競技への信頼の喪失にもなりかねない
フィギュア女子シングルが終わった。ドーピング疑惑が解決せぬまま、ショート1位通過でフリーを迎えたカミラ・ワリエワ選手。結局、本来の完璧と言われるジャンプが思うように発揮できず、4位に終わった。そして、日本の坂本花織選手が銅メダルに輝いた。
しかし、ワリエワ選手の演技は切なくあまりに悲しすぎた。何のために彼女は演技をしなくてはならかったのか……。
「ドーピング疑惑の解明はもちろん重要なことで、はっきりさせなければならない部分です。ですが、今回の疑惑問題で今後議論していかねばならないのは、まだ心も体も成長途中にある選手に無理な生活規制やプレッシャーを与え、とにかく勝てばいい、の指導になっていないかということです。ワリエワ選手をはじめ、近年のロシアのフィギュア女子の成績をみるとフィギュアファンとしてよりも小児精神科医としてこの問題について厳しく発言せずにはいられません」
というのは、米国小児精神科医でハーバード大学医学部アシスタントプロフェッサー、マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長の内田舞医師だ。内田医師自身、高校時代までフィギュアスケートをやっていて、鍵山選手の元振付師である佐藤操氏に指導を受けていた経験も持っている。また、小児精神科医としては、10代、20代の若いアスリートのメンタルヘルスに以前から関心を寄せていて、鬱状態を経験したことがある元全米チャンピオンである長洲未来さんとともに競技とメンタルの問題について対談を行ったりもしている。
「今回の問題は、単なるドーピングスキャンダルでは留まらない、根深い問題を抱えています。そして、そこには闇が多い歪んだ指導が見え隠れすることです。そこで被害にあうのは選手であり、選手たちの未来であり、競技への信頼の喪失につながります」(内田医師)
今回のドーピング疑惑の背景にある、まだ子どもへの精神的、肉体的な負担と問題について、内田医師が寄稿した記事を前後編でお伝えする。前編では、ワリエワ選手の問題にも関与している可能性が示唆される、エテリ・トゥトベリーゼコーチを中心としたロシアスケートの問題についてまとめた。
以下より、内田舞医師の寄稿です。
空虚な「未成年の彼女を守る」という言葉
女子フィギュアスケート・シングル、坂本花織選手が会心の演技で銅メダルを獲得しました!
坂本選手のスピードと飛距離は圧巻でした! ショートは最終滑走、フリーはトゥルソワ選手の点数と会場の興奮を耳にした直後の演技だったにも関わらず、揺るぎない最高の演技をやり遂げた精神力と明るさに感動し、私は携帯で演技を見ながら拍手をしてしまいました。
樋口新葉選手の2つのトリプルアクセルは今まで試合の中で降りたものでも最高のできで、私は周りに人がいる状況で見ていたにも関わらず着氷の際は「やった!」と声が出てしまいました。笑顔で唱を口ずさむほど入り込んだ表現も心に響きました。初出場の河辺愛菜選手はいつものような演技ができなく、悔しかったかもしれませんが、トリプルアクセルへの挑戦も素敵で、これからも応援したくなりました。3人とも誇りいっぱいの思いで、帰国してほしいです!
しかし、今回の大会はどうしても暗い影がぬぐえません。現在女子フリーの直後、この原稿を書いていますが、ドーピング騒動の中人生をかけて準備したこの舞台で自分の演技ができなかった15歳のカミラ・ワリエワ選手の涙を見て、未だに胸を締め付けられています。15歳の少女が自らすすんでドーピングを選ぶはずはなく、カミラ選手にこのような経験をさせてしまったのは、マネージメントしてきた連盟やコーチ、また国家組織の大人達の責任が大きいと感じ、ひとりのフィギュアスケートファンとして、この事実が悲しくて仕方ありません。
また、日本のテレビでは放送されなかったそうですが、アメリカのテレビの実況中継では、結果が出たあとのロシアのフィギュアチームの様子が報じられていました。「こんな風になるはずじゃなかった! このスポーツは大嫌いだ! もう二度とスケートなんかしない! あなたたちは全部知っていた! 触らないで!」と泣き叫びながらコーチを押しのけて、表彰式に向かうのを拒否するトゥルソワ選手の姿も見てはいられないものでした。
この10年間、ロシアのフィギュア女子界は、摂食障害や故障を原因で10代後半のキャリアで引退を余儀なくされる選手が続出しています。また、選手への虐待も、メディアを通しても伝えられました。こういった選手にとって過酷ともいえる状況で、女子チャンピオン育成を容認してきたのは、ロシアチームはもとよりスケート界の問題であり、ワリエワ選手のドーピングもこの一環であり、氷山の一角なのかもしれません。
最終的にワリエワ選手は、今回のドーピング問題で出場停止になりませんでした。オリンピック委員会は「未成年の彼女を守るために」出場を許可したと発表しました。しかし、『未成年を守るために』この言葉がいかに空虚であるか……。ドーピングの陽性が出ている選手にオリンピックの大会出場を許すという決断が本当に「未成年の彼女を守る」ということになったのでしょうか? そして、正当な方法でこの舞台にたどり着いた選手達のことは一体誰が守ってくれるのでしょうか。
そして何よりも小児精神科医として、ワリエワ選手が適切なメンタルヘルスのサポートを受けられているのかとても心配しています。二度とこのようなことが起きぬように、国際スケート連盟やオリンピック委員会が、スケーターの身体的、精神的健康を優先する体制へ変化してくれることを心底祈っています。
驚異か脅威か!?「チーム・トゥトベリーゼ」
カミラ・ワリエワ選手、アレクサンドラ・トゥルソワ選手、アンナ・シェルバコワ選手の技術、演技、これまでの努力、様々なことを耐えて五輪の滑走までたどり着いた精神力に、この上ない敬意を感じています。選手達には大きな拍手を送りたいです!
しかし、彼女たちを囲む大人達には同じことが言えません。
ドーピングが公式に発覚したのは今回が初めてですが、ワリエワ選手を指導しているエテリ・トゥトベリーゼコーチの指導法に関して、選手への精神的、そして身体的な悪影響は以前より広く議論されていました。
2014年に浅田真央選手(当時23歳)が世界選手権を優勝してからの8年間、世界チャンピオンはほぼ全員15〜18歳のロシア女子選手ばかりでした。プルシェンコを育てたミーシンコーチに師事するエリザベータ・トゥクタミシェワ選手(2015年世界選手権を18歳で優勝)以外は、全員トゥトベリーゼコーチのチームに指導を受けている10代半ばの選手だったのです。
トゥトベリーゼコーチの教え子で、2014年以降世界選手権で表彰台に乗ったロシア選手をあげてみると……。
15歳でソチ五輪の団体金メダル、世界選手権銀メダル、19歳で故障と摂食障害で引退。
【エフゲニア・メドベージェワ選手】(現在22歳)
15、16歳で世界選手権金メダル、17歳平昌五輪銀メダル、エテリコーチに引退を奨められ、カナダのオーサーコーチのもとに移籍して18歳世界選手権銅メダル。20歳以降競技には出ていない。
【アリーナ・ザギトワ選手】(現在19歳)
15歳で平昌五輪金メダル、16歳世界選手権優勝。17歳で競技から離れる。
【アリョーナ・コストルナヤ選手】 (現在18歳)
16歳でグランプリファイナル優勝(このシーズンはコロナ禍により世界選手権なし)、18歳骨折で今季後半より欠場。
そして、今回の北京五輪には、以下3名の選手が参加しています。
15歳で出場グランプリ大会全優勝(このシーズンはコロナ禍により世界選手権なし)、16歳で世界選手権金メダル
【アレクサンドラ・トゥルソワ選手】(現在17歳)
15歳で出場グランプリ大会全優勝(このシーズンはコロナ禍により世界選手権なし)、16歳で世界選手権銅メダル
【カミラ・ワリエワ選手】(現在15歳)
今シーズン最も高得点。今回、ドーピング問題が発生した。
見ての通り、ほとんどの国際大会を15歳の少女が独占し、10代後半までに競技人生が終了しています。
次々と新しい才能が出てくることは素晴らしいことですし、若い世代が4回転やトリプルアクセルなどの難度の高い技ができるのもすごいことと思います。そこに行きつくために、才能のある選手たちは、小さい頃から想像を絶する、厳しい制限や努力をしていることも間違いないでしょう。
しかし、その指導法には選手ひとりひとりに対する「人間としてのリスペクト」を感じません。本来は、それぞれの年齢や体格、特性に合ったテクニックを教え、その選手個人のスケート人生が大切にされ、豊かに感じられる指導が大事なはずです。ですが、チーム・トゥトベリーゼの指導は、全員同じ方法で15〜16歳までの数年間の賞味期限のある商品のように「作られては、捨てられている」ことに私は憤りと問題を感じるのです。
また、これはチーム・トゥトベリーゼの選手ではありませんが、ロシアの14歳のジュニア選手が以前インタビューで、「私は毎日(北京)オリンピックが2023年に延期されることを祈っている。(北京の)次の五輪になると私は18歳だ。18歳でできる技はない。私は生まれた年が間違っていた」と答えていました。18歳で競技が続けられないと感じさせてしまう現状に、問題があると感じます。
17歳で引退を奨められた世界チャンプ
17歳のとき、平昌五輪で銀メダルに輝いたエフゲニア・メドベージェワ選手。輝かしい栄光を手にしたにもかかわらず、彼女はチーム・トゥトベリーゼから引退を奨められました。それはなぜだったのでしょうか?
このチームのテクニックは独特で、上半身を素早くひねったプリ・ローテーション(氷から離れる前に回転を始める)、回転速度、身体の細さと軽さと、凹凸がないまっすぐな身体が基本要素になったジャンプテクニックが中心となります。これらは、思春期に自然と起こる胸や腰回りの身体変化が訪れた途端、続けられないテクニックなのです。
さらに、このテクニックは背中への負担が凄まじく、トゥトベリーゼコーチ門下でカザフスタン代表だったエリザベート・トゥルシンバエワ選手は、「お辞儀ができない」ほど背中の慢性的な痛みを理由に19歳で引退しました。引退を奨められたメドベージェワ選手は今も左に身体を向けられないと訴えています。
また、テクニックと合わせて、身体の細さと軽さを保つための体重コントロールについても想像を絶する厳しいプログラムが組まれています。ユリヤ・リプニツカヤ選手はパウダーサプリメントのみの食事で過ごしたことをトゥトベリーゼコーチがインタビューで語っており、リプニツカヤ選手は摂食障害に苦しみ続けたことを引退後にカミングアウトしています。
他にも、アンナ・シェルバコワ選手は海老を2尾食べるだけで満腹になると、チーム振付師のダニエル・グレイヘンガウスコーチが誇らしげに語ったインタビューも公開されています。思春期を遅らせるためのホルモン調整薬物の処方も疑われていますが、そういったものを使用した影響なのか骨折、摂食障害が頻繁に報告されているのです。
痩せることをあおり、若くなければ、小さくなければできない技ばかりを追求する指導が定番化しているのですから、17歳以降体型の変化が生じれば、継続は難しくなるのは当たり前です。通常であれば、体型の成長に合わせ、今までとは違う技や表現方法を教えるという指導を選択するチームが多いのです。しかし、チーム・トゥトベリーゼでは、その時点で引退が奨励されてしまう……。チーム・トゥトベリーゼは、選手とともに成長するのではなく、次シーズンの全試合優勝してくれるであろう下世代に関心を変えてしまうのです。
この育成方法では、個人個人のスケート人生を大切にしているとは思えないどころか、旬が過ぎたらお払い箱にされ、捨てられるという感覚があります。
本国でも批判されるトゥトベリーゼの指導
メディアやソーシャルメディアでのコーチの発言も議論の対象になっています。トゥトベリーゼコーチは他のロシアコーチに対してインスタグラムで堂々と暴言を吐き、振付師のダニエルコーチはチームを離れていった選手の悪口を言うこともありました。
また、最近公開されたインタビューでは、ザギトワ選手が15歳の頃、甘えの気持ちが出ないように母親とは引き離し、五輪で優勝してからザギトワ選手の母親はモスクワへの引っ越しが許されたと語っていました。さらに、骨折中であっても、新型コロナに感染し肺炎から回復していない状態であったとしても試合からの棄権は許されず、試合で結果が出なかった場合も「食べ過ぎて太ったから」「なまけてたから」とすべては選手の責任だと言及していました。
コーチのこういった言葉を日常的に聞くことによって、まだ子どもである選手たちは、「ジャンプを跳べないのは自分がなまけているから」「失敗するのは食べないことを我慢できないから」「怪我をしたのは自分が弱いから」と思ってしまうのではないでしょうか。今大会のフリー演技を終えてリンクサイドに戻ってきたワリエワ選手にトゥトベリーゼコーチが最初にかけた言葉も「なんで諦めたの? 教えて? アクセルの後、なんで諦めたの?」でした。
この問題に対して、今までも多くのスケーターやファンが議論していました。それでも、国際スケート連盟は、2020年のISUスケーティングアワードで、トゥトベリーゼコーチに対して『Coach of the Year(ベストコーチ)』として称え、門下の選手にはボーナス入りの高得点を与えることでこのチームに力を与えていった、という疑いの声も上がっています。
根深いロシア、チーム・トゥトベリーゼの成績主義の指導。しかし、それはロシアだけの問題なのでしょうか? 後編では、ロシアの問題含め、アスリートに私たちは何を求めるのか、オリンピック委員が会見で言った「未成年の彼女を守る」の本来あるべき姿について考えます。