころがない。しかし日常生活を思い返せば、確かに「教育的でない」関わりの中にこそ、人間的なつながりが生まれる瞬間がある。例えば子どもとただ遊ぶとき、友人としょうもない話で盛り上がるとき、そこには「教える-教えられる」という関係はない。佐々木はこれを「埋め込まれた教育」と名付け、生活全体に溶け込んだ学びの形態として位置づける。

彼らは理想的な「脱学校」の処方箋を提示しない。むしろ「教育無化の唯一の方法なんてない」と断言する。これは覚悟のいる立場だ。「では具体的にどうすればいいのか」と問う読者には不親切に映るかもしれない。しかし「これが正しい教育方法です」という提案こそが、また新たな「教育」の罠になると彼らは考える。私もこの慎重さは尊重したい。私たちは「より良い教育」を求めるあまり、かえって管理を強化してきた歴史がある。

全体を通じての考察

この本を読み終えて、最初の違和感はほぼ解消された。「教育の本質は支配」という主張は、あくまで議論の出発点であり、決して「教育を全否定せよ」という結論ではない。むしろ彼らは「教育を超える」可能性を、日常の具体的な関わりの中に探っている。その姿勢はラディカルでありながら現実的だ。

気になる点を挙げれば、この本が1986年に書かれたものであり、その後の30年以上の変化を反映していないことだ。情報技術の発達や、いじめ・不登校問題のさらに深刻化、あるいは「ブラック校則」問題など、現代ならではの論点は多い。しかし逆に言えば、彼らの分析の枠組みは今でも十分に有効である。「教育環境」や「シャドウ・ワーク」といった概念は、現代の教育問題を考える際にも強力なツールとなるだろう。

また、この本には「では具体的に学校をどう変えるか」という政策提言がほとんどない。それは意図的なものだ。著者たちが信じているのは、制度設計よりも「制度のなかから制度を超える」個々の営為である。教師としての佐々木の姿勢(「マラソンの伴走者」であり、生徒から学び、対話を積み重ねる)は、その小さな実践の一例だ。

この本は、教育問題に「答え」を求める人には不向きかもしれない。むしろ「問い」を持ち続けることの重要性を教えてくれる。私たちは「教育」を水や空気のように当然のものと思いすぎていないか。なぜ私たちは、教育すること、されることにここまで執着するのか。この根本的な問いを、本書は私たちに突きつける。そしてその問いとともに、教育を超えた対話の可能性を示唆する。完全な答えはない。しかし対話を続けることこそが、おそらく唯一の出口なのだ。

水か空気のように、私たちは「教育」を疑わない

by  Claude 4.8 Opus

原著:『果てしない教育? — 教育を超える対話』(佐々木賢・松田博公、北斗出版、1986年)

「本質は支配」という強い断定

まず引っかかったのは、はじめにの一文である。「教育の本質は支配、差別、抑圧、おしつけにある」。これは強い。あまりに強い。読みながら身構えた。教育を仕事にしてきた人間がここまで言い切ってよいのか、と。

だが書き手を確かめると、印象が変わる。佐々木賢は1933年に瀋陽(旧奉天)で生まれ、1961年から定時制高校の教諭を三校にわたって続けてきた人物である。対話相手の松田博公は共同通信の教育担当記者だった。机上の理論家が放った挑発ではない。教室と取材現場で、毎日子どもや生徒を見ていた二人が、それぞれ別の場所から同じ疑問に行き着いた。その重みが、断定の手触りを変える。

ここで立ち止まる。断定の中身を、もう少し丁寧にほどく必要がある。

教育は水か空気のようなものか

二人が出発点に置く問いは素朴で、それゆえ鋭い。「人々は教育を水か空気のように思っている」。日頃は気にしないが、なければ生きられない必要不可欠なもの、と。果してそうか。

考えてみる。水や空気を疑う人はいない。疑う対象にすらならないものは、最も強い権力を持つ。教育がそういう位置にあるなら、それは「自然」を装った「人工物」だということになる。

二人はこれを「近代のパラダイム」と呼ぶ。人類数千年の歴史のうち、人間を「教育すべき対象」として、つまり「人的資源」として捉え始めたのは、たかだか近代以降のことではないか、と。この一手は効いている。教育を時代特有の知の枠組みとして相対化した瞬間、「現代の呪縛」から一歩外に出られる。ここは認めざるを得ない。

「個性教育」という矛盾語法

最も腑に落ちた指摘がこれだった。「個性教育」ということばは、「平和のための戦争」に似ている、という。

なぜか。個性はもともと、放っておかれた時間と空間に自然に芽生えてくるものであり、その核心は「無意図性」にある。これに対して教育は意図的・人工的・操作的だ。意図して個性を育てようとした瞬間、それは個性ではなくなる。手を加えれば加えるほど、育てたいものが逃げていく。庭の雑草を意図して「自然に生やそう」とする庭師の倒錯に近い。

ここで二人は「学び」「遊び」と「教育」を切り離す。個性や自由は学びや遊びの概念とは結びつくが、教育の概念からは遠い。この概念の腑分けがあるからこそ、「本質は支配」という断定は、単なる罵倒ではなく分析になる。

しつけが影の労働に変わるとき

第五章で、イヴァン・イリイチ(Ivan Illich)の「シャドウワーク」(賃金の出ない、しかし賃労働を成立させるために不可欠な準備労働)が持ち出される。

二人の見立てはこうだ。学校での「しつけ」は、子ども自身が将来引き受ける見えない労働の予行演習になっている。生徒は自然に「シャドウワーカーとしての意識」を内面化していく。そして決定的なのは、子ども自身の中に「外部強制力への期待」がはっきりあるという観察である。管理は外から押しつけられるだけでなく、内側から求められてもいる。

これは痛い指摘だ。管理教育を批判する者が、いざ教師になれば管理派になる。批判の主体そのものが、すでに制度の論理を内面に飼っている。ここでイリイチの「制度的逆生産性」の構図が立ち上がる。一定の規模と速度を超えた制度は、本来の目的と逆の効果を生む。教育もまた、学びを与えるはずが学びを妨げ、自律を育てるはずが依存を深める閾値を越えている。

「果てしない教育」が予言したもの

タイトルの「果てしない教育」という語に、改めて目が留まる。1986年の本でありながら、これは現在を撃っている。

臨教審の「自由化論」を論じる章で、二人は教育が「生涯学習」へと拡張していく流れを見据えていた。学校という囲いが溶け、教育が一生涯・あらゆる時間に滲み出してくる。日本では今、「リスキリング」「学び直し」が成人の義務のように語られる。終わりがない。これこそ文字どおりの「果てしない教育」である。

つまり彼らは、教育の「制度」が崩れた先に解放が来るのではなく、囲いが消えることで教育的関係がかえって遍在化する逆説を、四十年前に言い当てていた。学校を出ても、もう教育からは出られない。

別の学校を求める依存の泥沼

ここまでなら、よくある学校批判の延長とも読める。本書が一段深いのは、第八章の振る舞いだ。

学校がダメだと分かると、人はすぐ代替物を求める。サマーヒル、シュタイナー、クリシュナムルティ。どのフリースクールが一番か、と。だが二人はこの問いそのものを退ける。「求める人にはがっかりしてもらいたい」。

なぜなら、外側に別の制度を求める発想の中には、「一切の支配や権力性からも自由な別の人間関係がどこかにある」という幻想が潜むからだ。そして、そんな場所はどこにもない。今が悪いからと代替の制度を作るのは、「依存の泥沼」から足を抜けないことになりかねない。

ここで思考が一度止まる。では、どうしろというのか。代替案を出さない批判は、無責任なペシミズムではないのか。最初に覚えた懐疑が、別の角度から戻ってくる。

教育のない瞬間という裂け目

その問いに、二人は意外な角度から答える。逆に言えば、と佐々木は言う。「いつ、いかなる時も、その場所がぼくらの場所だ」。

つまり、どこか別の理想郷に脱出するのではない。「いま、ここ」の、子どもたちとの具体的なつき合いの中に、どんな教育的関係からも自由な瞬間が、すでに日々生きられている。学校や家庭が無慈悲に「学校化」されているように見えても、必ずそれに抗う力が働いていて、そこには刻一刻、「微細な裂け目」が生じている、と。

この発想は、老荘の「無為」に通じるものがある。なすことによって達するのではなく、なさないところにすでに在るものへの気づき。あるいは江戸の寺子屋や職人の見習いのように、生活そのものに溶けた「生活関連力」の伝承——意図的なカリキュラムが離床する以前の、教育と呼ばれもしない関わりの中に。違和感の正体を辿ってみると、私が代替案を求めていたこと自体が、二人の言う「依存」の構えだったのだと気づかされる。

制度の内側から制度を超える

着地点は、この一語に凝縮されている。「制度のなかから制度を超える」。

外側を見ればペシミズムに陥る。だが私たちの内面は、決して一元化されない。多元的で重層的で、相矛盾する欲求や感覚を同時に抱える。大人であっても内に子どもを持ち、男であっても内に女性性を見出す。だからこそ、人を絶えず一元化してくる制度の只中にいながら、制度にとらわれない発想を抱くことができる。自分の内なる差異・他者性と対話する「コンビビアル」(共愉的)な場の発見こそが、近代的自我というニヒリズムの罠を抜ける根拠だ、と二人は言う。

これは、全体主義体制下で既存システムと縁を切らずに自律的なネットワークを「横に」築いた並行社会の構えと、構造がよく似ている。正面衝突でも完全離脱でもなく、両方に足を置きながら、相互に浸透させながら、内側で別の関係を生きる。重層性と分散性。

最初に覚えた「本質は支配」への身構えは、最後にはほどけた。あの断定は、教えることのすべてを断罪する号令ではなかった。教育を水や空気のように疑わずに済ませる態度を、まず一度きれいに突き崩すための強い一撃だったのだ。突き崩した先に二人が見ていたのは、虚無ではない。誰もが教育とは無縁な瞬間を日々生きてしまっている、という事実への気づきである。「それに気づくって、既に何ごとかなんですよね」。

「果てしない教育」から解放されるとは、教育の外へ逃げ出すことではない。終わりなき囲いの内側で、囲いに属さない瞬間が確かに生きられていることに、目を凝らすことなのだろう。