松嶋智左『女署長の一番長い日』第2回
農村地帯を抱える地方都市の白堂警察署。いたって平凡な中規模署のはずが……署内で一千万円が紛失!? 警察署前に殺人死体が放置!! 署内外で次々と巻き起こる奇妙な事件に、署長以下、刑事・警官・事務職員たちが挑む、連作警察小説。
*
捜査の主導は刑事課が担う。もちろん、刑事課員だって怪しいのだが、そこまで疑っていては調べることができない。ある意味、署にいる人間、全員が容疑者なのだ。
そして警務課が助力する。金庫の鍵を保管している警務課が一番疑わしいともいえるが、刑事課同様、排除してしまったら捜査は進まない。
他の課は、課長命令で捜査に協力するという態勢を取る。呼ばれたら、課長であれ誰であれ、なにがあっても刑事課に出向き、聴取に応じるという約束を取りつけた。
本格的に調査することになって二日後、やっと唯美と話をすることができた。
「バタバタしてて、話もできなかったわね」
四月に赴任して、すぐに特殊詐欺の案件で忙しくなった。一度だけ、当直明けに待ち合わせて食事をしたが、唯美が子どもの用事があるというのでカラオケには行かず、早めに解散していた。それから今回の事件が発覚するまで、署内で姿を見ることはあっても、互いに声をかけることはなかった。
昼休憩のとき、唯美が缶コーヒーを手に署の駐車場に出たのを目にして、有子も缶コーヒーを買ってすぐに向かった。
日差しが降り注ぐような日は署員が体をほぐしていたりするのだが、あいにく今日は朝から曇天で、四月も後半なのに少し肌寒い。そのせいか駐車場は人気がなく、署内から声が微かに聞こえるだけだ。警ら用自転車を見て歩く唯美に、有子は声をかけた。
「ねえ、例の一千万のこと、どう思う?」
唯美が振り返ることなく、「どう思うって?」と問い返す。有子はこちらを向かない唯美の態度にむっとし、更に訊く。
「警務課なりに思うところはあるんじゃないの」
「なによ。思うところって」
「だって警務課なら職員の身上、経歴、家族構成、警察信組の住宅ローンとか、ある程度の生活実態は把握しているでしょう?」
唯美がいきなり振り返る。
「ちょっと、お金に困っている職員を名指ししろっていうの?」
有子は唯美の吊り上がった目を見て、慌てて弁解する。
「そうはいってない。でも、警務課が保持している情報はできるだけ知りたいのよ」
「その件は課長レベルで話し合って決着ついたでしょ」と疲れたように唯美が長い息を吐いた。
確かに、職員の個人情報については、刑事課においてある程度絞り込みができた時点で開示するという約束になっている。関係のない署員の個人情報を刑事課が知ることになれば、事件が解決したあと、色々問題が起きかねない。だが、一番の動機と考えられる金銭的問題のあるなしを知ることができれば、捜査が大いに進展するのも事実だ。刑事課としては隔靴搔痒の感があるところだった。
「わかってるわよ。ただ、うちとしても、どうしてもそこが気になる。だから同期のよしみで、なんとかならないかなぁって」
「もう、有子ったら。自分の係のことだから焦る気持ちはわかるけど、あなた一人でどうにかなる話じゃないでしょう。こういうのうちだって気を遣うのよ」
「だって赴任して、いきなりこんな事件よ。正直、参ってるのよ」
有子の本音を聞いたからか、唯美の表情がようやく普段のものに戻る。
「それは確かに気の毒だと思う。とはいえ、うちの課内ですら疑心暗鬼なのよ。ヘタなことをいって署員同士がぎくしゃくするようなことになっても困る」
「警務課内でもそうなっているか」
「うん。ちょっとしたやり取りでも深読みしたり、お金の話なんかうっかりしようものなら疑われるんじゃないかって焦ったり。ねえ、そっちこそどうなの」
「どうって?」
「捜査、進んでいるの? 少しは絞り込めたの?」
再会したときは唯美を見て、警察学校時代と変わらないと思ったが、見慣れてくるほどにそれなりの年月は経つのだなと思うようになった。ふと見かけたときの歩き方や後ろ姿に、両手に荷物を抱えているような張りのなさを見たりする。今も、目尻だけでなく唇にも細かな皺があって、白髪も数本見える。互いに知らないことは多くあるだろうし、会っていなかったあいだの全てを知っているわけではない。それでも同期だという気持ちがあるから、捜査のことも唯美になら話せる。
「事件発覚の前夜、当直した者全員を聴取したけど、みんな金庫の側には近づいていないというし。発覚した日の昼間の時間帯となると、一階に席のある署員に、用事があってやってきた人間までいれると相当な数になる」
「そうだろうねぇ」
「ただ金庫の鍵に触れる可能性のある者となると限定される」
「うん」
「まず警務課員」
それは仕方がない、という風に唯美も頷く。
「あと当直員」
そうだろうと、これも唯美は小さく何度も頷いてみせた。昼間は金庫の側には警務課員がいるから、他の部署の人間が妙なことをすれば目につく。
だから当直員が怪しくなるのだが、ただ一階受付は一人では就かない。最低でも二人。オープンスペースに席を置く警務課や交通規制係の当直員は、だいたい宿直室か別室にいるので一階は受付担当だけとなり、二時間ごとに入れ替わる。
ちなみに金庫はダイヤル錠と鍵の二段階で施錠するようになっているが、番号は忘れてしまうからとダイヤルは開いた状態で固定し、鍵だけで開けるようにしていた。その鍵は、警務係長の鍵のかかる引き出しに入ってはいるものの、就業時間中はその引き出しに鍵はかけていない。警務課の人間なら勝手に開けて、使っていいようになっている。
引き出しに鍵がかけられるのは終業後で、その鍵はなんと係長の机の上のプラスチックでできた文具ケースに入れられている。鍵をかけている意味がほとんどない。しかもそのことを知る者は意外と多かった。有子は赴任したばかりなので知らなかったが、同じ二係の浅田も津雲も、久和野ですら知っていた。
あまりにも杜撰な取り扱いに、有子は頭を抱えた。警察署内で窃盗などあり得ないと思い込んでいるから、仕方ないのかもしれない。新聞やテレビでも時折、警察官の不祥事が話題となるが、所詮、他所の署のことで、たまたまおかしな警官を抱えていた不運を気の毒に思う程度なのだ。
警務課長から叱責を受けた警務係長は、引き出しの鍵を肌身離さず持ち歩くようになった。お陰で課員は仕事をするのに手間がかかって仕方がないとぼやいている。
「当直員を詳細に調べてる」と有子はいった。
一階の受付は、同じ部署の人間同士では組まない。課が違うから、当直員同士が必ずしも仲良くお喋りするとは限らない。カウンター内にいても離れて座って、自分の用事に集中していたら、こっそり警務係長の引き出しから鍵を取って、金庫に近づくこともできるのではないか。
「そう考えて、当直員同士の関係性を洗っているんだけど」
有子は思わず言葉尻を弱くする。ついさっき浅田から聞かされた話を思い出したのだ。
お金が盗まれたと思われる夜、当直をしたのは二係の木内だった。その木内と共に一階受付を担当したのは、生活安全課防犯係の音川係長だ。浅田がいうには、二人は犬猿の仲らしい。一期違いだが、音川は警部補で木内は巡査長だ。そういう階級差に加えて、木内の別れた奥さんは以前、音川と付き合っていたことがあったという。そのことは木内も知っていて、同じ署になってから二人は口を利くことがなかった。
そんな人間をペアにして仕事をさせるとは、いったいどういうつもりなのか。だが、浅田は、そんな内々の事情を知る者は少ないし、あくまでも私情だからと肩をすくめた。
できるなら自分の部下を行動確認するような真似だけはしたくない。気が滅入りそうで有子は無理に笑顔を張りつける。
「ねえ、終わったら、大いに飲んで食べて、カラオケ行こう。どんな結果になっても愉快なことにはならないしさ」
唯美が困ったように眉尻を下げる。
「そうね、考えとく」
*
唯美とそんな話をした夕方、有子はもう一度、津雲を連れて現場に出向いた。つまり、一階警務課の後ろにあるパーティションの内側だ。
壁際に大型金庫があり、その左側に書類の入った段ボール箱が積んである。
「この作業机でお札を確認したのよね」
「そうです」と津雲が答える。
鍵を借りてきて金庫の扉を開け閉めする。特に大きな音はしないから、こっそり開けても一階の誰かに気づかれることはないだろう。有子は思い立って、金庫からものを取り出し、机の上に置いて作業する振りをしてみた。津雲が不思議そうに見ている。
あの日、浅田と津雲が二人でせっせと旧札を探した。そのあいだ、唯美はパーティションの際に立って様子を見ていた。そんな唯美の後ろ姿は、一階にいた当直員の目にも入っていたらしく、おかしな様子はなかったと証言した。
金庫の扉を閉め、鍵をかける。有子はそのまま考えるようにして金庫の上に腕を乗せた。すぐ側に段ボール箱がある。積み上げられていて、ほぼ金庫と同じ高さになっていた。
「津雲主任」
「はい?」
「お金を金庫に戻したあと鍵をかけたのは誰?」
「え。それはもちろん時沢主任です」
鍵はずっと唯美が持っていて、金庫を開けるのも閉めるのも彼女に任せたという。
「それ、ずっと見ていたの?」
「それはどういう意味でしょう?」
「時沢主任が鍵をかけている様子をずっと見ていたのかなと思ったのよ」
「いえいえ、まさか。あとはお願いしますといって、浅田主任と一緒にさっさと戻りました。少しでも早く仕事を片づけたかったですし」
「そうよね」
有子は、金庫の横の段ボール箱に手を伸ばす。使い古したものらしくテープを貼ったあとはあったが、封はされていなかった。指で持ち上げると簡単に開いた。なかを覗くと古い書類の束が見えたが、箱いっぱいでもなくまだ隙間がある。一千万円の札束が入るくらいの余裕は充分あった。
刑事課に戻るとなぜか人がいなかった。
二係だけでなく、一係も三係もいない。課長もおらず、事件でもあったのかと有子は津雲と共にきょろきょろ首を回した。一番離れたところにある組対係の島に人の姿が見え、思わず声をかけた。刑事が振り返って、「ああ、ちょっと前に連絡が入って、木内さんと生安課の音川係長が、裏の駐車場で取っ組み合いをしているとか。それでみんな――」
最後まで聞かずに、有子と津雲は部屋を飛び出す。廊下を曲がったところで、階段を上ってくる一団と出くわした。
まず生方が、口をヘの字にしたまま有子を一瞥することなく通り過ぎ、刑事課の部屋に向かう。そのあとに一係と三係の係長、そして浅田が続く。更に後ろを久和野と三係の刑事に両腕を摑まれた木内が上がってくるのが見えた。有子を見た浅田がなんともいえない顔をし、木内は項垂れるようにして顔を伏せる。目尻と唇の端が赤くなっているのがちらりと見えた。まるで被疑者が連行されているようで、有子は思わず声を荒らげる。
「もう大人しくしているじゃない。いい加減、腕を放してあげなさい」
はっと顔を上げる木内。久和野と三係の刑事がバツの悪そうな表情で手を放す。
「浅田主任、音川係長は?」と尋ねた。
「先に戻っていると思いますよ。生安の若いのがきて、連れて行きました」
それを聞いて有子も三階に上がる。
生活安全課には、防犯係と少年係の二つの島があって、刑事課よりは狭いが部屋は綺麗に片づいている。開いたままのドアの手前で声をかけ、有子はなかに入った。
椅子に座る音川に歩み寄って有子は頭を下げる。生安課長が腕を組んだまま立っているので、こちらにも深く低頭する。少年係の面々はみな、ちらちら様子を窺いながら仕事を続けていた。
「音川係長、怪我の具合はいかがですか」
音川は左の頰に当てていた手をどけて、「こんな感じですよ」と不貞腐れたようにいう。まともに拳が当たったらしく赤く腫れている。既に内出血のせいで青く色を変え始めている箇所もある。鼻血が出たのか、乾いた血がこびりついていた。
「申し訳ありません」ともう一度、頭を下げる。
喧嘩両成敗であっても、音川は木内よりも階級が上だ。いずれ課長同士で話をつけることになるが、万一、木内が先に手を出したのであれば、音川が本部監察課に訴えることもあり得る。そうならないためにも、なるべく早い段階で和解の言質を取っておきたい。直属の上司である有子が下手に出ることで、音川の気持ちを宥められないかと考えた。
「戻りました」
後ろから声がして、二十代後半くらいの上背のある生安課員が入ってきた。たしか、楠田といったか、音川と同じ防犯係の巡査長だ。独身で自宅通勤ということもあってか、久和野と違っていつも遅くまで仕事をしていると聞く。その楠田の手に、消毒液や絆創膏があるのを見て、保健師の先生のところに行ってきたのだと知る。
「ご苦労さま。薬を取りに行ってくれ――」といいかけたところに、音川の怒鳴り声が被さった。
「楠田、遅いんだよ、なにちんたらしてんだ」
「すみません。保健師の先生がすぐに見つからなくて」と顔を引きつらせながら答えるのに、音川がいきなり書類ファイルを投げつける。
「言い訳してないで、さっさと手当てしろよ。血が出てるのがわかんないのか」
楠田が駆け寄り、慌てて脱脂綿に消毒液を含ませる。有子はそんな様子を見ながら、音川が木内のことをあしざまにいうのを黙って聞いた。そしてお互いのため穏便にすませた方が良いのではと、お願いする形で話を持って行くと、生安課長もあと押ししてくれる。
「今のところ署長にも副署長にも知られていないようだし。刑事課長とはあとで話をするが、あまり大袈裟にするのもな、音川」
「課長、大袈裟もなにも、こんな怪我を負わされたんですよ、黙ってられませんよ。あ、いてっ」
音川が急に動いたせいで、顔を拭っていた消毒用の脱脂綿が目に入ったらしい。いきなり足で楠田の膝を蹴りつけ、「くそ、なにやってんだ。こんなことも満足にできないのか、お前は」と声を荒らげる。楠田は暗い目を向けたが、なにもいわず頭を下げた。
なおも音川が、「今どきの若いのは、なにやらせても中途半端だ。そんなんじゃいずれ栄立署行きだぞ」というのに、課長が有子の目を気にしたのか、「音川」と遮った。
「ここんとこ忙しかったから、苛々するのもわかるが、楠田に当たってもしようがないだろう」と庇うようにいう。大きなため息を吐いた音川は、自分でやるといって楠田から脱脂綿を取り上げた。課長が楠田の肩を労るように叩くと、楠田はぺこりと頭を下げて音川が投げた書類ファイルを拾い、自席に戻った。
今はそんなことよりも署内では解決すべき大きな案件があるということで、喧嘩のことはひとまず棚上げとなった。話し合いの時間を引き延ばし、うやむやにする腹づもりだと生方はこっそり有子に教えてくれる。もちろん、あの後、有子が同行して、木内に頭を下げさせたというのも良かったのだろう。
木内から喧嘩の詳細を聞いた。やはり消えた一千万円が争いの発端だという。駐車場で偶然顔を合わせたとき、音川がいいがかりをつけた。木内の離婚は知っていたから慰藉料に金がいると決めつけ、暗に盗んだのではないかと疑いを向けたらしい。
木内が顔を歪めるのを見て、有子は他にもなにかいわれたのかと水を向けた。
「あの野郎、涼子が、あ、俺の別れた妻ですが。涼子が不幸な結婚する羽目になったのは、『俺が振っちゃったからな。スタイルが悪いのを我慢して結婚してやれば良かったなぁ』なんていいやがるから」と、そのときの怒りが蘇るのか唇を嚙む。元妻の涼子は女性警官だが、ぼっちゃりした体つきらしい。音川はその後、人の紹介で一般女性と結婚し子どももいる。
「涼子は、音川のことなんか端から相手にしてなかったんですよ。そりゃ、ちょっとは付き合ったらしいですが、すぐにその性根の悪さに嫌気が差したっていってましたし」といい募る。わかりました、といって有子は笑みを浮かべた。
「それじゃあ円満離婚だったのね」
「ええまあ。涼子も仕事を続けていますし」
「お子さんもいないし、慰藉料もそんなにはいわれなかった?」
木内は項垂れるように頷く。「まあ、どっちが悪いという話でもなかったですから。俺がマンションを出て行くということで話がつきました」
「そう。木内さんは、今は独身寮?」
「そうです。いずれどこかに部屋を借りるつもりです、が」
「が?」
「……どこに住んだって、俺には居場所がないんです」
「はい?」
「涼子のいる場所が俺の居場所で。だから、電気も点いていない家に帰ったって、お帰りといってくれる人もいなくて、仕事はどうって訊いてくれる人もいないんなら、俺はもうどこにいたって同じなんですよ」
目に涙を浮かべて、洟を啜る。有子は、大丈夫、大丈夫、そのうち慣れるからと、独身の自分に慰められても嬉しくないだろうなぁと思いつつ、言葉をかける。こういった場合、やはり仕事帰りに飲みに誘うべきなのだろうか。警部補になったことをまた有子は改めて自覚する。浅田に相談してみて一緒に行ってもらおうか。きっと津雲は断るだろうな、久和野はかえって余計なことをいいそうだとあれこれ思案し、木内に見えないようにため息を吐いた。
改めて、当直時間帯のことを尋ねる。
木内の証言があいまいだった理由はわかった。嫌いな人間とペアだったから、木内はほとんど、いや全く音川の姿を視野に入れておらず、ひと言も口を利かなかったのだ。一階の受け持ちは二時間で、時折、かかってくる電話の応対はしただろうが、さぞかし窮屈な時間だったと思う。
有子がそういうと、木内は涙を拭いながら、昇任試験のテキストを読んでいたのでと白状した。妻が愛想を尽かしたのも、一向に試験勉強をしようとせず、巡査長のままで満足しているのが歯痒かったかららしい。
「そう。それなら音川係長がなにしていたのかわからなかったでしょう」
木内は軽く首を左右に振った。「いや、そうでもないです」
「どういうこと?」
「あいつ、自分のとこのもう一人の当直員を一階に呼びつけていましたから。たしか、楠田といったかな。その日の仕事振りについて意見したり、資料を作らせたりしていたんで。当直のときはたいがいそうするんですよ。だから楠田に気づかれないで金庫の鍵を盗むのは難しいでしょう」と答えた。
そうかもしれないと有子も思う。警務係長の机の上の文具ケースから机の引き出しの鍵を取り、それで引き出しを開けてようやく金庫の鍵を手にするのだから、手間がかかる。
楠田の真面目そうな顔を思い出す。聴取は浅田か津雲がしている筈だから、念のため、あとで確認してみようと考える。
それにしても、と有子は赤い目をした木内を眺める。
音川のことは、階級差を弁えず殴りつけるほど嫌っているのに、だからといってあらぬ疑いをかけたり、貶めたりするような真似はしないのだ。むしろ、その可能性は低いと律儀に付け加える。刑事だから証言がどれほど大事かわかっているのだろう。私情で事実を歪めることを戒めている。その律儀さが木内のいいところかもしれないと、有子は思った。少しずつだが、自分の部下のことを知ることができている気がする。
「楠田さんがいたのなら、あなたも妙なことはできなかったわね」
有子がそういうと、木内はようやく、にこっと笑ってくれた。
*
栄立署が悪くいわれるのはなぜなのかと、有子は思う。
県内でももっとも辺鄙だといわれる所にあるが、それは仕方のないことだ。駐在所がほとんどで署員数も一番少ない。住民のほとんどが第一次産業従事者で、事件があったとしても盗犯関係くらい。特殊詐欺のたぐいは、時折あるらしいが、それでも他のどこの所轄に比べても少なく、平和でのんびりしていると聞く。
有子が警官になったときには既に、問題ある警察官の配流される署で、栄立でほとぼりを冷まして復帰させるか、飼い殺しにしていずれ退職届を書かせるか、そういう所轄であるという噂があった。
一千万円が消えて四日が経った。
いい加減、本部に報告しなくてはならない。いつまでも隠していては、かえって傷口を深くし、白堂署自体があらぬ疑いをかけられかねない。これまでにも色々、隠蔽していたのではないか、などと。署長室では頻繁に課長会議が行われ、そのたび、どうしようかという相談がなされているようだ。そんな矢先、有子は妙な話を聞いた。
盗む機会が少しでもあり得た署員には順次、聴取を行っている。そのなかの一人が、時沢主任のご主人のことをご存じですか、といい出したのだ。どうやら有子と唯美が同期であるのを知らないらしい。
「時沢主任のご主人がなんですか?」と有子はなにげない風に尋ねる。
「栄立署にいるんですよ」と地域課の係長がいう。この係長は一千万円が盗まれたと思われる夜、本署の当直に当たっていた。地域課は四階だが、夜中に何度か一階まで下りて、カウンターの内側で受付担当と話をしていたことから聴取することになったのだ。疑われたことに不満を感じていたのだろう、身を乗り出すようにして、「なんで栄立に行くことになったのか、地域課の知り合いから聞いたことがあるんですよ」と笑みすら浮かべる。
有子とは同じ警部補だが、期は少し下だ。階級差以外にも、先輩後輩という上下関係も厳格に残っているから、有子には敬語を使う。
「どんな?」と有子は訊いた。
「時沢主任のご主人、金でしくじったようですよ。それもギャンブル。結構な金額だったらしく街金に借りていたことが本部監察課に知られ、あわや処分かというとき、奥さんの時沢主任が用立てて一括返済したそうです。まだ小さいお子さんもおられるし、今回に限っては穏便にすませようと、栄立署の地域課へ異動することで収まったとか。というのは表向きで、恐らく飼い殺しにして、退職届を書かせるつもりだという話ですよ。もしそうなったら生活に困るじゃないですか、だから」
「だから時沢主任がお金を盗んだのだろうっていうの?」
有子の表情が硬くなるのを見て、地域課の係長は怪訝な目を向ける。
「貴重な情報、ありがとうございました」
そういって有子は手元の書類を引き寄せた。
あり得ない、と思う。そんなことは決してないと思うが、唯美の態度や表情のなかに、以前にはなかったささくれたものがあるのは気づいていた。子ども二人を抱えて仕事をし、同じ警察官に囲まれる職員住宅で暮らすのだから、多少はそうなって当たり前と納得させていた。
だが、唯美の夫の話を聞いて、それだけでなかったのかと、有子の胸の内はざわつく。
『奥さんの時沢主任が用立てて一括返済したそうです』
唯美はどうやってそんな金を工面したのだろう。両親に借りたのだろうか。夫婦共に警察官として働いて、安い家賃で住める職員住宅にいれば、貯金もできるかもしれない。きっとそうだろう、と思いながらも有子は胸に小さなしこりができるのを感じた。
金庫の横にあった書類箱が頭を過る。もし、金庫を閉める振りをして、一千万円をあの箱のなかに隠したとしたら。浅田と津雲は背を向けて離れようとしていた。誰も見ていないからそれほど難しいことではないだろう。
そしてあとになって仕事に必要な書類を取り出す振りをして、札束を袋か鞄に詰め込むこともできたのではないか。
そこまで想像して有子は首を振った。時沢唯美、いや田尾唯美は同期だ。警察学校で同じ時間を過ごし、寝食を共にした。警察官になるという同じ夢を抱いて入校し、同じ部屋になったことでたちまち親しくなった。制服に身を包んだときの高揚感、授業や訓練の辛さを励まし合って乗り切った嬉しさ、卒業して別れ別れに赴任するときの不安と寂しさ、どれもこれも昨日のことのように思い出せる。唯美は同期なのだ。
次回は4月6日配信予定です。
(見出し画像デザイン 高原真吾)
