
「どうしたの?」ルリスが顔を覗き込んでくる。
「さっきすれ違ったコギト人の団体、イヤな感じがして⋯⋯うまく説明できないけど、早く離れたいって思ったの」
「なるほどね。歩く速度合わせるから、手は離していいよ」
プレトがルリスの腕を離すと、ルリスは自身の携帯電話を操作し、カメラ機能を立ち上げた。内カメラに切り替えると、二人の間から後ろに向けた。背後の様子を内カメラで覗っているのだ。すると、先ほどのコギト人たちが歩いているのが写った。背中ではなく顔がこちらを向いている。ということは、Uターンして二人の後を着けているのかもしれない。
「うわまじか。なんでこっちに来てるんだろう。私たち何かしちゃった?」プレトは少し動揺した。
「してないよ。けど、地上波でもコギト人問題が話題に上がるようになったから、窓を割られたこととか洗いざらい書いたわたしたちに嫌がらせしたいっていう考えはあるかもね」
「気持ちわる⋯⋯運動になると思って歩きで来ちゃったけど、レグルスの方がよかったかな?」
「あのレグルス派手だから、それはそれで刺激しちゃいそうだね。よし、このまま映画館までジョギングしようよ。宇宙飛行士試験には体力テストもあるし、コギト人から逃げるついでにトレーニングしちゃおう」
「ルリス前向きだな。確かにいい運動になりそうだし、走るかぁ」
二人は少しずつ、少しずつ、早歩きからジョギングに切り替えた。冷気が肺を膨らませ、吐き出す空気が白く泳いだ。喉の奥から血の味が上ってくる。アリーチェが初心者向けのトレーニングを送ってくれてから、ルリスと共にほぼ毎日走っているが、この感覚にはなかなか慣れない。ほら、もうすでに脇腹が痛い。やはり走るのは苦手だ。
走りながら後ろを確認すると、先ほどよりは離れたものの、コギト人の団体が後をついてきていた。これで確信が持てた。やはりプレトとルリスを狙っているのだ。
「うえー、コギト人たち追っかけてきてるよぉ。帰ったほうがいいかなぁ」
ゼイゼイ喘ぎながらルリスに話しかけた。
「家に帰っても前みたいに嫌がらせされるだけだと思う。せっかくここまで来たし、映画館行っちゃおう。人が多いところに居たほうが安全かもよ。さすがにあいつらも映画館で暴れたりはしないだろうし」
「確かに⋯⋯ルリス、走りながらよくそんなに喋れるね?」
鋭い西日が瞳に突き刺さる。二人並んで、寒い日陰とぬるい日向を縫うように走った。映画館のある繁華街に入ると、コギト人の団体は完全に見えなくなった。映画館のエントランスへ駆け込むなり、プレトは両手で両膝を掴み、前のめりになった。周りの目も憚らず、激しく呼吸する。ぜあーっ、ぜあーっ。おかしな音だ。疲れすぎて、呼吸が乱れすぎて、ハアハアとかヒューヒューとか一般的な呼吸音を通り越しているのだ。
「ちょ、大丈夫? いきなりこの距離をジョギングするのはムリがあったかな、いつもより長いコースだったもんね⋯⋯救護室行く?」
ルリスが心配そうに覗き込んでくる。こめかみから流れる汗が光っている。ぜっぜっ、ぜっはっ……答えようとするが声が出てこない。身振りで元気であることを伝え、エントランスに設置されたイスに腰かけた。クッションが柔らかく、身体がほんのり沈んだ。息が整い始めたのを確認し、プレトは話し出した。
「はあっ、はあっ、だいじょぶ、ありがと。張り切りすぎたけど、いい運動になったよ」
プレトは周りを見回してから続けた。
「コギト人も見当たらないし、一旦は撒けたかな。映画館に来て正解だったね」
「帰りに待ち伏せされてたりするかな」
「もしそんな気配があったら、タクシー拾って帰ろう」
映画を観ている間に陽は落ち、街は夜の色に塗り込められた。厚い雲がパズルのように空を覆っている。かなり気温が下がっているから雪が降るかもしれない。ルリスと身体を寄せ合って歩いていると、本当に雪が降ってきた。雑踏に煽られるほど軽い雪だ。プレトは話しかけた。
「ねえねえ、この前アリーチェが助けてくれたの、ちょうどこの辺なんだよ」
「酔っぱらいに絡まれたんだっけ? 大変だったね」
「相手は女だったし、怖かったわけじゃないけど、アリーチェが来てくれて助かったよ。今日も見回りしてるのかな? 偶然鉢合わせるかもね」
「ありえる。そしたらご飯誘おうか」
「いいね⋯⋯おあっ、すみません」
前から歩いてきた人とのすれ違いざま、相手の肩とプレトの肩がぶつかった。この繁華街は賑わっているからよくあることだ。反射で謝り、そのまま歩き続けていると、後ろから声が飛んできた。
「お前、痛かったぞ。ちゃんと謝れ」
足を止めて振り返ると、女がこちらを睨んでいた。先ほど肩が当たった人だ。顔立ちと、若干の片言からコギト人だと推測できる。女はまくし立てるように喋りはじめた。酒焼けしたようなギシギシとした声が鼓膜を引っかいてくる。
「治療費払え! ケガした! 金よこせ!」
「ケガ⋯⋯してないと思いますけど」プレトは答えた。
女は身体が大きく、肉付きがいいから、肩が軽くぶつかっただけでケガをするとは思えない。仮にケガをするとしたらプレトの方だろう。
「相手しなくていいよ、行こ?」
ルリスに手を引かれて歩き出すと、再び女の声が飛んできた。今度は先ほどよりも三倍くらい声量がある。
「人でなし! こいつは人でなしだ! ワタシにケガさせて金も払わない! ケチだ! 意地汚いヤツだ!」
周りの人たちが訝しげな視線を女に送った。女の言うことを誰も相手にしていないのだ。だが、人混みをかき分けるようにして複数のコギト人が現れた。自宅付近からここまでストーカーしてきた奴らだ。会話している様子から、女と仲間だと分かった。もしかするとこの女がリーダー格なのかもしれない。全員でプレトとルリスに向かって文句を言いはじめた。どうしてこんなことに⋯⋯ルリスに目配せすると、そっと耳打ちされた。
「このメインストリートって交番あったっけ?」
「あったような気がする」
答えながら周囲を確認すると、あった! すぐそこにあった! 警官が味方をしてくれるとは限らないが、コギト人だってわざわざ警官の前でカツアゲしたり殴りかかってきたりはしないだろう。それだけで十分だ。期待を込め、ルリスと共に交番へ駆け寄った。中を覗くと誰もいなかった。代わりに、小ぶりな札が扉にかかっている。
『事件対応中』
別件で出払っているということだ。このタイミングでいないとは。交番内のデスクにはイメージキャラクターのぬいぐるみが置かれ、楽しそうに笑っている。こっちは笑いごとじゃないのに。バカにされている気分だった。
「なんだお前、警察に行くつもりか。悪いのはお前なんだから、捕まるのはお前だ」
振り返ると、コギト人たちがすぐ傍にいた。半円を作ってプレトとルリスを囲っている。背後には交番があるから逃げるに逃げられない。女が勝ち誇ったように喋っている。ルリスに視線を向けると、すっかり肩を落としていた。タクシーを拾う隙なんてない。今すぐ通報したとしても、警察の到着を待つ間に何をされるか分からない。周りの通行人たちは明らかに見て見ぬふりをしているから、助けを求めても状況は変わらないだろう。集団のうちの一人がルリスに詰め寄ったのを見て、意を決して口を開いた。「いくら欲しいの? といっても、渡せるのはこれだけだよ」
プレトは財布を取り出し、現金を全て渡した。大した額は入れていないから、なんとか諦めがつく。コギト人たちは金額に不満を示し、ルリスにも財布を出すよう要求した。だが、ルリスは現金を持ち歩いていない。これが癪に障ったらしく、余計に詰め寄ってきた。
「ちょっと、もういいでしょ。しつこいよ」
プレトが放った言葉を意に介さず、女が集団に何か指示を出した。コギト国の言葉だろうか、聞き取れなかった。そのうちの数人がプレトとルリスの腕を掴み、素早く路地裏に引っ張った。声を上げる間もなく、狭い通路に押し込まれてしまった。プレトのすぐ後ろにルリスがいて、目の前にはコギト人たちがいる。カチカチカチと音が聞こえた。聞き覚えがあるが、何の音かは思い出せない。
一瞬、先頭にいるコギト人の手元が街灯を反射して鈍く光った。それはカッターだった。先ほどのカチカチという音は、カッターのナイフを出す音だったのだ。奴らはとうとう刃物まで向けてきた。唾液を飲み下すと、ギュッと潰れるような音が耳に響いた。喉の奥がきつく閉まって声が出てこない。ルリスもカッターに気が付いたらしく、荒い息がプレトの首筋にかかった。ところどころで「ヒッ、ヒッ」と声が混ざっている。叫ぼうとしているのに恐怖でうまくいかないようだ。
それはプレトも同じだった。言葉は頭の中を巡るだけで、口からは一向に出てこない。二人とも、ブランド品も貴金属も身につけていないから、刃物を向けられたところで渡せるものなど何もない。それは奴らだって分かっているだろう。そもそも、プレトとルリスは金持ちには見えないはずだ。なのにどうしてここまでするんだ。カッターを持ち歩いているのも不自然だし、咄嗟にカッターを出せるのも不自然だ。何が目的なんだ。金じゃないのか。先頭のコギト人は脅すようにカッターを持ち上げ、プレトの眉間に刃先を向けた。
冷えた手で心臓を撫でられたかのような心地がした。刃物を持っている集団相手に抵抗などできるわけがない。瞬きすらままならない中、コートの裾をきつく握りしめ、『助けてください』と強く祈った。
(第26話につづく)

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