「で、結局この株は上がるんですか、下がるんですか」——たまにそう聞かれる。気持ちはわかる。でも私はそれを書かない。書けないんじゃなくて、書かないと決めている。理由を話すと、少し長くなる。
予想を書けば、たぶんアクセスは増える。「○○株、来週急騰の理由」みたいなタイトルは、悲しいくらいよくクリックされる。それを知っていてやらないのだから、商売としてはたぶん下手だ。自分でもそう思う。
ただ、ずっと相場を見てきて、ひとつだけ確信に近いものがある。上がるか下がるかを言い当てることと、相場で生き残ることは、ほとんど関係がない。むしろ「当てにいく」姿勢そのものが、人を負けに近づけていく場面を、何度も見てきた。
そもそも、予想は本当に当たらないのか
これはよく言われる。「プロでも当たらない」「アナリストの予想は外れる」。半分は正しい。でも私は、当たる外れるの話を一度脇に置きたい。問題は当たらないことじゃない。当たることがあるから、厄介なのだ。
仮にコイン投げで予想したって、二回に一回は当たる。十人が好き勝手に予想すれば、誰かは連続して当てる。その「誰か」が翌週には予言者のように扱われ、外れた九人は静かに消えていく。残った予言者も、次の週には別の誰かに入れ替わる。この椅子取りゲームを延々と眺めてきた気がする。
当たれば「ほら見たことか」と実績になる。外れれば「相場に絶対はない」で流される。当たりだけが記録に残り、外れは忘れられる。この非対称性がある限り、予想を語る人間は構造的に「当てている人」に見え続ける。本人が意図していなくても、だ。
私が予想を書かない一番の理由は、たぶんここにある。予想を書いた瞬間、私は自分の言葉に縛られる。書いた手前、その方向を応援したくなる。下がってほしくない、と願いはじめる。願望が混じった目で相場を見るようになる——これが、いちばん怖い。
予想を口にした瞬間、思考が歪みはじめる
人は、自分が宣言したことを正当化しようとする生き物らしい。投資の世界でこれをやると、けっこう致命的になる。「上がる」と書いてしまえば、上がる材料ばかり目に入る。下がる兆候が出ても「これは一時的だ」と無意識に値引きする。ポジションを切るべき場面で、自分の予想を守るために握り続ける。
これは意志の弱さの話じゃない。賢い人ほど、自分の論理を補強するのが上手いぶん、深くハマる。むしろそこが厄介なんだと思う。
「上がると思う」は予想。「ここで買って、ここを割ったら降りる」は判断。前者は当たり外れがすべてだが、後者は外れても生き残れる。生き残るために必要なのは予想の精度ではなく、外れたときの撤退ルートのほうだ——少なくとも私はそう考えている。
だから私は、予想ではなく「どう向き合うか」を書きたい。上がるか下がるかは、正直わからない。誰にもわからない。わからないことを、さもわかるように書くのは、読んでくれる人に対して不誠実な気がしてならない。
本当に当てている人は、たいてい黙っている
これは肌感覚に近い話なので、要出典確認、としか言えない。ただ長年見ていると、相場で本当に結果を出している人ほど、自分の見通しを声高に言わない傾向がある気がする。当てる必要がないからだ。彼らが管理しているのは予想の的中率ではなく、外れたときにどれだけ傷が浅く済むか、のほうだった。
逆に、毎週のように威勢のいい予想を発信している人を、私はあまり信用していない。当てているなら、わざわざ他人に教える理由がどこにあるんだろう、と素朴に思ってしまう。ここは少し意地が悪い見方かもしれない。でも、何度か痛い目を見ると、こういう疑いが体に染みついてくる。
断定的な予想は、不安を一時的に消してくれる。「上がる」と言い切ってくれる声は、判断の重さを肩代わりしてくれるように感じる。その心地よさにお金を払っているうちは、たぶん搾取され続ける側にいる。予想を求める気持ちそのものが、結果としてカモにされる入り口になってしまうこともある——書いていて、自分にも刺さる。
私が書きたいのは、矢印じゃなくて構造
上がる、下がる。この二択は、結局のところ矢印を一本引くだけの行為だ。当たればドヤれて、外れたらこっそり消せる。残るものが何もない。
私が書き残したいのは、その矢印の下で動いている仕組みのほうだ。なぜこの局面で個人が踏み上げられるのか。なぜ好決算なのに売られるのか。なぜ「買い」を連呼する声がこれだけ大きいのか——そこには、たいてい誰かの都合がある。矢印は一週間で陳腐化するけれど、構造は何年経っても同じ顔をして繰り返す。学んでおけば、次に似た場面が来たときに、自分の頭で判断できる。
予想を配れば、その場の承認は得られるのかもしれない。でもそれは、読んでくれた人を少しずつ「自分で考えない人」にしていく行為でもある。私はそれをやりたくない。遠回りでも、構造を渡したい。たぶんそのほうが、長く役に立つ。
正直に言えば、予想を書かないのは「逃げ」だと思われても仕方ない部分がある。言い切ったほうが記事は強くなるし、読まれもする。それを承知でやらないのは、たぶん私自身が、過去に自分の予想に殺されかけたことがあるからだ。あの頃、ひとつの見通しに固執して、降りるべき場所で降りられなかった。
上がるか下がるか——その問いに答えを出すより、「なぜ自分はその問いに答えを欲しがってしまうのか」を疑うほうが、相場では長生きできる。少なくとも私は、そう信じてここを書いている。
というわけで、これからもこのブログでは「来週上がる銘柄」みたいな記事は出てこない。期待してくれていた人には申し訳ない。でも、そのぶん、矢印の裏側で何が起きているのかは、しつこく書いていくつもりだ。
矢印は配らない。代わりに、地図を描こうとしている。
