あずと叶ノ瀬の生活

VTuberと密かに同棲しているリスナーの僕の日常

僕と叶ノ瀬について

「恋愛の好きってよく分からないんよね」
 叶ノ瀬(かのせ)の職場に近いアパートで僕たちはルームシェアをしている。防音室があるのでベッドを二つ置くスペースはない。だから僕たちは同じベッドで寝る。
 叶ノ瀬の方に恋愛感情はない。でも僕の方にはある。
 僕を抱き枕代わりに抱きしめる叶ノ瀬の感触と匂いに毎晩悶々としている。

 

 叶ノ瀬はVTuberをしている。企業所属ではない。個人事業主として、バーチャルなアバターを身にまとって配信をしている。ただし配信だけでは食べていけないので、医療事務の仕事と兼業している。
 もちろん、叶ノ瀬というのはVTuberの芸名であって、本名ではない。本名だけでなく、顔を出したこともない。主な配信内容は、歌とゲームと雑談。
 叶ノ瀬と僕は、最初は配信のコメントと配信者という関係でしかなかったが、今はリアルな肉体が同じ部屋で寝泊まりをしている。もちろん他の視聴者にはこのことは内緒だ。
 僕は叶ノ瀬の「ガチ恋」として他の視聴者の間でも有名だったし、今もそのキャラクターは続けている。と言っても、そのほとんどは本心をそのまま書いている。なぜなら僕の恋は未だに実っていないし、叶ノ瀬は未だに僕の恋愛感情を放置しているからだ。

 

 なぜ叶ノ瀬が僕とのルームシェアを許したのか……僕にそれなりの好意を持ってくれているのか、あるいは僕のことなど取るに足らない存在と思っているからなのか、それは分からない。僕は在宅勤務なので、必然的に家事のほとんどを僕が片付けることになっているのも関係しているかもしれない。

 

 僕と叶ノ瀬の生活は、いつまで経っても曖昧で、煮え切らなくて、抽象的で、宙ぶらりんで、微妙なままだ。
 それでもよければ、聞いてほしい。

 

 

表札


 宅配便が来た。
 インターホンに出ると、配達員が「お荷物のお届けです」と言った。僕宛ての荷物だった。仕事で使うキーボードのスタンドだ。
 ハンコを押して、玄関先で受け取る。
 配達員は伝票を見て、最後に確認した。
「こちら、お二人で同居されてます?」
「……はい、ルームシェアで」
「あ、すみません。ご家族かなと思いまして。失礼しました」
 配達員は笑顔のまま帰っていった。

 居間に戻ると、叶ノ瀬は防音室の入り口で待機していた。
「誰?」
「宅配。僕のキーボードスタンド」
「ふうん」
 彼女は防音室に戻って、配信の準備に入っていく。
 うちの玄関の表札には、彼女の苗字しか書いていない。僕の名前は出していない。配信の都合上、念のためそうしている。
 配達員が見た伝票には、僕の苗字も載っていたはずだ。それで、家族かと思ったのだろう。

 夜、僕がスタンドを組み立てていると、叶ノ瀬が缶チューハイを持ってリビングに現れた。
「あずくん、何してるの」
「キーボードのスタンド」
「家、どんどん物が増えるね」
「のせさんの服も増えてる」
「失礼な」
 彼女はソファに座って、缶を開けた。プシュ、と音がする。
 僕はネジを締めながら、配達員の言葉を思い出していた。
「のせさん、表札さ」
「うん?」
「いや。何でもない」
 言いかけて止めた。彼女は表札の話に興味がない。
 組み立てが終わって、スタンドを机の上に設置した。キーボードを乗せて、高さを確かめる。
 叶ノ瀬はチューハイをほぼ飲み終えていた。
「ご家族、って言われた」
「誰に?」
「配達員」
「あー」
 彼女は缶を傾けた。中身はもう空だった。
「あずくん、もう一本取って」
「はい」
 冷蔵庫の前で、僕は缶を選んでいた。叶ノ瀬の好きな銘柄を覚えている。
 居間に戻って缶を渡すと、彼女は受け取って、すぐにテレビを点けた。バラエティ番組が始まる。
 冷蔵庫のドアに、町内会の回覧板を回した記録の紙が貼ってある。世帯主の欄には彼女の名前だけが書かれている。
 テレビの音量を、叶ノ瀬は少し上げた。

コラボ


 叶ノ瀬の配信画面の隣に、蛇神よろりのアバターが映っていた。
 歌ってみた配信のコラボで、二人は新曲の収録の打ち合わせをしながら雑談している。よろりはギャルっぽい喋り方で、叶ノ瀬の話に大きく反応する。
 僕はリスナーとして、いつも通り画面の向こうから見ていた。コメント欄は普段の倍くらいの速さで流れている。
 配信開始から二十分が過ぎたころ、よろりが何気なく振った。
「そういえばさー、叶ノ瀬の家、前にお邪魔した時めっちゃ綺麗だったじゃん」
 僕は息を止めた。
 よろりが叶ノ瀬の家に来たのは僕が同棲を始める前の話だ。今のアパートではない。それでも、コメント欄が一瞬だけ反応する。
「家って前の?」というコメントが流れる。
「そうそう、前の。今のは行ったことない」
 よろりが先に答えてくれた。叶ノ瀬は涼しい顔で頷いている。

「彼氏とか、いないの?」
 コメント欄の流れが速くなった。よろりは無邪気に聞いている。叶ノ瀬は配信中によくこの手の質問をかわしてきた。
「いないよ。お友達ならいるけど」
「お友達ねえ。叶ノ瀬、その『お友達』いっぱいいすぎでしょ」
 よろりが笑う。叶ノ瀬も笑う。
 画面の向こうで、僕は自分のコーヒーを冷ましていた。マグの取っ手を握っている指が、力が入りすぎていた。
 コメントには「ガチ恋のあずくんしか勝たん」「あずくんは永遠のお友達ポジション」と流れていく。
 よろりはそのコメントを拾った。
「あずくんって誰? ガチ恋いるの?」
「いるよ。お友達」
「は?」
 よろりが大げさに肩を落とすアバターのアクションを見せた。コメント欄が「草」で埋まる。
 叶ノ瀬は新曲のキーの相談に話を戻そうとしているが、よろりは食いつきを離さない。

「そのあずくんって、叶ノ瀬の生活握ってるリスナーでしょ。前、配信中に差し入れの話してたじゃん」
「握ってないよ。たまに買い物頼んでるだけ」
「それ握られてるんよ」
 よろりはケラケラ笑っている。
 差し入れの話、というのは、僕が出張で家を空けたときに、叶ノ瀬が配信で「いつものリスナーが買ってきてくれる豆腐がない」とぼやいた話だ。リスナーの間では「あずくん不在配信」と呼ばれている。
 配信は二時間続いた。
 よろりは最後まで「あずくん」のことを面白がっていて、叶ノ瀬はその度に「お友達からだから」と繰り返した。
 配信が終わって、防音室から出てきた叶ノ瀬は、僕に水を要求した。
「お疲れ」
「ありがと。よろり、面白かったでしょ」
「うん。お友達、人気だね」
 叶ノ瀬は笑った。コップの中身を一気に飲み干して、ソファに座る。
「次の収録、来月のどこかで合わせるって」
「うん」
 彼女は配信仲間とのDMに切り替えて、もう僕のほうは見ていなかった。

風邪薬


 熱が三十八度を超えた。
 仕事のミーティングを途中で切って、寝室で布団に潜り込んだ。叶ノ瀬は職場に出ていて、夕方まで戻らない。
 LINEで「熱出た」とだけ送った。返事は「了解」の三文字だった。
 午後三時ごろ、玄関のドアが開く音がした。予定より三時間早い。
「あずくん、生きてる?」
「生きてる」
 寝室の襖が薄く開いた。叶ノ瀬は職場の制服のまま、紙袋を提げている。早退してきたらしかった。
 僕は彼女に休めとは言わなかった。配信は今夜入っていない。それを知っている上で、彼女は職場から薬局に寄って戻ってきたようだ。
 紙袋からゼリー飲料と冷却シートと風邪薬と、ペットボトルの水が二本出てきた。
「シャワー浴びたら、戻ってくる」
「うん」

 しばらくして、叶ノ瀬は部屋着で寝室に戻ってきた。髪が濡れたままだった。
 額に冷却シートを貼られて、ゼリーを口元に持ってこられて、僕は半分意識が朦朧とした状態でそれらを受け入れた。冷却シートは冷たすぎて、思わず息が漏れた。
「水分、ちゃんと取りな」
「うん」
 ペットボトルのキャップを外して、ストローを差して、彼女は枕元に置いた。
 叶ノ瀬は普段、僕の体調にそこまで踏み込まない。今日は早退してまで戻ってきた。
 配信の時間でもないのに、彼女は僕の隣に座って、ペットボトルの水を一口ずつ飲ませてくれている。
 僕がいつも、彼女の兼業生活をサポートしているのと同じ仕草を、今度は彼女がしている。
 僕は何も言わなかった。
 風邪薬の錠剤を二粒、彼女は手のひらに出して、僕の口に押し込んだ。指先がほんの一瞬、唇に触れた。

 夜になって、熱は少し下がった。
 叶ノ瀬は冷蔵庫からおかゆの素を取り出して、鍋を火にかけている。料理は得意ではない。卵を割るときに殻が混ざっていた。
「のせさん、無理しないで」
「無理してないよ。これくらいは」
 彼女はおかゆを器によそって持ってきた。卵の殻が一つ、表面に浮いていた。僕はそれを見つけないふりをして、口に運んだ。
 味は薄かった。塩を入れ忘れたのかもしれない。
 叶ノ瀬は枕元で、缶チューハイを開けている。彼女は一人で飲み始めた。
「あずくんが寝たら、私も寝るね」
「うん」
 冷却シートを貼り直す指の感触は、ひんやりしていた。
 彼女はスマホを見ながら、僕が食べ終わるのを待っていた。器を下げにキッチンに立つ足音が、いつもより静かだった。

歯ブラシ


 洗面所のコップには歯ブラシが二本立っている。
 青いのが叶ノ瀬で、白いのが僕だ。
 最初は別々に置いていた。叶ノ瀬がメイクポーチの隣に自分の分を置いていて、僕は鏡の反対側に置いていた。
 ある日、コップが一つ増えていた。叶ノ瀬が買ってきたものらしい。陶器の白いコップで、底に小さな花の柄が入っている。
「あずくん、こっちに入れていいよ」
「うん」
 それから、二本の歯ブラシは同じコップに入っている。
 毛先が触れない程度の距離は保たれていて、彼女のほうが少し先に消耗するのか、買い替えのタイミングは合わない。
 今朝、叶ノ瀬の歯ブラシが新品になっていた。柄の青い色が、前のものより少し濃い。
 昨日まで使っていたのが、ゴミ箱の底に転がっている。

 僕が歯を磨いていると、叶ノ瀬がメイクをしに横に立った。
 肩が触れるか触れないかの距離。鏡の中で目が合うと、彼女は片手でアイラインを引きながら笑った。
「あずくんの歯磨きの仕方、丁寧」
「のせさんが雑なだけだと思う」
「失礼な」
 歯ブラシを口に咥えたまま、叶ノ瀬はファンデーションのスポンジを取った。鏡が一つしかない洗面所だから、必然的に並ぶことになる。
 へそのピアスがちらりと見える程度の薄手のシャツを着ていて、僕はそこから視線を外した。
 歯磨き粉のチューブを彼女が無造作に押す。中身が一センチほどコップの脇に飛び散った。彼女はそれを拭かない。僕がティッシュで拭く。
 歯ブラシのコップに、僕のと彼女のが並んで立っているのが鏡に映っている。
 彼女の歯ブラシの柄に、ファンデーションが少しついていた。

 歯磨きを終えて、僕はコップに自分の歯ブラシを戻した。
 毛先がうっかり彼女のと触れた。すぐに離して、位置を直した。
 叶ノ瀬は気づいていなかった。アイラインを引き終えて、満足そうに鏡を覗き込んでいる。
 マスカラの蓋を開けて、まつ毛にブラシを当てながら、彼女は鏡越しに僕を見た。
「あずくん、歯ブラシそろそろ買い替えな」
「まだいける」
「毛、開いてる」
「のせさんと一緒の銘柄でいい?」
「いいよ。次のドラッグストアで二本買ってきて」
「はい」
 彼女はマスカラを置いて、洗面所を出ていった。
 歯ブラシのコップを見る。柄の角度が、彼女の動きで少しずれていた。

トースト


 朝の七時半。
 僕がコーヒーを淹れていると、寝室のドアが開いた。
 叶ノ瀬は寝起きの顔のままキッチンに入ってきて、トースターに食パンを放り込んだ。髪は寝癖のままで、メガネはかけていない。
「のせさん、おはよ」
「おはよ……」
 返事になっていない返事をして、彼女はトースターの前に立ちつくす。
 僕は普段、五時には起きている。仕事の時差の関係で午前中に集中して片付けたいからだ。
 叶ノ瀬は普段、九時に起きる。今日は早番だから七時半に起きた。
 二人とも生活リズムが固定されているので、朝に重なる時間はだいたい二十分くらいしかない。
 トーストが焼ける匂いがした。
 僕がコーヒーを差し出すと、叶ノ瀬は黙って受け取った。マグを両手で包んで、一口だけ飲む。それで止まる。
 眉間に皺が寄っていた。熱かったらしい。
 砂糖を二本、ミルクを二つ。彼女のコーヒーの定型は決まっている。僕はそれをすでに入れて出した。

 トーストを取り出して、叶ノ瀬は何も塗らずにかじり始めた。
「のせさん、ジャムは?」
「面倒」
「バターも?」
「面倒」
 乾いたパンを淡々と食べていく。指先で摘まんで、ちょっとずつ。
 僕は普段、朝食はちゃんと作る。卵を焼いたり、サラダを切ったりする。今朝も同じように作った。
 叶ノ瀬の前にも、僕の作った卵焼きの皿が置いてある。彼女は気づいているのか気づいていないのか、トーストばかりを齧っている。
 諦めて、僕は自分の卵焼きを食べた。
 叶ノ瀬の目は半分しか開いていない。
 冷蔵庫を開けて、彼女はヨーグルトを取り出した。蓋を剥がして、スプーンで一口、口に運ぶ。それも一口で止まる。
 残りはまた冷蔵庫に戻された。

 時計を見て、叶ノ瀬は急に立ち上がった。
「やば、行く」
 残ったトーストを口に咥えたまま、洗面所に走っていく。
 卵焼きはそのまま残されている。
 水道の音、ドライヤー、化粧道具のかちゃかちゃする音が、続けて聞こえる。十五分で全部終わるのを、僕は知っている。
 着替えと髪のセットを終えて、叶ノ瀬は玄関で振り返った。コンタクトを入れた目元はもうしっかりしている。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 ドアが閉まる。
 卵焼きが二切れ、僕の前と彼女の前の皿に、それぞれ残っている。
 彼女の皿を引き寄せて、僕は朝食を続けた。冷めた卵焼きは少ししょっぱかった。
 ヨーグルトの蓋は、剥がしたまま冷蔵庫に戻されていた。僕はラップをかけ直した。

 

エアコン

 夜十一時、防音室の扉が開く音がした。配信が終わったらしい。
 叶ノ瀬は首にタオルを巻いて出てきた。髪の生え際が湿っている。FPSの長丁場だったらしく、目の縁が赤い。
「のせさん、お疲れ」
「ありがと。今日のスクリム、ひどかった。最後のラウンドでチームメイトに謝りすぎて喉が枯れた」
 冷蔵庫から麦茶のボトルを出して、グラスに注ぎ、一気に飲み干した。グラスの底がテーブルで音を立てる。もう一杯注いで、それも半分まで飲む。
 エアコンの設定温度を二度下げて、叶ノ瀬はソファに倒れ込んだ。
 僕はソファの端に座って、膝に戻したノートパソコンに視線を落とす。仕事の続きをやろうとしていたところだった。
 彼女は目を閉じたまま、足を投げ出した。スリムな足が僕の太ももの上に乗る。重みは思ったより軽い。
 叶ノ瀬は何も言わない。耳のピアスが間接照明にちらりと光った。

 キーボードを打つと、僕の腕が彼女のふくらはぎに触れる。叶ノ瀬は一瞬だけ眉を寄せて、また力を抜いた。
 タイピングの音だけが部屋に残る。
 しばらくして、叶ノ瀬が小さく息を吐いた。
 ふくらはぎはひんやりしている。エアコンの風が直接当たる位置だった。ジムで作った筋肉のせいか、足の輪郭は意外と硬い。
 画面のカーソルが点滅している。打ちかけの文章を、何度か打ち直した。
「のせさん、足、置いとくの?」
「うん。クッション扱いでよろしく」
「はい」
 目は閉じたままだった。そういう答え方をする人だ。
 ノートパソコンの角度を少しだけ変えて、画面に意識を戻そうとした。エアコンの風が彼女の前髪を揺らしている。額にうっすら汗が浮かんでいるのが見えた。
 彼女のスマホがテーブルの上で短く震えた。リスナーからのDMの通知らしい。叶ノ瀬は反応しない。
 僕はキーボードに戻った。仕事のメールに、二行ほど書き足す。

 日付が変わるころ、叶ノ瀬は伸びをして起き上がった。
「お風呂入る」
「うん」
 足はあっさり離れていった。タオルを首に巻き直して、彼女は脱衣所に消えていく。
 ソファの座面に、彼女の足があった場所だけ温度が残っていた。
 ノートパソコンを閉じる。
 脱衣所のほうから、ドライヤーの音がしばらく聞こえてきて、止まった。
 空のグラスがテーブルに置かれたままだった。麦茶の輪が、コースターの外に少しだけはみ出している。
 僕はそれを拭いて、グラスをシンクに運んだ。

 

絆創膏


 叶ノ瀬が台所で指を切った。
 夕飯の支度をしていた。今日は叶ノ瀬が作る日だった。曜日で分担しているわけではないが、配信がない日は叶ノ瀬が作ることが多い。僕が仕事をしている背後で、包丁がまな板を叩く音が聞こえていた。
「いたっ」
 振り返ると、叶ノ瀬が左手の人差し指を押さえていた。キャベツの千切りの途中だった。
「大丈夫?」
「うん、浅い」
 水道で洗っている。赤いものが水に薄まって流れた。
 救急箱を棚から出して、絆創膏を渡した。叶ノ瀬は片手で貼ろうとしたが、指先が濡れていてうまく剥がせない。
「貸して」
 叶ノ瀬の左手を取って、絆創膏を巻いた。人差し指は細くて、爪にはネイルがしてあった。薄いラベンダー色。指先を持って、テープがずれないように押さえた。
「ありがとう。あずくん慣れてるね」
「慣れてない。普通だよ」
 叶ノ瀬は巻かれた指を眺めて、何の感想もなさそうにキッチンに戻った。包丁を持ち直して千切りの続きを始めた。絆創膏の巻かれた指で包丁を握っている。
 僕はデスクに戻った。さっきまで触れていた指の温度が、まだ手のひらにあった。

 夕飯はキャベツと豚肉の炒め物だった。叶ノ瀬は焼酎を飲みながら食べていた。
「あずくんが切ったほうが早かったかも」
「次は言って。代わるから」
「ん、大丈夫。これくらい」
 叶ノ瀬は絆創膏の巻かれた指で箸を器用に動かしていた。

 

マグカップ


 棚にマグカップが六つ並んでいる。叶ノ瀬が三つ、僕が三つ。最初はそういう区分だった。
 叶ノ瀬のカップは柄物が多い。花柄と、猫柄と、どこかの美術館で買ったらしい抽象画のやつ。僕のは無地の白と、無地の紺と、取っ手が少し欠けた灰色。
 いつからか、僕が叶ノ瀬の猫柄を使うようになった。きっかけは覚えていない。手前にあったから取っただけだと思う。叶ノ瀬は何も言わなかった。
 今朝、コーヒーを淹れようとして棚を開けたら、叶ノ瀬が僕の紺のカップを使っていた。ダイニングテーブルで、紺のカップにコーヒーを入れて、スマートフォンを見ながら飲んでいる。
「それ僕のカップ」
「え? あ、そう?」
 叶ノ瀬はカップを見て、それから棚を見た。
「どれがあずくんのか、もうわかんなくなってきた」
「紺と白と灰色」
「灰色のやつ取っ手欠けてるよね。捨てていい?」
「まだ使える」
「危ないって」
 叶ノ瀬はコーヒーを飲みながら、特に紺のカップを返す気配はなかった。僕は猫柄のカップにコーヒーを入れた。向かい合って座ると、互いに相手のカップを使っている状態になった。
 叶ノ瀬はそのことに気づいているのかいないのか、何も言わなかった。コーヒーを飲み終えて、紺のカップを流しに置いた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 流しに残った紺のカップを洗った。叶ノ瀬の口紅が薄くふちに残っていた。洗えば消える。消えた。
 棚に戻すとき、叶ノ瀬のカップと僕のカップをどこに置くか迷って、結局元の場所が思い出せなかった。適当に並べた。

 

宅配便


 チャイムが鳴った。
 僕はリビングでパソコンに向かっていた。叶ノ瀬は防音室にいる。配信中ではないが、明日の歌ってみた動画の録音をしていた。ヘッドホンをしているだろうから、チャイムは聞こえていないはずだ。
 インターホンの画面に宅配業者が映っていた。僕が出ればいい。いつもそうしている。
 玄関を開けた。業者は伝票を確認して言った。
「叶……えっと、お届けものです。こちらにサインお願いします」
 叶ノ瀬宛てだった。配信用の機材か何かだろう。伝票の届け先に叶ノ瀬の本名が印刷されている。僕がサインするのは変だが、同居人が受け取ることは珍しくない。
 サインをして段ボールを受け取った。業者が去り際に言った。
「奥さん、ご不在ですか」
「あ、いえ――」
 何と答えるのが正解かわからなかった。奥さんではない。同居人と言うのも説明が増える。いる、と答えれば夫婦だと思われる。いない、と答えれば嘘ではないが、防音室にいる。
「取り込み中なんで」
 それだけ言って、ドアを閉めた。
 段ボールをリビングに置いた。叶ノ瀬は三十分ほどして防音室から出てきた。
「あ、届いた? ありがとう」
「うん。のせさん宛ての荷物」
「開けていい?」
 カッターで段ボールを開けた叶ノ瀬は、中からポップガードを取り出して眺めていた。録音用のアクセサリらしい。
「これで吹かれノイズ減るかな」
「減ると思うよ」
 叶ノ瀬はポップガードを持って防音室に戻った。
 奥さん、という言葉がまだ玄関に残っている気がした。訂正しなかった自分が少し気になったが、訂正する方法もなかった。

 

ドライヤー


 風呂上がりの叶ノ瀬が、洗面所でドライヤーをかけていた。
 僕は歯を磨きたかったが、洗面台の前を叶ノ瀬が占領していた。鏡の前で髪を持ち上げながら根元に温風を当てている。茶色いセミロングは量が多くて、乾かすのに時間がかかる。
 後ろで待っていたら、叶ノ瀬がドライヤーを止めずに半歩横にずれた。どうぞ、という意味だろう。洗面台の幅はぎりぎり二人分で、隣に立つと叶ノ瀬の肘が僕の腕に当たった。
 歯ブラシに歯磨き粉をつけて磨き始めた。ドライヤーの風が叶ノ瀬の髪を巻き上げて、僕の首筋にかかった。湿った髪の毛が肌に触れて、シャンプーの匂いが近い。
 叶ノ瀬は気にしていない。鏡を見ながらブラシで毛先を整えている。ドライヤーの風向きが変わるたびに、叶ノ瀬の髪が僕の肩に散った。
 歯を磨く速度が落ちた。自分でもわかった。ドライヤーの音がうるさいから会話はない。ただ並んで立っている。叶ノ瀬の肘が動くたびに僕の腕に当たって、そのたびに叶ノ瀬はちらりとも見ない。
 先に磨き終えて口をゆすいだ。タオルで口を拭いて、洗面所を出ようとしたとき、叶ノ瀬がドライヤーを止めた。
「あずくん、後ろちょっとはねてるよ」
 僕の寝癖のことだった。風呂に入ったのに直っていなかったらしい。叶ノ瀬は僕の後頭部にドライヤーを向けて、ブラシで二、三回撫でた。五秒ほどで終わった。
「はい、おやすみ」
 ドライヤーが止まった。叶ノ瀬はまた自分の髪に戻った。
 寝室に行って枕に顔を埋めた。後頭部にまだブラシの感触が残っていた。

 

合い鍵

 

 叶ノ瀬が合い鍵をなくした。
 正確には、鞄の底に入り込んでいたのだが、それがわかったのは翌日のことで、なくした当日は大騒ぎだった。
 僕が仕事をしていると、玄関でガチャガチャと音がした。ドアの前で叶ノ瀬が鞄をひっくり返している。
「あずくん、鍵が」
「入れてなかった?」
「いつものポケットにない」
 僕が中から開けた。叶ノ瀬は鞄の中身をダイニングテーブルにぶちまけた。財布、ポーチ、ハンカチ、リップ、イヤホン、飴、レシートの束。鍵はなかった。
「職場に忘れたかも」
「明日確認して」
「うん……。あずくん、明日もいるよね?」
「在宅だからいるよ」
「じゃあ明日は開けてもらう」
 あっさりと解決した。叶ノ瀬にとっては、僕が家にいること自体が合い鍵の代わりだった。
 翌朝、叶ノ瀬が出勤するとき言った。
「帰ったらインターホン鳴らすね」
「わかった」
 夕方、インターホンが鳴った。画面に叶ノ瀬の顔が映っていた。ピアスが光っている。
「ただいまー」
「おかえり」
 玄関を開けた。叶ノ瀬は鞄の底から鍵を取り出して見せた。
「あった。裏地のほつれに引っかかってた」
「よかったね」
「うん。でもあずくんがいるから別に困んないんだけどね」
 叶ノ瀬は靴を脱いで入ってきた。困んない、と言った。僕がいるから。
 僕は生きた合い鍵だった。それでいいのかと思わなかったわけではないが、叶ノ瀬が困らないなら、まあいいかと思った。

 


 午後十時、叶ノ瀬は防音室で配信していた。
 雑談配信の日で、扉の向こうから時々笑い声が漏れてくる。アバター越しでも、彼女の声は彼女の声だ。
 僕は居間でリスナーとして配信を開いていた。コメントは流れる速さが心地よい程度に保たれていて、叶ノ瀬は乗っているように見えた。
 その日、僕は朝から喉の調子が悪かった。冷たい飲み物を飲み続けたのが悪かったらしい。市販の咳止めを飲んだが、効きが悪い。
 配信が始まる前に、叶ノ瀬から「咳、防音室まで聞こえないと思うけど一応気をつけて」と言われていた。
 居間と防音室の間にはドア二枚と廊下がある。普通の会話なら届かない。
 ただ、咳は別だ。

 配信開始から一時間後、僕の喉に違和感が来た。
 水を取りに台所に立った瞬間、咳が出た。一回では済まなかった。喉を抑えても止まらない。
 叶ノ瀬の配信画面を見ると、彼女は何かを話している途中だった。アバターの口がパクパク動いている。
 コメント欄を確認した。
「今、声してませんでした?」
 そういうコメントが一つだけ流れて、すぐに別の話題に押し流されていった。
 叶ノ瀬は気づいていない様子で話を続けている。マイクの集音範囲が狭いタイプなのが幸いした。
 風呂場に駆け込んで、ドアを閉めて、換気扇を回して、咳を吐き出した。
 タイル張りの空間で自分の咳が反響する。
 壁に手をついて、しばらくそのまま下を向いていた。蛇口の水を流して、口をゆすぐ。喉の奥が少し血の味がした。
 風呂場のドアの向こうで、配信は何ごともなく続いていた。

 配信が終わったのは深夜零時を過ぎてからだった。
 防音室から出てきた叶ノ瀬は、居間に座っている僕を見て首を傾げた。
「咳、ひどい?」
「ひどくない。ちょっとだけ」
「コメントで誰か声聞こえたって言ってたけど、あれあずくん?」
「……うん。風呂場に逃げた」
 叶ノ瀬は笑って、冷蔵庫から蜂蜜の瓶を取り出した。
「お湯に溶いて飲みな。明日休む?」
「休まない」
「ふうん」
 蜂蜜の瓶を渡されて、僕はそれを受け取った。彼女は配信機材の電源を落としに防音室へ戻っていく。
 お湯を沸かしながら、コメント欄を見直した。「ガチ恋のあずくんが来てたりして」と書いている人がいて、誰も真に受けていなかった。
 マグカップに蜂蜜を溶かす。湯気の匂いが甘い。
 叶ノ瀬が防音室から戻ってきて、僕の隣に座った。自分の缶チューハイを開けながら、彼女は配信のアーカイブの上がり方をスマホで確認している。
「明日の朝、薬局寄って咳止め買ってきて」
「うん」
 彼女は画面から目を離さないまま、頷いた。