往復書簡 日々の音沙汰 ー第34回「負けてたまるか」(ジェーン・スー)ー
作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストのジェーン・スーさんと文筆家の伊藤亜和さんによる往復書簡。
毎月第2・第4火曜日に更新予定です。
■前回の伊藤亜和さんからのお手紙はこちら
✉ 伊藤亜和さま ← ジェーン・スー
亜和さん、こんにちは。お元気ですか? まさか、お父様の姓のほうで手違いがあったとは。そろそろ正式な「バッケ」に戻られた頃でしょうか。「バツケ」もなんだか可愛いけれど、そのままにしているわけにもいかないですものね。
先日は大変でしたね。Xのことです。亜和さんのマネージャーさんが運営する公式アカウントで投稿した『変な奴やめたい。』(ポプラ社)の試し読みを、意地悪く引用ポストした人の投稿がバズってしまった件。あれは災難でした。
1000近くリポストされた意地悪引用投稿には、「わりとどこにでもいる平凡な人」だとか、「それを指摘したら顔を真っ赤にして怒るだろう」とか、「変わった奴をアイデンティティにして生きてきたんだろう」とか、よくもまあ会ったこともない人を、手入れのされていない鈍い刃で切った気になれるもんだと面喰う言葉が並んでいました。そこから堰を切ったように、「めちゃめちゃ普通の人」「変人を自覚した時点で負け」「つまらない」など、まるで投稿主たちが亜和さんに侮辱されたかのような引用ポストが続きました。どれも著しく凡庸。冷笑を装っているけれど、誰もがイライラしているのがわかります。みんな、どうしてしまったの。変わった奴を自認する人に村でも焼かれた過去でもあるの。
ネットで読める『変な奴やめたい。』は、誰が監視しているわけでもないのに、空気を乱してでも生真面目にしか生きられなかった亜和さんの、微調整できない不器用さをユーモアを持って受容しているさまを記した名文です。一部の人たちはちゃんと読めており、理解を示す引用ポストをしていました。しかし、圧倒的に数が少ない。裏を返せば、こんなにも「読めない」人たちがいるということです。書き手として恐ろしい現実ではあります。ユーモアもアイロニーも通じないのだから。
「変な奴」を自称することが、これほど他者を煽るのはなぜでしょう。見ず知らずの人たちが、こぞって俄変人認定士になってしまった。みんな変人になりたいのでしょうか。
SNSで見ず知らずの人に他者が憤怒するパターンはいくつかあります。たとえば、自らの特権に無自覚な人による弱者断罪。恵まれた側の「うまくいってない人は頑張りが足りない」というようなもの。シンプルな金持ち自慢や、本人にそのつもりはなくとも、自慢と取られかねない交遊録や持ち物の話もそうです。「女は」とか「男は」といった、主語を大きくして語られるものもこれに当たります。そういう投稿をする良し悪しは別として、投稿主の想像力の欠如により引き起こされる事態です。これはまあ、わかる。リアルでは出会わない人たちとエンカウントするチャンスが高いSNSでの振る舞い方、繊細なネットリテラシーの範疇。
しかし、変人自慢でもないおだやかな文章が、これほど他者を煽ったことに、どうしても理解が追い付きませんでした。援護射撃した私の投稿に飛び火してきた冷笑引用主のホームを覗きに行ったら、異常者を自称していました。なんて悲しい。だったら仲間じゃん。なぜ責め立てるの。変人コンテストかなにかが知らないうちに催されていたのでしょうか。
出自や学歴と異なり、多少の奇行と自称だけでいけるのが変人だから、ジャッジが厳しいのかしら。誰もが手に入れやすいアクセサリーのような。言ったもん勝ちにはさせないぞ!という謎の圧力を、意地悪引用群から感じました。いや、だからそういう話じゃないんだって。
36度9分の熱みたいなもんだな、とも思いました。37度になれば風邪の範疇に入れてもらえるけれど、36度9分だと、「そんなの風邪じゃない!」と言い出す人がいる。本人が体調不良だって言ってるんだから、他人がジャッジするもんでもなかろうに。
本文では直接触れていなかったものの、亜和さんがハーフであることは、添付されたふざけた写真から歴然としています。少なくとも、私にはそうでした。それについて記した引用が見当たらなかったのも印象的です。日本でハーフとして生きてきた人に「まったくもって普通」と言い切れるのは、リテラシーが高まったからなのか、それとも著者のバックグラウンドすら確認していないからなのか。どちらにせよ、亜和さんが切望してきた社会的埋没が、皮肉にも叶った瞬間だったのかもしれません。
少し心配になって亜和さんに連絡をとったら、「こんなんで落ち込んでると思われたら癪ですよ」と、心強い言葉が返ってきました。と同時に、ちゃんと怒ってもいたので安心しました。冷笑に冷笑で返すのは、自傷行為のようなものですから。
村を焼かれた人たちのポストを眺めているうちに、私のなかで滾っていた腹立たしさは、やがて懐かしさに変容していきました。亜和さんとは違うけれど、人とは異なる性質をライトに自虐する姿を勝手に自慢と捉え、うぬぼれんなよとばかりに胸の前で腕を組み、陰気に否定するさま。私もやった記憶があります。
あれはなんだったんだろう。あんたなんか特別じゃない! と全力で否定したくなった、行き場のない苛立ち。おそらく私も、人とは違う自分でありたかったのでしょう。同じ人間はひとりとしていないことを、知らなかったあの頃。と同時に、「普通の人」の範疇にあると社会に認められることを熱望してもいました。なんというアンビバレンス。
加齢とともに、その手の感情は霧散しました。期せずして、喪ったことすら忘れていた遺失物が出てきたようでした。醸される苦み走った香りはまるで、エキストラバージンオリーブオイルのよう。若く、むせかえるほどのエネルギーに満ちています。底意地の悪い引用をしていた連中のなかには私と同世代の輩もいたでしょうが、それはもうあなた、いい加減大人になれよとしか言えません。何者でもない自分をこれ以上責めるなよ。
結果、書籍『変な奴やめたい。』は売れました。私が確認した限りでは、Amazonの近現代日本のエッセー・随筆ランキングで25位まで上がりました。在庫が一時的に枯れるほどに。我々は、なんと因果な商売に携わっているのでしょう。意図したものではないにせよ、炎上商法がなくならないのは、さもありなん。
でもね、本当につまらない文章だったら、本を購入するに至る人はいなかった。好意的な引用が悪意ある引用ほどなかったのは、「読める人」が少なかったからではなく、そういう人たちが無粋な反応をしなかったからかもしれません。ありがたいですね、読者のおかげで私たちは本が出せる。
過去、私も意地の悪い陰口をSNSで叩かれたことがあります。十年以上前のことです。同業者から「最近、あの人勘違いしてるんじゃないの?」とエアリプをもらったり、賞をいただいたことを揶揄されたり。思い出すことはそうそうありませんが、決して忘れはしません。そのあと名を上げた人はひとりもいません。そういうもんなんですね。
「さあ、伊藤亜和もっと売れろ! 『わたしの言ってること、わかりますか。』(光文社)と併せて読んで!」 私はスマホ画面に向かってひとり叫びました。負けてたまるか。
(朝日新聞出版PR誌「一冊の本」26年3月号より)
次回、伊藤亜和さんからのお便りは4/14(火)に更新予定です!
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)
