悪戦苦闘のドッキュメント
「ここまでしか言えない」という物事に興味がある。それ以上言えなくなる事実があり、宗教、哲学、芸術というものはそれを狙っていると思う。仏教では「如」という概念があるが「如」というのは「その通りにある」という意味だ。「諸法実相」というのも「万物がその通りにある」という意味だが「万物がその通りにある」ということ以上には言えない。どれだけの出来事が起ころうが、起こったことが起こった通りにあるのであって、それ以上のことは何もない。だからまず「如」という概念は「ここまでしか言えない」だ
多様性って言葉が何を指しているのか、いまいちよく分かっていない。「多様性」を叫ぶ人たちが、表現規制などに躍起になるのは、この概念のパラドックスな気がする。 人間を一番多様に解釈すると「固有名詞」で分類することになる。各々に各々の名前があるので、1億人いれば1億の多様性があることになる。「個性」などと言われるのもこれのことで、各々の人格が尊重される。 「各々の人格が尊重されなければならない!」というのはカント以降の道徳に顕著だと思う。これ自体に問題はないと思うのだが、
これが哲学の始まりだと言われている。よく「タウマゼイン」というギリシャ語が使われるが、存在に驚くことから哲学は始まる。しかし存在に驚くってどういうことだろうか。全ての存在者は存在しているし、驚くも何もない。 「存在」についてよく考えているが、多分答えは出ないので、「驚く」の方を考えた方が良いと思った。「存在が不思議だ」と言って、伝わる人と、伝わらない人がいる。僕も初めはよく分からなかった。この世の意味が分からなかったので「神っているのだろうか」とよく考えていたが、この
プリチャードのジレンマという概念がある。プリチャードという人が言い始めたらしいが、道徳を行う理由を考える時「①それが道徳的な理由であった場合、説明が循環になる」「②道徳外的な理由であった場合、動機が不純になる」というジレンマらしい。 ①道徳を守るべきなのは、道徳が尊いからだ。と考える時、これは説明になっていない。道徳の理由を説明するのに「道徳」を使っているので説明が循環している。「道徳のための道徳」というのは、何からも支えられておらず、根拠がない。カントの実践理性批判は
意識の流れ
山奥に引きこもる生活をやめて、人と住む生活を始めると、精神衛生が良くなった。現代は孤独の時代と言われているが、個人的には孤独が一番つらかった。身内の死や身体の病気など、一般に不幸と呼ばれている出来事の中では「孤独に過ごす」ということが一番不幸だった。不幸、というものは他者と交わることで癒されると思うが、孤独という不幸は本質的に一人であるので、絶望しかない。 本を読んだり動画を見たりして、夕飯を食べて寝る生活をしているが、時々デートをする。デートと言っても大半は本屋か外食
酒井潔の「ライプニッツ」という本を読んだ。「人と思想シリーズ」の一巻で、このシリーズは外れもあるので不安だったのだが、面白かった。3分の2ほどはライプニッツの伝記で、後は思想だった。数学、法律、神学、歴史学、形而上学など、様々な分野で第一級の活躍をしたらしく、まとめるのも大変そうだ。 数学に関しては有名なように、微分積分の発見をしたり、二進法を発明したらしい。計算機も人類で初めて作ったらしく、コンピューターの先駆けになった。 法律に関しても成果を残していて、生命保険はラ
文章を書くことが好きだ。毎日書いても全然飽きない。毎日哲学書や宗教書を読んでいるが、文体に妙味がある。古典的な哲学書は、現代小説よりも文学的だと思う。 ブログの目的 ①文章力の向上 文章力を上げたい理由は主に二つあり、一つは芸術的感性の滋養、もう一つは思索力の向上だ。パスカルの言葉で言えば「繊細の精神」と「幾何学の精神」の向上と言える。これらの二つの能力はお互いを含みあっているように感じることが多々ある。芸術家は通俗哲学者よりもよほど物事を考えているし、哲学者は通
最近体調が優れなかったのだけれど、理由が分からなかった。ストレッチをしたり瞑想をしたりしても全然良くならないのでぐったりしていたのだが、部屋に入ってきた猫を抱いていると体調がよくなって視界もスッキリした。孤独感で体調が悪かったのかもしれない。 最近は「カントの誤診」「純粋理性批判」「世界の思想 純粋理性批判」「なぜこれまでからこれからが分かるのか」「言語哲学大全」などを読んでいた。永井=カントの「世界構成規則」という表現に心が躍ったので、そればかり考えているが、カントの
信仰や瞑想
孤独や虚しさなどの生きづらさについて考えているが「共同体の崩壊」に尽きるんじゃないかと思う。 自分がネットで仲良くなる人には共通項があると感じていたが、仲良くなる人はみんな田舎に住んでいる人が多い。ネットで人と関わることが多いが、圧倒的多数が東京、大阪だ。都会の人は冷たい印象が強く、仲良くなることが少ない。 実家から出て、少しだけ都会に住んでみると、自分の住んでいた環境は物凄く田舎だったらしいと気づいた。本で言うと、三島由紀夫の「潮騒」に出てくる町、宮本常一の「忘れ
仏教の悟りのメルクマールに「有身見」というのがある。これは「自分のことを身体だと思い込んでいる偏見」という意味なのだけれど、普通人は自分のことを身体だと思っている。僕が瞑想した限り、自分は身体ではなく、意識が同一化したものが「エゴ」と見做されている。 人間というのは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、思考の六つで構成されている。身体というのは普通「触覚」を指している。「皮膚で覆われたもの」を「身体」と呼んでいるが、実際のところそれは「皮膚が感じる触覚」だ。それ以上のものはない。
禅の勉強をしていると「今」とか「私」とか「事実」という言葉が頻出する。なぜこれらが強調されるのだろうか。今、私、現実、というのは分析哲学でも重視されているらしく、指標詞と呼ばれている。 「今」というのは「いつ言うか」で内容が変わってくる。僕が現在「今」と発話すると、2026年4月3日の6時14分を指すが、1年前に発話すれば2025年4月3日の6時14分だろうし「今」というのは「発話する時点」で内容が変わってくる。 「私」というのも似たような形をしている。僕が「私」とい
ヴェイユの「不在の神に祈る」というモチーフが好きだ。「神がいるから祈る」というのは祈りとしては不純に感じる。だから、大方の信仰者は不純に感じるし、パスカルの「賭け」も同様だ。「御心のままに」というのが祈りの純粋な形態だと思うが、前提として「神」を置くのかどうかで全く変わってくる。絶対者のような神を想定すれば「御心のままに」というのは簡単だろう。「救い」や「慰め」を駄賃にして神に従順になるというのは安易で不徹底な道に思える。 入不二の「選択・賭け・神頼み・祈り」という分類
かっこよさ 美しさ
父親と信じられないぐらい喧嘩した。反抗期が来なかったので、今更来たのだと思う。 文学や哲学を読んでいる時に、泣いている男の子を感じることが物凄く多い。某日本人哲学者には露骨に感じるが、池田晶子、ニーチェ、シオランなどにも感じる。文学で言えばサリンジャーが強い。「反抗期」とか「思春期」と呼ばれるような文体があり、それらに特有の文体がある、というところまで考えて「あれ、これのことを中二病というんじゃないのか」と気づいた。あまりにもべったりと即自的に中二病だったので、中二病とい
カントの判断力批判が、美学として一番完成度が高い。以前にも読んだことがあるのだが、芸術を見る眼が肥えてから読んでみると、一から十まで正しいと感じた。僕は「スタイル(文体、タッチ)が一番重要である」という主張をしていたのだが、カントもかなり似ている。主要なテーゼは次のようになる。 芸術が分かる人と分からない人とが屹然と区別されるのが不思議だったが、「関心」ということを視野に入れればよく分かる。芸術が分からない人は「関心」が強すぎるのだと思う。「欲望」と言ってもいいが、鑑賞
昔から民主主義とか大衆というものが嫌いなのだけれど、大きい声で言うと怒られるので友人にだけ話していた。最近はSNSで大衆の実態が明らかにされ、大衆嫌悪の人が増えてきた。なぜ自分がこんなに大衆が嫌いなのか考えたい。 僕は「面白いものが好き」という信念が一貫しているのだけれど、大衆は面白くないからだと思う。「面白い」ということは「平均からズレていること」「普通からズレていること」という意味を含意するが、大衆というのは「平均」とか「普通」とかいう意味だ。僕は平均的な人が嫌いな
芸術というものは言語化できないが、言語化できないという事態をどうにか言語化する方法はないのか探していた。大森荘蔵の本に「相貌」という言葉が出ていてピンと来た。ウィトゲンシュタインの「アスペクト」の概念にヒントを得ているのだろうけれど、相貌の方がしっくりくる。 ただ相貌という言葉もまだ曖昧だ。大森は、相貌という概念を木を例に説明している。木を思い浮かべると、自然に周囲の木々や湖も思い浮かぶ。木だけ浮かんだとしても「暗闇の中にある木」という相貌で立ち現れる。空間的な相貌があ
記憶
保育園で園長に殴られていた。当時は理由も分からずに虐められていたが、後で聞くと、親戚関係の事情で、周囲の大人の態度が変わったらしい。見かねた母親が幼稚園に転園させた。幼稚園の記憶は曖昧だが、大人の人が怖いのと、人見知りが激しく、辛かった記憶がある。 当時は発達障害やASDといった概念が存在しなかったが、小学校時代は凄く生きづらかった。上級生によく殴られていた。石畳の上で額を地面につけて泣いていると、上級生が頭にドッジボールを投げてきて、額が石畳にあたり、たんこぶが出来て
二週間ほど前に引っ越しをした。山奥に引きこもって一人で本を読む生活をしていたのだけれど、ネットで知り合った人の家に住むことになった。相手は芸術系の大学を卒業した人で、今は普通に働いている。僕は家で本を読んでいるだけでいいと言って、労働も家事も全てしてくれるので、少し申し訳ない気持ちになるが、もう前の生活にはあまり戻りたくない。 同棲は4回目なのだが、どれもなし崩し的に始まったので、上手くいかなかった。今回は互いに長期間を見越して同棲を始めたので、上手くいくかなあと楽観視
3日ほどネット断ちをしていた。読書もインターネットもせずに3日も過ごすのは10年ぶりぐらいだったと思う。インターネットのせいでメンタルが不調になっている自覚があったので、意識的に全てやめてみた。 最近不安なニュースを見ることが多く、陰謀論や戦争のニュースなどをYouTubeで見ていた。何気なく見ていたのだが、だいぶ精神がやられてしまっていたみたいだ。 世界というのは記憶から出来ている、というのが唯識仏教の主張だけれど、あながち間違っていないと思う。記憶=無意識=阿頼
十年以上ほぼ毎日文章を書いているのだが、自分でもなぜ文章を書いているのか上手く言語化できなかった。あ、真善美なんだと気づいて、そこを軸にすれば上手く言語化できるような気がする。 真理が知りたい。真理を知る方法にはいくつか方法があり、信仰主義、修行主義、理性主義ぐらいで大別できると思う。イエス、ブッダ、ソクラテスだ。ブッダに傾倒していた時期もあったが、ブッダの言っていることは全て正しかった。要は「あるようにあり、なるようになる」ということなのだけれど、無内容故に絶対的に真
これ何なんだろう
十代の頃に「モナドロジー」を通読したのだが、何を書いているのかさっぱり分からなかった。「物質ではない実体が存在する」とか「世界は生命で満ちている」とか「迷信」のような記述が多く、呑み込めなかった。最近「そういうことか」と思って読み返すと、一気に全部が分かった。これから何度も読み返すだろうけれど、今の理解をまとめておきたい。 ライプニッツは「モナド」という概念を導入する。ギリシャ語で「単一」という意味らしい。ではこの「モナド」は何なのかと言えば「魂」である。突飛なようだけ
カントの純粋理性批判の「超越論的演繹」という部分がずっと難解で良くわからなかった。どの解説書にも「非常に重要だが、難解」と書かれており、的を射た解説を読んだことがない。 永井のカント本を繰り返し読んで、やっと理解できた。 事実として、僕にはこの一つの現実しか与えられていない。だからこれは夢と同等のものなのだけれど、客観世界らしきものも存在する。客観世界を「この一つ」から導出するにはどうしたら良いか?それは「規則を使う」というものだが、なぜ規則が重要なんだろうか。
ここ十五年ほど哲学書を読むかネットをするか寝るかしかしていないのだけれど、ネットが詰まらなくなってしまった。バカスwwみたいなノリだったのが「告訴します」になってしまった。SNSを見ていたら体調が悪くなるので本を読むしかないのだが、起きている間ずっと本を読むわけにはいかないので、何もすることがなくなった。 何もすることがないので、何もしていないと結構幸せな気持ちになった。坐禅も瞑想もせず、ただ庭に座って蟻を眺めていると、穏やかな幸福感が漲ってくる。散歩をするより思考が捗
「存在とは何か?」ということを最近よく考えているが、存在というのは「実存」と「本質」に分けられる。「実存」というのは「何かがある」という意味で、本質というのは「これは何か」という意味だ。例えばペーパーナイフの実存は「ペーパーナイフがある」という意味で、本質は「紙を切る」ということだ。 サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉が有名だが、人間は「何かであること」ということよりも「そもそも存在すること」の方が先行しているということだ。人間はAさんであったり会社員であった
倫理学、美学、芸術、メンタルヘルス
最近実家から出たのだが、実家から出ると自分の家がどれほど歪んでいたのかハッキリした。20年以上これが「普通」だったので、異常だとは思わなかった。 家庭環境については過去に書いたことがあるので詳述しないが、実家を離れると、不安や恐怖といった感情が身体から出て行った。身心ともに緊張していたのが、だいぶ良くなった。父親は典型的なモラハラ経営者という感じで、脆い自尊心を支配と恐怖で守っているようだった。 「全部ぼくのせいだ」という思考が止まらなくなったのが意外だった。「自責」
僕自身はHSPの特徴に当てはまるのだけれど、自称したことは一度もない。HSPと自称すれば、他人から「面倒な奴だ」「思慮の浅い奴だ」と思われるかもしれないという可能性を考えるくらい繊細だから。 最近は「繊細」という言葉が流行っていて、なぜか肯定的な文脈で使われることが多いが、繊細とは何なんだろうか。一言で言って「臆病」の言い換えなんじゃないかと思う。大きい音や眩しい光が苦手、他者の機嫌に左右されやすい、深く物事を考える、これらは「臆病」の言い換えに感じる。なぜ「臆病」と言
冷笑という現象に興味がある。僕自身の興味の対象が世間で流行ることはあまりないが、「冷笑」という現象は現在流行っている。「笑い」という現象は「最終項」という感じがするし「何かを否定する」という行為も興味深い。懐疑という否定は西洋哲学に属するし、仏教も執着を否定していくし、キリスト教も現世や自己を否定していく。 否定という現象は哲学でもよく扱われるが、実生活でなぜ有用なのかというと「否定」という行為は全てのものに行うことができるからだと思う。原理的に、全ての命題に「~ではな
「モテ」というのは人間生活の根本事象であるのに、語ることが許されていない気がする。哲学スレッドなどで何度か「モテについて話したい」と発言したが、冷やかされて終わった。モテというのは性欲や恋愛だけではなく、権力勾配なども関わってくると思うのだが、なぜか疑問視することが許されていない気がする。 「モテ」にまつわる事象は語られている気がするが、モテそのものについて語られることがあまりない。 「モテ」と「非モテ」という人種がいるとして、モテの人がモテについて語るモチベーション
誠実さ
僕が子供の頃と今を比べても、結構道徳が変化している。当時は同性愛者は差別されていたし、整形やタトゥーは「親から貰った身体に傷を付けるな」と言われて否定されていた。今では同性愛者を差別することが非道徳的であるし、整形やタトゥーを否定すれば「時代遅れ」と揶揄されることになる。 当時は差別的発言をしていた知人も、現代では「理解のある人」になっているのが不思議だ。もし現代人と過去の人間が、電話をすることができれば、おそらく決着が付かない。よく言われるように、戦争が許されていた戦
反出生主義についての議論は落ち着いてきた感じがあるが、まだちらほら見かけることがある。どの倫理学の説もそうだけれど、自分も他人も十把一絡げにして論じるから変になっているんじゃないかと感じた。自分と他者の場合を分けることが必要だと思う。 反出生主義について点検すると長くなるので「出産は苦痛の総量を増やすので加害だ」という観点で書く。「出産は親のエゴイズム」も受け入れる。下記の「僕」というのは書き手を思いうかべて書くが、読者は自分のことを思った方が分かりやすいかもしれない。
地獄が怖かった。幼い頃に、保育士からか親からか分からないが「悪いことをすると地獄に堕ちるよ」と言われ、真に受けていた。それから少しでも悪いことをすると「地獄に堕ちないかな」と不安になっていた。病的な不安と言ってもよく、友人に「〇〇したけど地獄に堕ちないかな」と聞いて笑われていた。同様の事例は読書人生の中でも白隠禅師しか見たことがない。白隠禅師は夜船閑話というメンタルのケアの本を出しているぐらいだから、神経症の気質があったのだと思う。 家は無宗教であったし、神なんか一ミリ
生活保護云々のツイートを見ていて、生活保護が異様に叩かれているのが不思議だった。生活保護を擁護するようなコメントは見たことがない。なぜだろうと考えていたら、理屈は簡単なことで、労働している人も、生活保護を受給している人も「生活保護は貰うべきではない」と主張した方が得をするからだ。労働する人数は増えるほど社会が安定し、自分の生活もよりよくなっていくので、自分から見れば、絶対に他者が労働した方が得だ。だから、労働者も生活保護受給者も「生活保護は貰うべきではない」という言説を吐く
様々な批評
ハイデガーは詩と哲学を同列に語っている。ヒューマニズム書簡では「思索と試作は存在の住処である」というようなことを書いていた。高価なので読んでいないが、ヘルダーリンの詩を基にした講義なども行っていたらしい。 存在については(おそらく)語れないので、詩に表現を求めるのは分かる。僕自身も詩を書いているが、まだそこまで上手くないので、存在を歌ったであろう詩を批評したい。 この詩が谷川俊太郎で一番好きかもしれない。特に「不意に」という部分が好きで、自分の詩でも時折顔を出す。今
最近は毎日カントの解説書や純粋理性批判を読んでいるのだが、疲れたので久々に小説を買った。「族長の秋」と「巨匠とマルガリータ」を買って、今は後者を読んでいるのだが、凄く面白い。自分は小説にあまり詳しくない方だと思っていたのだが、哲学書に比べて読書数が少ないというだけで、小説の話も一定できることに最近気づいた。小説のことを書いたことがないので書いてみたい。好きな小説について書きたい。 ①カラマーゾフの兄弟 いわずと知れた名作だが、やっぱり好きだ。村上春樹は「世の中の人
リルケの作品を読んでいると、不安の感情が通底していることを感じる。リルケの過敏な神経が感じていた不安が、そのまま言葉になって歌われている。不安をそのまま吐露した詩はあまり多くないが、自らの不安定な感情を、震える手つきで文字にしたような詩ばかりだ。次の詩は自らの感情をそのまま詩にしているが、読むだけで胸が詰まりそうになる。 「感情がこわいのです」という告白は、何か対象があって恐怖や不安を抱いているのではなく、自らの不安そのものに不安を感じているという告白だ。自分の感情に不
社会 政治
なぜこんなにクレーマーや被害者の権利が強くなったのかよく考えている。十年前、二十年前と比べて、ハラスメントの意識やキャンセルカルチャーが強くなってきた。どういう原理で強くなったのか、クリティカルなことを言っている文章は見たことがない。自分で考える必要がある。 考えようと思ったが、手掛かりがないのでジョン・スチュアート・ミルの「自由論」を買って読んでみた。現代の社会は「平等」や「自由」に基づいているのは常識だが、自明すぎてそれらの原理が精査されることはない。 ミルの自
「ある思想が正しいか否か」は頻繁に議論されている。リベラリズムが正しいとか、保守主義が正しいとか、フェミニズムが正しいとか、共産主義が正しいとか、様々なことが議論される。僕はあまり政治思想というものがないが、これらの現象自体が極めて不思議に思える。「絶対に正しいもの」なんかあるわけがなくないか。あるなら「信仰」と変わらない。科学や数学や論理学ですら議論の余地があるのに、なぜこんなあやふやな体系を「正しい」と信じているのかが全然分からない。同じ疑問を持っている人に出会ったこと
人に能力主義的だと言われた。自分でもその自覚はあり、人を裁いてしまう自分が嫌だった。「判断」とか「裁く」という能力は人間の根本的な性質だと思われる。瞑想の本によく「判断をしない」(是非を管することなかれ)と書かれてあるが、そういったテクニックをしなければ、人は判断をしてしまう動物であると思う。 現代は能力主義とかメリトクラシーと言われているが、能力を問うことは今に始まったことではない。中国や日本の古代にも実力主義的な傾向は見られる。役人を科挙で選定していたというのは有名
「虚偽と虚無」という本を読んだ。平成以降に書かれた本で、古典のような衝撃を受ける本というのは中々出合えないのだけれど、久々に良い本だった。 念仏や坐禅で求道をする体験記と、その体験を仏教やカントやニーチェの概念装置を使って理論化をするという本だった。体験記の方は描写が凄まじく、共感できるところも多々あった。理論の方も整理の仕方が上手く、納得できる理屈が多かった。僕も信仰を求めていた時期があるけれど、信仰というのは単純なようで奥が深い。信仰を深めれば救われるというのは事実