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真理など存在しない。科学とは、終わりのない「仮説の集積」である

深夜0時。部屋の明かりを落とし、パソコンのバックライトだけが手元をぼんやりと照らしている。

街の喧騒が完全に死に絶え、時折、家の骨組みが温度差で小さく軋む音だけが、夜の深さを教えてくれる。

そんな時、机の上に置いたスマートフォンが短く震え、画面に青白い光が灯った。

一件のダイレクトメッセージ。

「あなたの記事、この部分が間違っています。この論文を読めば、地球温暖化が人為的なものではないことは明らかです。速やかに訂正された方がいいですよ」

メッセージには、学術論文のリンクが一つ添えられていた。

私は椅子の背もたれに深く体を預け、冷めたコーヒーを一口啜る。

苦味だけが舌の上に残り、頭の芯が少しだけ冷えるのを感じる。

こうしたメッセージは、今日に始まったことではない。

サステナビリティや環境問題について発信を続けていると、まるで見えない場所から飛んでくる礫のように、こうした「正解の提示」が日常的に届く。

「間違いを訂正せよ」という言葉の裏側には、ある種の残酷なまでの純粋さが透けて見える。

送り主にとって、その論文は疑いようのない「真実」であり、私たちはその真実から外れた「誤答」を垂れ流す存在なのかもしれない。

彼らの親指は、スマートフォンの冷たいガラスをタップする瞬間に、どれほどの全能感に包まれているのだろうか。

しかし、私の指先にあるのは、それとは対極にある感覚だ。

キーボードのキーひとつひとつに刻まれた使い込まれた凹み、叩くたびに伝わる微かな振動。

そこには、絶対的な正解に辿り着けない人間の、泥臭い試行錯誤の感触しかない。

私たちは、いつからこれほどまでに「正解」を、あるいは「真実」という名の麻薬を求めるようになってしまったのだろうか?

デジタルな文字が並ぶ画面の向こう側で、複雑に絡み合った現実の糸を強引に一本だけ引き抜き、「これが答えだ」と叫ぶ。

その暴力的なまでのシンプルさが、今の社会を覆い尽くそうとしている。


私たちはなぜ「正解」という麻薬を求めてしまうのか

そもそも、なぜこれほどまでに多くの人が、たった一つの論文やデータに「模範解答」としての役割を期待してしまうのか。

その背景には、現代社会が抱える「不確実性への耐性の低さ」がある。

地球温暖化、生物多様性の喪失、マイクロプラスチック汚染。

私たちが直面している問題は、どれも変数が多すぎて、一つの数式で解けるようなものではない。

原因と結果は複雑に絡み合い、ある地点での「良かれ」と思った行動が、遠く離れた別の場所で致命的な欠陥を生む。

かつて私は、SNSで「サーマルリサイクル(熱回収)」を厳しく批判していた。

多くの人がイメージする「モノからモノに生まれ変わる」リサイクルは、一つは「マテリアルリサイクル」だ。対して、ゴミを焼却する際に発生する熱をエネルギーとして回収し、発電や温水利用に充てる手法は「サーマルリサイクル」と呼ばれる。欧州などではこれをリサイクルとは呼ばず「エネルギー回収」と厳密に区別することが多い。

「日本では分別をさせておきながら回収されたプラスチックゴミのほとんどを燃やしている」
「熱回収をリサイクルと呼んでいるのは日本だけだ。欧米では認められていない」

そんな言葉を、さも絶対的な「正解」であるかのように振りかざしていた時期がある。

当時の私にとって、マテリアルリサイクルこそが唯一の善であり、燃やすことは敗北を意味していた。

それは、清潔なデスクの上で読んだ資料や、欧州の先進事例という名の「真実」に基づいた確信だった。

しかし、その確信は、長崎県対馬の海岸線に立った瞬間に脆くも崩れ去った。

対馬の海岸線の総延長は915kmに及ぶ。

その複雑に入り組んだリアス海岸のいたるところに、年間3万〜4万㎥もの海洋プラスチックゴミが押し寄せる。

そこにあるのは、自動販売機の横のリサイクルボックスに収まるような、汚れのないペットボトルではない。

強い紫外線を浴びてボロボロに劣化し、得体の知れない付着物に覆われ、異臭を放つプラスチックの塊。

それらはあまりに劣化が激しく、もはや新たな製品に作り変えるための耐久性を持ち合わせていない。

莫大なコストをかけて回収しても、その大部分は「リサイクル不可能」という冷酷な判定を下される。

そのゴミの山を前にしたとき、私の喉元まで出かかっていた「サーマルリサイクル否定論」は、行き場を失って消えた。

この圧倒的な現実を前にして、「リサイクルできないなら、そのまま海岸に放置し続けるのが正解なのか?」という問いに、私は「否」としか答えられなかった。

手札が極端に少ない最前線の現場において、熱回収という手段を奪うことがいかに非現実的で、残酷な理想論であるか。

私は対馬の潮風に吹かれながら、自分の無知を思い知らされた。

人々が白黒つけたがるのは、こうしたグレーゾーンの痛み、現場の矛盾に留まり続けることが苦痛だからに他ならない。

どちらが正しいか、どちらが間違っているか。

その二分法に逃げ込むことで、私たちは「現場の重み」から解放される。

それは一種の知的な逃避だ。

数値化できないもの、論文に書き切れないもの、そして現場でゴミを拾い続ける人々の疲労感。

それらを切り捨てて得られる「真実」に、一体どれほどの価値があるのだろう?

私たちは今、効率と正解の追求の果てに、最も大切な「納得感」という身体的感覚を失いかけている。

科学とは「真実」ではなく、絶え間なき「仮説の集積」である

対馬の海岸で、私は劣化したプラスチックの破片を手に取り、その重みを感じていた。

数千キロの旅を経てボロボロになったそれは、学術論文の中にある「ポリマー」や「マイクロプラスチック」といった清潔な言葉とは似ても似つかない、泥臭い存在感を放っていた。

この「手触り」こそが、私たちが科学と向き合う際に忘れてはならないものだ。

かつての私は、科学を「一度決まれば動かない絶対的な真実」だと思い込んでいた。

教科書に載っていること、論文に書かれていることは、この世界を統べる不動のルールなのだと。

そう信じていた方が、複雑な世界を解釈するのが楽だったからだ。

しかし、実際にはその正反対だった。

科学の本質は、到達できない「真実」という頂を目指して、暗闇の中で無数の登山者たちが「ここがルートではないか」と声を掛け合う、終わりのないプロセスそのものにある。

かつて、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「重いものほど速く落下する」と説いた。

この説は、私たちの直感にあまりに合致していたがゆえに、二千年近くもの間、人類にとって疑いようのない「真実」として君臨し続けた。

しかし、その「真実」はどうなったか。

ガリレオがピサの斜塔から重さの異なる球を落とし、ニュートンが万有引力を定式化するに至って、二千年の重みを持ったアリストテレスの説は、一夜にして「古い仮説」へと格下げされた。

私たちが今、喉を枯らして主張している「科学的根拠」も、数百年後の人類から見れば、あまりに素朴で、不完全な「当時の思い込み」に過ぎないかもしれない。

科学の歴史とは、昨日までの真実を、今日提示されたより洗練された仮説が葬り去る、その冷徹な更新の連続である。

絶対的な真理に到達できた理論など、この世には存在しない

なぜなら、その理論が本当に究極の真実であるかどうかを、客観的に確かめられる「神の視点」を持つ人間などいないからだ。

だから、深夜に届いたDMが提示する「地球は温暖化していない」という論文も、一つの仮説としては成立する。

しかし、それはあくまで、広大な議論のテーブルに乗せられた、数あるカードのうちの一枚に過ぎない。

重要なのは、その一枚のカードが「真実」かどうかを争うことではない。

そのカードが、他の何百、何千というカードとどのように響き合い、あるいは反発し合っているのか。

その全体像を眺める忍耐強さを持つことではないだろうか。

科学的な態度とは、信じることではなく、疑い続けることにある。

自分の立脚している地面が、いつか覆されるかもしれないという恐怖を受け入れながら、それでも現時点で最も「正しそうな」場所を探し続ける。

きっと、その危ういバランスの上にしか、誠実な知性は宿らないのかもしれない。

論文という名の武器:「部分最適」がもたらす盲点

論文は、決して「模範解答」ではない。

それは、ある研究者が、ある特定の条件下で、ある特定の仮説を検証した「報告書」に過ぎない。

一つの事象に対して、100人の研究者がいれば、そこには100通りの切り口がある。

ある論文はAという側面を照らし、別の論文はBという側面からそれに反論する。

このダイナミズムこそが科学を前進させるエンジンなのであって、一つの論文で議論を終わらせようとするのは、科学的な態度とは言えない。

自分の主張を補強するために、膨大なデータの中から都合の良い事実だけをつまみ上げる行為は、一般に「チェリー・ピッキング」と呼ばれる。

バスケットの中に山積みになったサクランボの中から、熟したものだけを選び取り、その下にある傷んだ現実には目をつむる。

対馬の海洋ゴミ問題にしてもそうだ。

「プラスチックは海に流れても、いずれ深海に沈むから問題ない」

という論文がもし仮に一つあったとしても、私の目の前に広がる、対馬の入り江を埋め尽くすゴミの山が消えてなくなるわけではない。

特定の論文が示す「部分的な正解」と、現場が突きつけてくる「全体的な歪み」。

この二つの間で引き裂かれながら、それでもなお、全体を俯瞰しようと試みること。

それが、情報を扱う者に課せられた責任なのだと思う。

論文という名の「武器」を持ち出し、相手を屈服させようとする時、そこには対話の余地は消え失せる。

サステナビリティという、人類が一丸となって取り組まなければならない巨大な課題を前にして、この「部分最適」な正義感ほど、歩みを止めるものはない。

私たちは、論文の行間に隠された、著者の葛藤や前提条件の限界を読み解かなければならない。

その数字が、どのような文脈で、誰のために導き出されたものなのか。

それを問うことなしに、データの奴隷になってはならない。

100の仮説と対話する:「正しいっぽい」を積み上げる流儀

私たちが発信する言葉は、決して天から降ってきた啓示ではない。

それは、泥臭い情報の取捨選択と、終わりのない自問自答の末に絞り出された残滓のようなものだ。

一つのテーマについて書くとき、少なくとも数十の「仮説」に触れる。

学術論文、公的な統計データ、現場の記者のルポルタージュ、そして対馬の海岸で聞いた地元の人の独白。

それらは時に互いを補完し、時に激しく衝突する。

私の頭の中は、常にこの「矛盾する声」で溢れかえっている。

重要なのは、それらを一つの結論に無理やり統合しようとしないことだ。

むしろ、矛盾を矛盾のまま自分の中に同居させる。

100の論文のうち1つを正解とするのではなく、100の論文が描く100通りのグラデーションを、そのまま眺め続ける。

その果てに、ようやく「正しいっぽい」という微かな手応えが残る。

この曖昧な言葉にこそ、私は誠実さが宿ると信じている。

それは、膨大な「間違いっぽい」を排除し、消去法で生き残った、現時点での最善の選択肢だ。

対馬のゴミ問題において、私が「サーマルリサイクル容認」へと舵を切ったのは、単に新しい知識を得たからではない。

山積するゴミの悪臭、それを片付ける人々の震える肩、そしてリサイクル技術の限界という冷徹なデータ。

それら無数の「現実」と対話した結果、自分の中にあった「マテリアルリサイクル至上主義」という仮説が、あまりにも「間違いっぽい」ものに思えてきたからだ。

情報を積み上げるという作業は、レンガを積んで強固な城壁を作るようなものではない。

むしろ、色の異なる無数の砂を重ねて、地層を作るような感覚に近い。

その地層は脆く、新しい情報の雨が降れば簡単に形を変える。

しかし、その時々の地層の重なりこそが、その瞬間に語る「言葉の重み」になる。

「これが正解だ」という言葉は、たしかに軽やかで聞き心地が良い。

しかし、その言葉には奥行きがない。

一方で、「現時点ではこう考えるのが最も妥当だと思われるが、同時にこうした懸念も残る」という、まどろっこしく、慎重な言葉。

そこには、対象を安易に消費せず、真正面から向き合おうとする人間の「身体性」が宿っている。

情報収集とは、最短距離で正解を盗むことではない。

どれだけ多くの「寄り道」をし、どれだけ多くの「ノイズ」に耳を傾けたか。

その無駄とも思えるプロセスの積み重ねだけが、血の通った「主張」へと変えてくれる。

そして何より、一人の人間が、一生をかけて触れられる仮説の数には限界がある。

私という一人の人間が持つフィルターは、どうしても私自身の年齢、性別、知識、そしてこれまでの経験という枠に縛られている。

対馬で私の常識が覆されたように、私一人の目で見える世界は、あまりに狭く、脆い。

サステラは現在、たった数名で運営されている極めて小さなメディアだ。

私たちが直接知り得ること、肌で経験できることなど、広大な世界の数パーセントにも満たない。

だからこそ、私たちは「サスラボ」という名の、ある種の拡張編集部をつくることに決めた。

年齢も専攻も、日々の生業も異なる多様な人々を、私たちの編集空間へと招き入れ、みんなでメディアをつくろうとする試みだ。

学生の瑞々しい感性、現場を知る職人の頑固な手触り、研究者が積み上げてきた理論の重み。

それらを混ぜ合わせ、時には激しくぶつけ合う。

自らの限界を認め、他者の知性に扉を開くこと。

それこそが、一人の「正解」という檻から抜け出し、より解像度の高い「グレーな領域」へと踏み込むための唯一の手段だと考えたからだ。

サスラボに集う人々と共に、私たちは答えの出ない問いに悩み、共に傷つきながら、言葉を紡いでいく。

一人では抱えきれないほどの仮説を、みんなで少しずつ分かち合いながら、現時点での「正しいっぽい」を積み上げていく。

この泥臭い、あるいは一見すると非効率極まりない対話のプロセスこそが、サステラというメディアの鼓動そのものなのだ。

間違いを認める勇気と、科学的態度という名の誠実さ

自分の間違いを認めることは、決して敗北ではない。

科学的な態度とは、常に「自分は間違っているかもしれない」という可能性に、扉を開けておくことだ。

対馬で私の常識が覆されたとき、私はある種の爽快感すら覚えた。

自分の無知を突きつけられることは、苦痛であると同時に、世界をより解像度高く捉え直すチャンスでもあったからだ。

もし私が、あの深夜のDMに対して「私はこう信じているから、あなたの論文は無視する」と答えたとしたら、私はその瞬間に「一人の実践者」であることを辞め、単なる「宗教家」に成り下がっていただろう。

サステナビリティという概念は、日々刻々と更新されている。

昨日までサステナブルだと思われていたものが、今日には環境破壊の元凶とされることもある。

その変化の激しさに翻弄され、疲弊することもあるだろう。

しかし、その揺らぎこそが、この営みが健全であることの証明なのだ。

私たちは、正解を所有する権利など持っていない。

でも、答えのない問いの海を、溺れそうになりながらも泳ぎ続ける自由なら持っている。

思考を止めて「真実」という陸地に逃げ込むのではなく、波に揉まれながら問い続ける。

その呼吸を止めないこと。

それだけが、私たちがこの場所で発信を続ける、たった一つの理由だ。

過ちを認め、仮説を更新し続けること。

その泥臭いプロセスを隠さず、読者に見せていくこと。

それこそが、情報が氾濫し、誰もが「真実」を騙る現代において、発信者に求められる最低限の倫理だと考えている。

完璧な人間などいない。

完璧な理論もない。

だからこそ、私たちは互いの不完全さを認め合い、よりマシな仮説を求めて、議論を積み上げていかなければならない。

画面の向こう側の「あなた」と、終わりのない問いを分かち合うために

深夜2時。ようやく書き終えた原稿を読み返し、私は再びスマートフォンの画面を見る。

青白い光の中に浮かぶ、あのDM。

私は結局、その論文を精読することにした。

内容は確かに、温暖化に対して懐疑的な立場を取るものだった。

だが、そこで示されているデータの取り方や前提条件を一つひとつ紐解いていくと、それが地球全体の大きなトレンドを説明するにはあまりに不十分であることも見えてきた。

しかし、私は送り主を論破しようとは思わない。

彼もまた、自分なりの「真実」を探し求め、何かに縋り付こうとしている一人の人間なのかもしれない。

その孤独な探求心だけは、否定したくない。

私はキーボードを叩き、返信を書く。

「貴重な資料をありがとうございます。一つの視点として、非常に興味深く拝読しました。ただ、私は他の数十の仮説と照らし合わせた結果、現時点では温暖化の影響を重く見る立場をとっています。もしよろしければ、あなたがその論文に辿り着いた背景や、他のデータとの矛盾をどう考えているか、また教えてください」

送信ボタンを押すと、画面の光がふっと消えた。

私たちの仕事は、誰かを打ち負かすことではない。

正解を提示して思考を停止させることでもない。

画面の向こう側にいる「あなた」と、このままではいけないという焦燥感を共有し、答えのない問いの海を共に泳ぎ続けることだ。

対馬の海岸で、私が拾い上げたプラスチックの破片。

あれはゴミだったのか、それとも「正解などない」という世界からのメッセージだったのか。

波の音が聞こえる。

それは、昨日までの真実を洗い流し、新しい仮説を運んでくる、永遠の更新の音だ。

私たちは、これからも間違え続けるだろう。

恥をかき、言葉を濁し、迷い続けるだろう。

だが、その足跡こそが、私たちがこの不確実な世界を、誠実に生きた証になる。

夜が明ける。冷めきったコーヒーを飲み干し、私はまた、次の仮説を探すための旅を始める。


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