先日、「今の」日本人、「Substack向いてないなー」って思う理由を書いた。
ありがたいことに多くの反応をいただいたが、いくつか自分の中で引っかかっていたことがある。
前述の記事や続く日々のNotes投稿で、「日本人がやりがちな【お気持ち】とか随筆とか、エッセイっぽいのはSubstackでは収益化に繋がらないよ」という趣旨のことを書いた。かなり冷たい物言いだという自覚はある。
一方で。
英語圏のSubstackコミュニティでは「Essay」が推奨されている。Substack公式も、成功している書き手も、口を揃えて「良いEssayを書け」と言う。
……あれ?
私は「エッセイを書くな」と言い、Substackは「Essayを書け」と言っている。矛盾しているのか?
結論から言う。矛盾していない。日本語の「エッセイ」と英語の”Essay”は、ほぼ別のジャンルだからだ。
きっかけ:SubstackのHead of Growthが書いた記事
2026年6月9日、Chris Chen氏がこんなエッセイ——いや、Essay——を公開した。
Is Using AI to Write Bad? Wrong Question.
(AIで書くのは悪いこと? 聞くべき問いはそこじゃない。)
Chris Chen氏は、最近Robloxから移籍してきたSubstackのHead of Growth(成長責任者)だ。
この記事がNotesでシェアされたとき、ある読者がこうコメントして、これをさらにSubstackの別の「中の人」がRestackしていた:
「the essay, not the note, is the best vehicle to land an argument.」
(主張を着地させるには、ノートではなくエッセイが最適だ。)
この一文を読んだ瞬間、「あ」となってGoogle AIモード(大好き)にこう問うたところ:
つまり。
彼らが言っている”Essay”と、日本人が想像する”エッセイ”は、そもそも指しているものが違う。
日本の「エッセイ」:枕草子の系譜
日本語で「エッセイ」と聞いたとき、多くの人が思い浮かべるのはこういうものだろう:
日常のふとした気づき
季節の移ろいへの感慨
個人的な体験から得た、柔らかい感情の共有
これは「随筆」の系譜だ。
清少納言の『枕草子』、吉田兼好の『徒然草』。
日本文学の中で千年以上の歴史を持つ、れっきとした伝統的ジャンルである。
その核心にあるのは情緒と余韻だ。
明確な結論を出す必要はない。
読者に「わかるなぁ」「いい文章だなぁ」と感じてもらうことが目的であり、価値の方向が「書き手の内面の表現」に向いている。
実際、日本人ユーザーのNotes投稿を眺めていると、
「エッセイを毎日書くことで穏やかな気分になる、心が整う」
「書くこと自体がセルフケアになっている」といった声をよく見かける。
これ自体は何も間違っていない。
書くことがセルフケアになるなら、それは素晴らしいことだ。
ただし、Substackが設計上求めているものとは、まったく別の話だ。
英語の”Essay”:モンテーニュの系譜
英語圏で”Essay”と聞いたとき、脳内で起動するのはまったく別のものだ。
語源はフランスの思想家モンテーニュの『Essais』(1580年)。
「試論」「試み」を意味する。
ある主張を、根拠とともに論理的に組み立てて読者を説得する散文——これが “Essay” の原義だ。
アメリカの高校・大学では、”5-paragraph essay” という型を徹底的に叩き込まれる:
Introduction(序論):Thesis statement(主張)を提示する
Body 1, 2, 3(本論):それぞれ具体的なevidence(根拠)で主張を支える
Conclusion(結論):主張を再確認し、より広い文脈に繋げる
英語圏の人が “essay” と聞いたとき、自動的に
thesis(主張)→ evidence(根拠)→ conclusion(結論)
の構造を想像する。
これは教育課程で体に染み込んでいる。
両者を並べると、ズレの大きさが見える:
Chris Chen氏の記事が “Essay” である理由
具体例を見た方が早い。
Chris Chen氏の記事の構造を分解してみる。
Thesis(主張):
「AIで書くことの善悪を問うのは間違った問いだ。本当に問うべきは、書き手のeffort(努力)の有無である。」
Evidence(根拠):
同じ2人の高校生が、1996年(図書館)・2011年(Google)・2026年(AI)の3つの時代でレポートを書く、という具体的な思考実験。Wikipedia禁止騒動(2007-2008年)や電卓の普及期のパニック(1970年代)など、歴史的事実を引いて論証。
Conclusion(結論):
「ツールは常に勝つ。問われるべきは、ツールが勝ったあとに何を価値とするかだ。」
情緒がない。
余韻に頼っていない。
代わりに、読み終えた後に読者の認識が変わる。
「あぁ、AIの善悪を議論していたけど、問いの立て方自体が間違っていたのか」という知的な発見がある。
これが英語圏における”Essay”の力学だ。
そしてこれが、Substackが書き手に求めているものだ。
なぜこのズレが収益化に直結するのか
ここで、一つ問いを投げたい。
「あなたのSubstackに私のメールアドレスを登録して、月額800円を払うことで、私は何を得られるのです?」
この問いに即答できるだろうか。
Substackの課金構造を思い出してほしい。
読者は月額5ドル(約800円)を払って、特定の書き手の全投稿にアクセスする。
noteのように「この一記事だけ100円で買う」ということはできない。
つまり読者は「この人の視点を、継続的にフォローする価値がある」と判断して初めて財布を開く。
では、あなたは日本の「エッセイ」に月800円を払いたいと思うだろうか?
毎日のように受信トレイに届く、誰かの「今日はこんなことがありました」「こんな気持ちになりました」を、お金を払って読み続けたいだろうか。
それに該当するPublicationが思い当たるだろうか。
おそらく、ほとんどの人の答えはNoだと思う。
では、月800円(あるいはそれ以上)を払ってでも読みたいPublicationとは何か?
前述の記事で紹介したCitrini Research(月額125ドル=約2万円)を思い出してほしい。
ホルムズ海峡の地政学リスクを分析するために実際に現地に赴き、スピードボートでイラン沿岸に接近し、現地の密輸業者や政府関係者への取材を経て投資判断を導き出していた。
あの記事も、構造としてはthesis → evidence → conclusionだ。
evidenceの「深度」が常軌を逸しているだけで。
読者が対価を払うのは「この人のフィルターを通して世界を見ると、自分だけでは気づけなかったことが見える」という信頼に対してだ。そしてその信頼を生み出す文章構造が、thesis → evidence → conclusion——すなわち英語圏の意味での “Essay” なのだ。(もちろん、他にも「途中で投げ出さない」とか、「ブレない」とか要素はあると思うけど)
Substackは広告収益モデルではない。
PVを稼いでプラットフォームが広告費で回収する構造ではなく、読者が自分の意志で財布を開き、その手数料で維持・運営される構造だ。
この設計の中で「お気持ち」は、残念ながら、月800円の価値を持たない。
「お気持ちを書くな」ではなく、「お気持ちをthesis化しろ」
ここまで読んで、「じゃあ感情的なことは書くなってこと?」と思った人がいるかもしれない。
そうではない。
私自身、前述の記事を書いたきっかけは「日本人ユーザーの大量流入を眺めていて感じたモヤモヤ」だった。
出発点は完全に「お気持ち」だ。
違いは、そのモヤモヤをそのまま出したか、構造化したかだ。
「なんかSubstackの日本人コミュニティ、違和感あるんだよなぁ」
これはお気持ち。
随筆。
日本的エッセイ。
「日本人がSubstackで収益化できないのは、言語の壁ではなく文化的構造の問題である。その理由は3つ:」
これがthesis化だ。
英語圏的Essay。
感情は出発点として優秀だ。
「なんか変だ」「なんか噛み合わない」という直感は、たいていの場合、構造的な問題を嗅ぎ取っている。
ただ、その直感を直感のまま出すか、根拠付きの主張に昇華させるかで、Substackにおける価値が決定的に変わる。
余談:この記事自体は “Essay” なのか?
ここまで書いておいて、ふと気になった。
こんな偉そうなことを宣う私の記事自体は “Essay” の構造を満たしているのだろうか。
試しにClaudeとGeminiに聞いてみた。
先述の記事「今の日本人、Substack向いてないなー」を読ませて、「これはEssayか?」と。
結果:
どちらも「Essayだ」と判定した。
Thesis(主張)がある、Evidence(根拠)が具体的、比較構造で論証している、と。
面白かったのは、私自身が「日本的エッセイはSubstackに向かない」と主張しておきながら、自分の記事は日本語で書かれた英語圏的Essayだった、ということだ。つまりこれは言語の問題ではない。
日本語でも “Essay” は書ける。
問題は言語ではなく、構造と態度だ。
まとめ
Substackが “Essay” と言っているものは、日本人が想像する「エッセイ」ではない。
枕草子ではなくモンテーニュ。
情緒ではなく論証。
余韻ではなく知的発見。
書き手の充足ではなく、読者の認識の変化。
もしあなたが日本語の「エッセイ」を書いてSubstackに投稿し、「なぜか読まれない」「なぜか購読者が増えない」と感じているなら、文章力の問題ではない可能性が高い。
そもそも、プラットフォームが求めているジャンルと違うものを書いている….という、構造的なズレかもしれない。
関連ノート:
先述の記事:「今の」日本人、「Substack向いてないなー」って思う理由
Chris Chen氏の記事:Is Using AI to Write Bad? Wrong Question.



