「萌えの手前」を生き延びること/『けいおん!』論
『--あるいはたとえば国全体が戦争に向かって進んでいるというような大状況の中では、戦争を肯定する言葉も否定する言葉も、読者の関心を戦争に向けてしまうという機能において、同じだけ、戦争を肯定してしまうことになる。』
『いやそもそも「社会システム=共有された(強制された)虚構」がどの程度「共有されている(前提とされている)」のかさえ本当は分からない。前提と見えるものは《ただ似たもの、慣れたもの》にすぎず実は前提とされない。』
中学三年生のとき『けいおん!』を見たとき、衝撃を受け、そのまま受験を終え、高校一年生の冬、聖地である京都に訪れた。当時、『けいおん!』を見たとき、24話⁽*3⁾で終わってしまうことがとても怖かった(たぶん、失われることが悲しかったのだ)。しかし、決定的に見終わってしまった。私が 「聖地を巡ること」自体、中三から高一の間、「見終わってしまった」ことを受け入れないような身振りだったのかもしれない。
そこに訪れて気づくのは、当たり前だが、聖地はアニメの画面では捉えられない空間であった。”捉えられない空間”ーーすなわち、アニメ画面の延長の空間、アニメ世界「外」、アニメ画面に映らない生、吹き付ける風、匂い、次のバスの時刻表、無限の差異の世界 etc.…?




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私たちは「日常」に生きている。朝7時に起き、学校へ行き、放課後友達とマックで話し、家に帰るような日常。ときどき、喧嘩をしたり、告白して失敗して、またもとに戻るような、あまりにも平穏な毎日の反復。
それでは、そんなありふれたような「日常」を踏まえたとき、「日常系」という語はどのように解釈されるのだろうか。
一般的に、「日常系」は大きな事件や出来事が起きず、日々が淡々と描写されるのが特徴とされている。⁽*4⁾
しかし、この呼称が成立していること自体、少し立ち止まって考えてみる必要がある。というのも、「日常系」という名称は、日常というものがあらかじめ自明な基盤として存在していることを示すのではなく、むしろ「日常」それ自体がひとつの対象として取り出され、ジャンル化されていることを示しているからだ。つまり言い換えるならば、「日常系」という語は、「日常」を単に描写される現実としてではなく、構成されるべき”ひとつのフィクション”として前景化されている。
そして、私たちの「日常」もそうである。
私たちはしばしば、「日常」を普遍的なものとして捉えている。誰にとっても似たかたちで存在し、特別な説明を要しない、どこか生の基盤のようなものとして理解してしまう。
しかし、本当にそうだろうか。
一見、普遍的に見える「日常」という語は一体どこまで共有されているかは分からない。そう、「日常」にはあらゆるバリエーションがあるのだ。私たちが「日常」と呼ぶものは、習慣と反復が毎日という時間に折り畳まれているにすぎない。それは「日常系」という語が明らかにするように、「日常」とは、私たちが「なまの現実」を生きるために必然的に構成されたフィクションにすぎないのではないか。
どういうことか。
ここで語る「なまの現実」を生きるための「日常」=フィクションは、私たちが生きる「日常」が「フィクション」という語から連想されてしまうようなウソや欺瞞とはまったく異なる。
無限の多義性によって満たされるーーカオスとも重ねられるようなーー「なまの現実」⁽*5⁾に対し、私たちはそのまま多義性を受け入れることはできない。多義性を受け入れるならば、私たちは生きる足場を失うことになるだろう⁽*6⁾。
「日常」とは、そのような不安定な「なまの現実」のただなかに、なんとか反復可能な居場所を作るための技術である。
したがって、「日常はフィクションである」ということが、そのまま日常が偽物だと短絡することはできない。むしろ、「日常」こそが生を支えるために構成され、維持されなければならないものであることを意味している。
それでは「日常系」が描く「日常」も、普遍的に信じられているような「日常」ではありえない。問題となるのは、ある作品が「日常」を描いているかどうかではなく、その作品がどのような仕方で「日常」を構成しているかである。どのような時間が流れ、どのような外部の多義性が捨象され、どのような人間関係が安定したものとして配置されるのか。その選択のバリエーションによって、作品ごとの「日常」は成り立っている。 つまり「日常系」とは、「日常」を扱うジャンルというよりも、「日常」というフィクションの構成様式をめぐるジャンルだと言うべきだろう。⁽*7⁾
その視点に立つと、多くの「日常系アニメ」は、「日常」を安定化させる方法として、終わらない時間・変化しない人間関係・安定した空間を導入する。そして、多義性を捨象した「日常」は簡単に永遠化する。例えば、「サザエさん時空」や「無時間性」と称されるものである。
しかし、実際の日常はつねに終わる可能性に晒されている。現実の時間はつねに不可逆であるし、17歳は不可逆的に18歳になる。人間関係も喧嘩をしてあっけなく終わるかもしれないし、住んでる街は老朽化し、再開発されていく。 それは諸行無常(!)と声高に叫びたくなるような世界そのものであるかもしれない。 にもかかわらず、日常系作品がなおも「日常」を成立させるとすれば、それはこの終わりや多義性を単に消去しているのか、それとも別の仕方で抱え込んでいるのか、その差異こそが、日常系の内部にある決定的な違いを生み出しているのではないか。
したがって、問題となるのは「日常系」と呼ばれる作品群が、それぞれの作品がいかなるフィクションとして「日常」を構成しているのか、そしてその構成が、現実に対してどのような関係を取り結んでいるのか、ということである。「日常」が「なまの現実」でも普遍でもなく、構成されるものであるならば、作品ごとの差異は、そのまま世界の切り取り方の差異であり、「生き方」の差異でもあるはずだ。
このとき、『けいおん!』という作品は、「日常系」というジャンルの内部にありながら、きわめて特異な位置を占めているように思われる。というのも、この作品において「日常」は、単なる無時間的な反復としてではなく、つねに終わりの可能性に触れながら、"それでも維持されているよう"に見えるからである。そこでは、ただ平穏な毎日があるのではない。むしろ、その平穏がいつか終わること、関係が持続しつづけるわけではないこと、時間がたしかに流れていることが、作品の内部に織り込まれている。それでもなお日常が成立しているのだとすれば、それはもはや素朴な「日常」ではない。終わりを知りながら仮設される、もうひとつのフィクションとしての「日常」である。
以下ではまず、日常系一般において日常がどのように構成されているのかを確認したうえで、『けいおん!』がその内部でどのようなずれを生じさせているのかを考えたい。そこで見えてくるのは、単なる癒やしや逃避ではなく、現実と衝突しないかたちでなお生きうる日常の形式であり、いわば「萌え」の手前にある、実践可能なフィクションとしての生の技術である。
・「日常系」を巡る構成要素
多くの日常系は何をフィクション化しているか。前章で検討したように「日常」とは普遍的なものではなく、個別に構成される生存戦略であった。 それでは、ここで問われる「日常系」とは、どのように「なまの現実」に対し「日常」を構成するか、その差異であるだろう。もちろん、「日常系」といっても無数の作品があり、それらを外在的に分析し、「日常系は〇〇である」と断定することはできない。(そうした分析こそ「日常」という語に「普遍性」を嗅ぎ取ってしまう罠に陥っている)
よって、ここで試みたいのは、「日常系」というジャンルの本質を外在的に定義することではない。むしろ、いくつかの作品を比較的に参照しつつ、『けいおん!』を読むための暫定的な観点を抽出したい。そうした座標を立てることで、のちに論じる『けいおん!』の特異性もまた、より明瞭に見えてくる。
ここではそうした軸は、時間・空間・関係性・幼さという4つの要素である。ただし、ジャンル一般を分類するための固定的な基準ではなく、日常がいかに構成されているかを記述するための便宜的な座標にすぎない。
そして重要なのは、その4つの軸をそれぞれ独立した要素ではなく、それらが”相互に”支え合いながら、一つの「日常」を成立させているということである。
少なくない日常系作品においては、キャラクターの単純さと世界の単純さが結託しているからだ。 キャラクターが限定された関心や知覚のうちで生きることができるのは、そのような生を可能にするよう、世界の側もまた反復可能な時間、閉じた空間、安定した関係性として調整されているからである。ここで言う単純さは、複雑な「なまの現実」全体を引き受けることなく、選び取られた要素のなかで生きることの形式である。すなわち、キャラクターの「関係性」「幼さ」という側面と世界の「時間」「空間」は相互に依存する形である種の日常系作品は構成されているのだ。
・迂回ーージル・ドゥルーズと「環世界」
どういうことか。この点は、ドゥルーズの議論を参照すると理解しやすい。 ジル・ドゥルーズは『ディアローグ』において、「ダニを見るのだ、この動物を賞賛するのだ」⁽*8⁾ と意気揚々にダニの魅力を語る。それはダニが「光」「臭い」「体温」の3つのみの単純な身体で構成されているからであり、そのダニは3つの「単純な身体」によって知覚される「単純な世界」を生きる。そうした内的なーーユクスキュルが描く「環世界」のようなーー仕方でダニは生きている。⁽*9⁾ しかし、ここで重要なのは、その身体が知覚しうる世界の狭さではなく、むしろその限定のうちでひとつの世界が成立しているということだ。⁽*10⁾
ドゥルーズがダニとユクスキュルにスピノザを並べるのは「なまの現実」より「その身体が何をなしうるか」が問題となっているのである。⁽*11⁾つまり、ここでは「なまの現実」より「自身の身体」がなしうること自体が充実しているのだとドゥルーズは言っており、"そして日常系においてもまた"、キャラクターのあり方とその世界のあり方は同じ平面で構成されており、それらを単純さにおいて批判することはできないだろう。 したがって、時間・空間・関係性・幼さは、別々の要素ではなく、単純な生を成立させるための同一の配置の諸側面として理解されるはずだ。
・「日常」の構成要素/時間・空間・関係性・幼さ
少し迂回したが本論に戻ろう。まず第一に、どのように「時間」が構成されるのか、である。 ある種の日常系作品において、日常とはなによりも反復可能な時間として現れる。そこでは一日一日の差異は大きな変化へと結びつかず、出来事は起こるとしても共同体を揺るがすほどの断絶にはならない。時間は前へ進んでいるように見えながら、じつのところ日常それ自体を根底から変えることはない。季節が巡り、行事が訪れ、会話や遊びのパターンが少しずつ変奏されるとしても、その世界の核にある関係や場所は保たれ続ける。
ここで日常は、不可逆的な時間というよりも、むしろ反復と変奏の時間として構成されていると言えるだろう。
例えば、『ゆるゆり』では、原作3巻で作中がサザエさん時空であることを確定させる回が存在している⁽*12⁾。これは意図的な作品の転回である。「百合」(すなわち恋)をえがくことによる関係性の進展を、強引な「無時間性」の導入において、永遠性を獲得する試みによって外的に変容する可能性を捨象している。 また、「無時間性」以外にも、『よつばと!』ではゆるやかに進行する時間が描かれる⁽*13⁾ 。主人公であるよつばは5歳であり、6歳になり小学生へ向かう時間が暗に示されているが、そこでは、ゆるやかすぎる時間によって終わりが主題となることはない。 もちろん、こうした時間の処理はただちに欠点を意味しない。前章で見たように、日常それ自体が生を支えるためのフィクションである以上、それがある程度の反復可能性を必要とするのは当然でもある。終わりや断絶や喪失が常に前景化してしまえば、そこに「日常」を見出すことは困難になるだろう。その意味で、反復される時間は、日常を成立させるためのごく基本的な条件でもある。ただし重要なのは、その反復がどこまで作品の内部で自覚されているのか、また、不可逆的な時間の圧力がどの程度まで後景化されているのか、という点にある。
第二に、どのように「空間」が構成されるか、である。 少なくない日常系作品では、「日常」は閉域的な空間のなかで描かれる。学校、部室、喫茶店、家、あるいは街そのものが、外部の複雑さから切り離された空間として機能する。そこでは制度や労働や政治、あるいはより広い社会的現実は完全に消えるわけではないにせよ、少なくとも日常を決定的に脅かす水準では前景化されない。 また日常系作品では、モデルとなる場所(いわゆる聖地)の参照が希薄な作品も多い。それは、聖地に訪れることができるという「なまの現実」に対し、完全な虚構空間を構成することで、現実と距離のとれたフィクションとして描くことが可能になっている⁽*14⁾ 。例えば、『ご注文はうさぎですか?』や『あずまんが大王』などがその一例だろう。前者は現実から距離の取れたメルヘンな世界⁽*15⁾ 、後者は実体のない高校⁽*16⁾ というフィクションが舞台となっている。 そうした結果、作品世界は、日常を維持するために必要な要素を中心に編成された、比較的安定した空間として現れるように描かれる。
第三に、そこに配置される関係性のあり方である。日常系作品における人間関係は、しばしば変化しない背景として機能する。仲違いやすれ違いが描かれることはあっても、それが共同体の解体へ直結することは少なく、むしろ小さな揺れは、関係の基盤が最終的には揺らがないことを確認するための契機として働く場合すらある。ここで人間関係は、現実のように偶然や利害や成長によって容易に変質しうるものというよりも、日常を持続させるための安定した条件として配置されている。 例えば、『大室家』における向日葵と櫻子は、何回も喧嘩を重ねるが、それ自体が決定的な仲違いに繋がることはない⁽*17⁾ 。それはつねにギリギリのラインで2人の仲を再強化する働きさえ持っている。 しかし、こうした安定は必ずしも自明ではない。現実の関係はいつでも終わってしまう。卒業、引っ越し、就職、あるいは単純なすれ違いによって、人と人との関係は容易に変化しうる。日常系作品がなおも共同体を維持するとすれば、それはこの終わりの可能性を単に消去しているのか、それとも別のかたちで内部に抱え込んでいるのか。この違いは、作品ごとの「日常」の質を考えるうえで決定的である。
最後に見ておきたいのは、日常系作品にしばしば伴う幼さや無邪気さの形式である。ここで注意したいのは、幼さそれ自体を価値判断の対象として断じることではなく、作品がその「幼さ」をどのように提示しているのか、ということである。ある作品では、無邪気さはそのまま全面的に肯定され、登場人物の視線と作品世界の視線がほとんどずれることなく重なっているように見える。 そこでは、キャラクターが気づかないことに世界もまた気づかず、キャラクターの単純さがそのまま世界の単純さとして提示される。これは、迂回して述べたジル・ドゥルーズの議論から考えられる。
しかし、『けいおん!』では、同じような軽さや幼さが描かれていても、それがどこか演じられたもの、自覚を伴ったものとして配置されることがある。この差異は小さく見えて、きわめて大きい。というのも、幼さが無自覚に世界視点と一致して提示される場合、そこでは世界そのものがその幼さを支える方向へ調整されるからだ。 反対に、幼さがある程度の自己意識とともに提示される場合、その「幼さ」は単純な没入の対象ではなくなる。そこには、世界の複雑さを完全には忘れていないもう一つの視線が残る。この違いは、後に見る『けいおん!』を理解するうえでとりわけ重要になるだろう。
・『けいおん!』
前述した議論から分かるように、日常系における「日常」は、時間、空間、関係性、そして幼さの提示のされ方によって、さまざまな仕方で構成されている。反復可能な時間、保護された空間、安定した関係、そして無邪気さの配置は、いずれも「日常」をフィクションとして成立させるための重要な要素である。ただし、同じ要素が用いられていたとしても、それが不可逆的な時間や外部の複雑さ、終わりの可能性をどのように処理しているかによって、作品の質は大きくことなることは注意する必要がある。
この点で『けいおん!』は、日常系というジャンルの内部にありながら、同時にそこからもずれているような仕方で存在しているように思われる。確かに、この作品もまた反復される日常の形式を用いている。しかし、そこでは、季節や卒業、部活の終わり、画面の外へと延びる空間…、そして、ある種の自己意識を伴った幼さが、日常の内部に消えきらずに残り続けている。だからこそ『けいおん!』における日常は、単なる「永遠の日常」としては回収されない。
では、時間・空間・関係性・幼さという要素は、『けいおん!』においてどう描かれているのか。
一つのシークエンスから開始しよう。映画『けいおん!』におけるオープニング・シークエンス。
(大音量で鳴り響くヘビメタサウンド)
(校門、昇降口、階段、図書室、廊下が順番に映し出される)
(軽音部部室では激しいアクションでメタルロックを演奏(?)する3年生) (部室へ2年生の梓が到着する)
唯「スカイハーイ!」
(演奏が終了する)
律「ちがう!」 (ドラムセットから立ち上がる)
律「放課後ティータイムが目指している音楽はこんなんじゃーない!」
唯「でも、私はこの路線でいきたいんだよ」
律「なーにー 唯のくせに唯のくせに唯のくせに唯のくせに唯のくせに・・・」
紬「やめて! ふたりとも」
梓「あの・・・あの なにかあったんですか?」
紬「もう、軽音部は解散しちゃうかも」
梓「解散!? なんでこんな時期に」
澪(棒読みで)「みんな目指す方向が違ってきたんだ」
唯「音楽性の違いってやつだよ あずにゃん」
律「なーにが音楽性だ」
(…)
紬「梓ちゃんはどう思う?」
梓「は、はいっ、やっぱり私たち放課後ティータイムは明るくて元気な曲が・・」
唯「正直・・・ フワフワしてるのはもうキツイんだよね!」
律「どの口が言う!」
(…掛け合いが続き)
紬「ちゃんちゃらおかしいわね」
(意外な発言に全員が驚く)
(梓が何かに気づき、ラジカセをさわる)
(冒頭のヘビメタが流れる。)
梓「これって、さっきの曲じゃ?」
(振り返ると、3年生が演奏を再開している。ここで、演奏が”してるフリ”だったことが明かされる。)
梓「なにやってるんですか?」
律「バレちゃったー?」
唯「デスデビルごっこだよ!」
(…)
梓「そんなことだろうと思いましたけど」
紬「じゃ、梓ちゃんも来たことだし」
梓「ちょっと待ってください」
(ギターをケースからとり出す身振りをするも、)
唯「お茶にしよっか?」
梓「えっ、ええ!」
(以下、図1~図7)

このオープニング・シークエンスは『けいおん!』という作品がどういう作品か、極めて端的に整理されている。
まず、舞台が学校であることが提示される。(図1、図2)しかし、平穏に見える学校をバックに不釣合いなヘビメタが流れ続け、場面が変わり、軽音部の部室から演奏されている(?)ことが提示される。(図3) 2年生である梓が到着すると、演奏が止まり、作中バンドである「放課後ティータイム」の解散話へと移行していく。しかし、会話が進むごとにそれが演技であることが露呈していき、最終的に解散は演技であり、ヘビメタも「デスデビルごっこ」であったことが判明する。 そうした「演技」が終了したあと、部員たちは練習からお茶に移っていく。
ここでまず重要なのは舞台、時間の提示だろう。学校という内的な空間からさらに内的な部室への視点の移動。そこで解散話が展開されるとき、唯一の2年生である梓が「解散!? なんでこんな時期に」と驚く。ここでは、直接的ではない仕方で、部室という空間で3年生は卒業間近である時間が示されている。ここでは、日常の内部にすでに終わりの気配が差し込まれている。 だがさらに重要なのは、その不穏さが結局「デスデビルごっこ」という遊戯として明かされる点である。ここで軽音部員たちは、別の音楽性や解散という深刻な主題を、本気のドラマとしてではなく、あくまで「ごっこ」として演じている。
したがってこの場面にある幼さは、無邪気な自然状態ではない。むしろ彼女たちは、自らの幼い身振りをどこかで知りつつ、あえてそれを反復しているのである。『けいおん!』における幼さは、最初から自己意識を含んだものとして現れている。
「演じること」が「終わり」という不可避性を隠ぺいすると同時に、梓の行動に被せるように「お茶にしよっか?」と言う。これは演技として主題化されていないにもかかわらず、唯一の2年生である梓の行動を制限するように働く。梓という残される存在を抱えながら、それでもなお日常へ戻ってしまうこと。映画のオープニングは、卒業の近さとそれを「ごっこ」として処理する自己意識を抱え込んだうえで、日常が単なる平穏ではなく、終わりと自己意識を抱え込んだフィクションであることを、きわめて凝縮的に示している。
それでは、「軽音部」という共同体は部室という空間で、不可逆な時間を悪魔祓いしながら、閉じた関係性に終始してしまっているのか。つまり、共同体を特権的に中心化させているように見えてしまう。 別のシーンを見てみよう。残り少ない登校日、クラスで卒業旅行が話題にあがっているシークエンス。

ここで重要なのは、軽音部以外のクラスメイトが積極的に映し出させられるところだ。確かに、視点は軽音部を映すような仕方で存在しているが、その視点が周囲のクラスメイトの運動を奪うかたちで特権化されていない。むしろ、周囲のクラスメイトはカメラが映していないだけで、軽音部員たちと同じようにその場に生きる存在のように見える。 この点は図9や図11で描かれるモブキャラクターである「高橋風子」に注目してみよう。
高橋風子は図9で唯に手を振る仕草をする。しかし、唯は真鍋の存在は気づき挨拶をするが、風子のアクションを無意識のうちに無視されているように見える(多分、唯は風子のアクションに気づいていない)。 そして、そんな風子が映されたあと、視点は軽音部にゆるく固定されるが、その後、図11になると、風子は窓際の席から教卓前に移動し、「さわ子先生へのサプライズをしよう」と発言をする。
このシークエンスは『けいおん!』が視線の中心は軽音部に置かれているが、作品世界そのものは軽音部だけに還元されていないことを示している。それぞれのキャラクターが運動する可能性を内包しているのだ。
これは細部に注目した恣意的な読解では決してない。
こうした不可逆な時間のなかに、別々の空間やキャラクターの生を保証するのは、映画『けいおん!』自体が『けいおん!!』の24話を別視点から描き直しているという点や、『けいおん!!』の4話で3年生が修学旅行へ行っている中、5話では修学旅行で3年生がいなくなった学校で過ごす2年生の梓たちが描かれることからも意図されていることは明白だろう。
そして、ここで重要なのは『けいおん!』を見ること自体にこうした経験が内包されていることだ。つまり、普段は特権的に見える軽音部員の共同体を見つめるときと、それが開かれてしまう時間や空間も必然的に見つめなければいけない、ということだ。
そう、『けいおん!』では一見すると軽音部員が特権化された共同体であるように錯覚してしまう。しかし、それはたしかに意図されたものだろう。『けいおん』シリーズに都度挿入される生っぽいシーンは、まるで特権化された過去を眺めるような仕方で、軽音部員を映し出す。(*18)
そうした生っぽいシーンは私たちに感動を誘う。映画終盤のシークエンス。

式終了後、唯が屋上を走り出し、そして一緒になって、律、澪、ムギも大声をあげて屋上を走り出す。先延ばしにした思いをぶちまけるようにみんなで叫ぶ。叫ぶしかない生の圧倒的なきらめき。
図13から確認できるように、意図的に「生っぽく」処理されたこのシークエンスは『けいおん!』において軽音部員が特権化された共同体であることが最もよく現れているシーンだと言えるだろう。
しかし、ここで重要なのは、”2年生である梓がいない”という事実だ。
なぜ、私がこのシークエンスを選んだのか。
それは、あらゆる「生っぽい」シーンはつねに梓やさわ子など、外部の存在によって切断されるからだ。
具体的には『けいおん!!』の20話が典型的だろう。 学園祭ライブが終わり、3年生は終わってしまった事実に泣いてしまう。しかし、梓は泣かない。梓が泣かないことで、画面にカタルシスが満たされることはない。私たちは泣いている彼女たちに同一化することができず、つねに梓のように、外部として、視聴者として「見つめる」ことしかできないからだ。そして、そのあと、さわ子先生と真鍋がやってきて、泣き疲れたのか、寝てしまった部員たちを「見つめる」。
つまり、上記した映画のシーンをのぞき、視線は軽音部員を特権化した共同体としようとすると、つねに外部からの視線に晒され、特権化することに失敗する。
そしてそれは『けいおん!』が"1話時点から仕組まれていた"ものであっただろう。1話、唯が軽音部による「翼をください」の演奏を聴いたときのシークエンス。
律「どうだった?」
唯「なんていうか…すごく言葉にしにくいんだけど…」
唯「…あんまりうまくないですね!!」


そこに崇高な軽音部は存在しない。永遠ではない放課後という延長された時間でお茶をする、弱い対象である。それは現実から完全に切断された安定した「日常」ではないのかもしれない。しかし『けいおん!』は、共同体の輝きを描きながら、外部にいる者、残される部員、教師、別の時間をクラスメイトを消すことはない。外部ともつれ合いながら相互が生き続けるような世界を記述すること。それこそ『けいおん!』が描く「日常」のフィクションである。
『けいおん!』において魅力的なのは、萌え的共同体の完成ではない。「萌え」として、閉じた共同体へ完全な没入をする状態というより、むしろ、その完成がつねに寸前で中断されること、すなわち「萌えの手前」にとどまりつづけることにある。
『けいおん!』は日常系作品に見られるような、終わらない、永遠化した「萌え」にはなることはできず、つねに「萌え」を演じることしかできない。どうしても時間は過ぎていくし、外部の生が私たちと同様に存在している。 梓のまなざし、教師やクラスメイトの生、卒業の不可逆性は、その都度、軽音部を外へと開いてしまう。
しかし、だからこそ『けいおん!』が大事なのである。開かれた世界でどのように「日常」を立ち上げるか。それは私たちの日常があり、そして別の日常もある、という、ただ素朴な現実。
複数の「日常」がただ並列している状態で、他者とかかわり、触発されていく。そこに厳密な境界はなく、ただ具体的に築かれるものでしかない。しかし、そうした現実こそ、永遠化する手前、すなわち「萌えの手前」として、私たちが『けいおん!』を通して目撃するものだろう。
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私は高一の冬、聖地でそれを見た。画面外に伸びる空間や進み続ける時間のなかで『けいおん!』の「日常」へ思いをはせる。そこには「現実」という完全性の”手前”に宙づりされた「日常」があり、私はそうした不完全な「日常」と「なまの現実」の間、「萌えの手前」未満の私の「日常」を生きていた。 そして、私は京都駅へ向かうバスに乗り間違えるのだ……
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【脚注】
*1 保坂和志『小説の誕生』p.18
*2 町屋良平『小説の死後ーーにも書かれる散文のために』
*3 厳密には本編24話+番外編2話である。
*4 (file://C:/Users/2320054%E3%80%80%E6%97%A5%E5%A4%A7%E4%BA%8C/Downloads/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%A8%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E3%80%8010%E3%80%807-22%20(1).pdf)(2026年4月14日 最終閲覧)
*5 「なまの現実」を巡っては、哲学において大きく議論の対象とされてきた。挙げてしまえばキリがないが、分かりやすい例として松本卓也『人はみな妄想する』p.86
「--その結果、表象は排除され、外的世界(著者注.なまの現実)へと追い払われる。」
*6 投げ出されることを巡っては、フロイト、ラカンなどの精神分析やドゥルーズ+ガタリなどの議論による。ドゥルーズ『記号と事件』p.32-55に分かりやすく整理されている。
*7 そうした意味において、「日常系」が基本的にアニメで表現されるのも納得できる。「外部の多義性の捨象」つまり、「空間全てを恣意的に決定することができる」アニメというメディアとの親和性の高さは疑いようがない。
*8 ドゥルーズ『ディアローグ』p.105
*9 ここでドゥルーズがダニを賞賛するのは、「なまの現実」それ自体より、自分の身体によって構成される「日常」を十全に生きることができるからである、とやや飛躍して言えるかもしれない。
*10
こうしたキャラクターの単純さと世界の単純さを結託したものとし、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』などにおいて、時間が奇妙な仕方で流れていることを指摘した論考がある。ここでは論旨からズレるため、日常系を概観することしかできないが、こうした分析は1つ1つの作品に適応できるものだと考える。
*11 ユクスキュルは、ロストックの研究所で十八年間絶食していたダニについて述べている。ここでダニは、ダニの生きる内的な「日常」(=環世界)から、外部の現実(環世界の外部)へ移動したことにより、3つのみの単純な身体がなす新たな力能(第4の要素、とも言えるかもしれない)を私たちは発見する。
*12 なもり『ゆるゆり』3巻 p.9-18
*13
『よつばと!』の時間はこちらを参考にした。
*14
「日常系」を空間から見ていく試みには一定の再考の余地があるのも事実だ。本稿では聖地をある/ないと単純化して記述したが、木澤佐登志が指摘するように、聖地が偏在しているか/局地化しているか、という見方もできる。本論から逸れるため触れることはできないが、『けいおん!』においても滋賀県と京都府のふたつに聖地の偏在しており、それは山梨・静岡県を局地化させる『ゆるキャン△』のような作品とは、明らかに質的に異なったものとなるのは明らかだろう。
*15 『ご注文はうさぎですか?』1話冒頭におけるココアの発言が分かりやすい。
*16 Wikipedia注釈を参考。「原作中では、かつて女子高であり現在は共学の進学校であること以外ほとんどが不明であるが、アニメ版では東京都内に立地していることが明言されている。また、かおりん役の野川さくらのキャラクターソングアルバム「Cherries」の初回限定版のフォトブックによると、舞台は東京都三鷹市で、当時三鷹に住んでいた野川は親近感が湧いたとのこと。」
*17 『大室家』というスピンオフが今でも続いていることからも自明だろう。
*18 実際、映画の絵コンテを確認すると「生っぽく!」と指示されており、ここから確認するならば、「生っぽい」シークエンスは意図されたものとしてTVシリーズでも行われていたものとして見るのが正しいだろう。
『映画 けいおん!絵コンテ集』より
「このシーンも生っぽい美しい画面 ボケとかきれいに。」
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【参考文献】
千葉雅也『動きすぎてはいけない』
平倉圭『ゴダール的方法』
ジル・ドゥルーズ『ディアローグ』
ジル・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』
保坂和志『小説の誕生』
町屋良平『小説の死後ーーにも書かれる散文のために』
