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福井県の成り立ち知って 県立歴史博物館の伊藤さん 地図、古文書から読み解く

2021年5月13日 05時00分 (5月13日 09時37分更新)

「福井」の地名の由来となった「福の井」を紹介する伊藤さん=福井市の福井城趾で


 福井県がどのように現在のような形や名前になったのか。それを地図や古文書から読み解こうと試みる人がいる。県立歴史博物館の学芸員・伊藤大生さん(27)。「今では福井県の形、名前は当たり前のものだが、昔は違った。成り立ちを知るとより愛着が湧くのでは」と話す。 (藤共生)
 今年は嶺南地域と嶺北地域が一体となった福井県が誕生して百四十年の節目の年。一八八一(明治十四)年二月七日に、現在のような福井県は生まれた。では、それ以前はどうだったのか。現在の形が決まるまでには、さまざまな変遷があった(地図参照)。
 江戸時代までこの地域は越前国(えちぜんのくに)と若狭国(わかさのくに)だった。そこに大小さまざまな藩があった。中央集権化を目指す明治新政府は一八七一(明治四)年七月に廃藩置県を行う。そして三カ月後の十一月、福井県(十二月に足羽県に改称)と敦賀県が生まれた。
 ところが一年余り後の七三(明治六)年一月、この二県は統合されて敦賀県となる。そして三年半後には石川県と滋賀県に吸収された。この時の石川県は、現在の福井県嶺北地域と石川県、富山県をまとめた広大な県域だった。その五年後の八一(明治十四)年二月、現在のような福井県が生まれた。
 こうした県域の変更は、旧藩の勢力削減を狙う明治政府が、人口と経済力を基準として行ったと伊藤さんは言う。しかし、人々の慣習の相違や県庁の位置などの点で多くの問題があり、不満の声も多かったらしい。特に嶺南では、福井県になった後「滋賀県に戻してほしい」という声が上がったという。
 広くなったり、狭くなったり。試行錯誤を経て、現在の福井県は生まれたようだ。伊藤さんは「嶺南と嶺北は地形や暮らしぶりが大きく異なり、同じ決まりに基づく統治には多くの困難があった。その違いは、同じ県になったからこそ浮き彫りになったのではないか」と話していた。
 県立歴史博物館一階で十五日午後二時から「なぜ『福井県』になったのか」と題して伊藤さんが講演する。聴講無料。

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