コンテンツにスキップ

李承晩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
承晩スンマン
이승만(北朝鮮:리승만


任期 1948年7月24日 1960年4月26日
副大統領 李始榮(1948-1951)
金性洙(1951-1952)
咸台永(1952-1956)
張勉(1956-1960)
首相 李範奭(1948-1950)
張勉(1950-1952)
張沢相(1952)
白斗鎮(1953-1954)
卞栄泰(1954)

任期 1947年3月3日 1948年8月15日
副大統領 金九

任期 1919年4月10日 1925年3月

出生 1875年3月26日
朝鮮国 黄海道平山郡馬山面大慶里(現:朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮 黄海南道峰泉郡
死去 (1965-07-19) 1965年7月19日(90歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル
政党 大韓独立促成国民会
自由党
配偶者 フランチェスカ・ドナー(1934-)
署名
李 承晩
1909年
1909年
各種表記
ハングル 이 승만(韓国)
리 승만(北朝鮮)
漢字 李 承晩
発音: イ・スンマン(韓国)
リ・スンマン(北朝鮮)
日本語読み: り しょうばん
ローマ字 Syngman Rhee 別表記としてI Seung-man 等。
テンプレートを表示

李 承晩(り しょうばん、イ・スンマン、ハングル: 이 승만1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。本貫全州李氏雩南(ウナム、우남)。「承龍」(スンニョン、승룡)。

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「リ・スンマン(리 승만)」と呼ばれるが、これは韓国では語頭子音の脱落が起こるためである(「朝鮮語の南北差」参照)。韓国でも1950年代以前には리 승만(リ・スンマン)」と綴られていた(英文での本人の署名も“Syngman Rhee”となっている)。

略年表

[編集]

生涯

[編集]

出自から独立運動

[編集]

李承晩は黄海道平山郡馬山面大経里陵内洞の全州李氏の没落両班の家に生まれた[1]。父・李敬善(1839年〜1912年)、母(金海金氏、1833年〜1896年)の3男2女の末っ子(ただし、兄二人は天然痘で夭逝)であった。族譜では太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の16代末裔である[注釈 1]。譲寧大君の長男富林令李順の子孫にあたる。王族としては、13代前の樹州正李允仁、その孫で丙子の役の時に武功を立てて全豊君を追贈された李元約などがいる。その後、数人の子孫が官職に就くも、6代前の李徴夏が陰職県令となったのを最後に、没落した。承晩自身は李氏朝鮮の王族の分家出身であることを誇りにしていた[2]

父・敬善は、財産を放蕩で使い果たし、2番目の息子が死ぬと、地神を棒で叩き壊し、大刀を振り回し、その後、3ヶ月の間寝込んだ[3]

投獄中の李承晩(1899年、前列左端)。

少年時代の李は科挙合格を目指していたが、1894年朝鮮に於ける科挙制度が廃止されたため、アメリカ人宣教師によるミッション・スクール培材学堂に入学した[4]培材学堂の第一期学生となり[5]1896年に設立された独立協会にも参加したが、時の親露派政権が高宗皇帝に讒言したため、1898年11月には独立協会の解散、指導者の逮捕が命じられ、独立協会は同年12月、強制的に解散させられた。李承晩も1899年に逮捕され[5]拷問を受けながら1904年まで獄中にいた。

同1904年の日露戦争の勃発後に日本が軍事的・外交的・経済的に大韓帝国に浸透するのに危機感をいだいた高宗らは、1882年朝米修好通商条約の第1条の「周旋条項」に基づいて、アメリカ合衆国に朝鮮の独立維持のための援助を求めることを構想した。そこで英語が話せた李を釈放し、アメリカに派遣した[5]ハワイを経由して、アメリカに渡った李は1905年8月、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会し、「我々は皇帝の代表者ではなく、一進会という団体の代表者である」とし、「皇帝は朝鮮人の利益を代弁する事ができない」と、大韓帝国と高宗を積極的に否定した[6]

その後も李はアメリカに残り、ジョージ・ワシントン大学ハーバード大学を経てプリンストン大学博士号を取得した[5]。このプリンストン大学による哲学博士号授与により、李は韓国人初の哲学博士号取得者となった[7]。この時期にプリンストン大学の総長であったのが、後に大統領となるウッドロウ・ウィルソンであった。李を気に入ったウィルソンは、李を自宅での懇親会に常連客として迎え入れ、折りをにふれて「将来の朝鮮独立の救世主」として紹介した[8]。ジョージ・ワシントン大学における成績は、平均「C」と低い成績だった[要出典](Cの下はFで落第)が、上記のように修士課程を修了し博士号を取得した。なおアメリカ留学中の1910年に日本と大韓帝国の間で締結された日韓併合条約により、大韓帝国は大日本帝国に併合されることとなる。

大学院卒業後の1911年(明治44年)に日本領となった朝鮮半島へ戻り、ソウルのキリスト教青年会で宣教活動についた[5]。しかし1年半の後、当時の寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件(朝鮮では「105人事件」と呼ばれている)の関与を疑われ、再び渡米した[9]。アメリカに渡る途中に日本本土へ立ち寄り、下関京都東京に観光のため滞在した。鎌倉市では朝鮮人学生大会にも参加した。渡米後の1913年(大正2年)に、ハワイの日本人として[6]ホノルルに居を構え、学校職員として勤務する傍ら、朝鮮独立運動に携わった。

1918年、李と親交があったウィルソン大統領によって、「民族自決」などを掲げた平和原則が議会において発表された。同年12月にはパリ講和会議においても「民族自決」を含む条約が提起されるにおよび、ロビー活動を行うため李もパリ行きを希望する。しかし国務省は、李の旅券を発行しないよう指示されていた[10]

臨時政府と再度の渡米

[編集]
金奎植(右)と共に。

1919年4月10日上海で結成された「大韓民国臨時政府」(略称:臨政)の初代大総理に就任し、9月11日からは臨時政府大統領となった。上海臨時政府は、短期的にではあれ、朝鮮独立のための統一戦線として左右両翼を糾合できたという点で独立運動における画期的な存在であった。これまで独立運動に於いてそれまでほぼ無名であった李が大統領に選ばれたのは、第一次世界大戦終結に際して民族自決をはじめとした「十四か条の平和原則」を唱えたアメリカ合衆国のウィルソン大統領と人脈があると考えられ、さらにかつての大韓帝国皇帝高宗とも繋がりがあるという事が指摘されている[9]。実際、同時期に成立していた各種の朝鮮独立運動の「臨時政府」において、李はリストのナンバー1か2に必ず名を連ねている[9]

一方で李は、国際連盟による朝鮮の委任統治を提案していた[11]。これは独立達成のためには委任統治というステップを踏むことが必要であるという考えであったが、これは左派の李東輝らの強い反発を受け、「第二の李完用」であると非難された[11]。承晩は完全に政府から浮き上がり、1920年12月8日に上海に入ったばかりであったが、1921年5月に上海を去った[11]。やがて弾劾を受け、1924年からは1925年3月21日には、大統領職も追われている。以降はアメリカでのロビー活動に専念することになった。李承晩は「日本はいずれアメリカと敵対する、その時には朝鮮を戦友とするべきだ」[11]、「日本の侵略を容認して朝鮮を見殺しにしたアメリカも同罪である」(桂・タフト協定)[12]などと強い調子でアメリカの支援を要請したが、アメリカの支援は得られなかった[12]

1944年9月、カイロ宣言の「適切な手続きにより (in due course)」朝鮮の自由と独立を保障するとした文言に「なぜ彼ら(連合国)は、われわれを実質的に助けたり激励したりして、自分たちの真心を示そうとしないのか」と懸念を感じ、米国の官僚に対し「われわれ朝鮮は、国際社会で泣いている子どもと同じだ。われわれが望むのは、正義と公正だけだ。泣く子は、時や場所をわきまえない。朝鮮は、諸大国が集まりさえすれば、時も場所もわきまえることなく泣き立てるだろう」と語った[13]

金九と(1945年12月)

大韓民国建国まで

[編集]
北緯38度線以北の朝鮮半島北部を間接統治していたソ連軍政長官と。
左から李承晩・金九一人おいて安在鴻

第二次世界大戦勃発後、1945年8月15日日本が降伏し、その後連合国首脳によるヤルタ協定に基づき、朝鮮半島は北緯38度線を境界に、北部はソ連軍、南部はアメリカ軍による連合国軍政に置かれることとなった。

朝鮮独立から2ヵ月後の1945年10月に李承晩は在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁直接統治下の朝鮮半島に戻り、独立建国運動の中心人物となった。彼は他の運動家に比べて活動歴が長いこと、大韓民国臨時政府の初代大統領であった[注釈 2]こと、「朝鮮建国準備委員会」(略称「建準」)に名を連ねたことがあること、30年にわたるアメリカでのロビー活動によって、アメリカ人の支援団体を持ち、米国内では関係者に知られる存在であった。

中華民国の蔣介石総統(中央左)と。

李は中国国民党にも人脈を育てており、マッカーサーに彼を強く推奨したのは蔣介石だった[14]。李はマッカーサーの専用機に搭乗して帰国するやアメリカの意を受けて建準とも臨政とも距離をおき、反共統一を掲げた。朝鮮には他に有力な反共の右派が存在しなかったこともアメリカの支持を受けた理由の一つだったと思われる。即時独立を求める民族派金九中道派呂運亨左派朴憲永といった有力活動家がアメリカと正面から対立する中で、李はアメリカ軍政をある程度容認していた事も大きい[15]

また、李が真面目なクリスチャンであったことも支持を受けた理由とされる[16]

李は日本統治時代には朝鮮半島にいたことがほとんど無く、地盤も基盤も富も持ち合わせていなかった。これを支えたのが全羅道を本拠としていた金性洙率いる湖南財閥[注釈 3]と、それが中心になって組織された韓国民主党(韓民党)である。韓民党は建準に対抗して臨政を支持していた。また解放後に新聞が行った各種世論調査において、李は他の指導者に比べて圧倒的な支持を受けていた[17]反日民族派金九による親日派粛清に恐れをなした日本統治時代の対日協力者が李の支持基盤となったのである[18]

しかし、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁はおそらく当初の予定どおり李を支持し、彼と韓民党を仲介した。臨政と韓国民主党は信託統治反対運動の路線などをめぐって対立しており、臨政と左派との合作が始まると、韓民党は李承晩に接近する[注釈 4]。両者の連合は独自の勢力作りに動き出し、李の下に政府準備組織「独立促成中央協議会」(独促、後の大韓独立促成国民会)を発足させた。このことで、アメリカ軍政下には独促臨政建準という3つの政府組織(政府準備組織)が存在することになり、ソウルは大混乱に陥った。

李と韓民党の連合は「建準」で勢力を誇っていた左派と、その他の「大韓民国臨時政府」出身者に対抗し、アメリカ軍政開始直後のソウル政界で主導権を握った[注釈 5]

大韓民国政府樹立国民祝賀式(1948年8月15日)。

全朝鮮諸政党社会団体代表者連席会議は5.10単独選挙を阻止するために開かれた。4月19日から平壌の牡丹峰劇場での連席会議で南朝鮮の41個の政党・社会団体と北朝鮮の15個の政党・社会団体から選出された695名の代表者が参席するのだが、これは当時南北を全ての左・右勢力の大部分を網羅していた。実際に南朝鮮からは南朝鮮労働党・勤労人民党など左翼系列の政党だけでなく韓国独立党・民族自主連盟など右翼系列の政党も参加しただけではなく、朴憲永・白南雲・金九・金奎植・趙素昻などの有名人などの左翼及び右翼も参席した。在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が最も嫌った左派の排除に成功した李承晩と韓民党は、1948年5月10日に行われた国際連合監視下での総選挙に臨んだ(初代総選挙)。この選挙は「米ソ両軍撤退→南北要人会談→総選挙という順序で政府樹立」の3段階の方案に反しており、朝鮮半島の南北分断を固定化するとの理由から、民族派金九中道派金奎植らの有力者も含めた大反対の中で強行され、各地で反対派による武装闘争が展開された[19]

南朝鮮単独での初代選挙に至る過程で起きた最も悲惨な事件が「済州島四・三事件」である。1948年4月3日には朝鮮の南北分断を固定するとの理由から南朝鮮単独での総選挙実施に反対する過程でこの事件は発生し、少なくとも3万人の島民が南朝鮮国防警備隊やその後身の大韓民国国軍、南朝鮮の民間右翼などによって虐殺された。この事件は今後済州島だけは島民の意思で動こうとする運動を、北朝鮮の介入と見て南側の軍部や自警団が島民を虐殺したものである。済州島は後に大韓民国の領土になった。この事件によって日本に逃れたことで、現在の在日韓国・朝鮮人となった者が多い[20]

総選挙によって李と韓民党は制憲議会の多数を制した。そこで制定された第一共和国憲法は議会が大統領を選出すると定めていた。

1948年8月15日に、アメリカ合衆国の後援の下、朝鮮半島南部のみを実効支配する大韓民国政府樹立を宣言した[21]。李は議会多数の支持を得て初代大統領に就任した。李政権は地主資本家および大日本帝国統治下の朝鮮人官僚[注釈 6]を勢力基盤としていた。大韓民国建国の翌月、9月9日に朝鮮半島北部を実効支配していた北朝鮮人民委員会を母体に、朝鮮半島北部に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。

1948年8月15日の大韓民国(南朝鮮)と9月9日の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国後、大韓民国の李大統領は「北進統一」を、朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は「国土完整」を唱え、それぞれが互いに互いを併呑する形での朝鮮半島統一案を提示した[22]

大韓民国建国直後の政治的対立

[編集]

李承晩は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞った。韓国国内は政治的対立で揺れ続けた。対立は多くの場合、「体制派と反体制派」「与党と野党」の論争というよりもむしろ「李と議会政治家たち」の軋轢であった。

大韓民国建国直後の1948年9月に反民族行為処罰法が制定され、この法律によって1949年1月に反民族行為特別調査委員会が創設され、以後大韓民国では「親日反民族行為者」が法的に認定されている[23][24]。また、1948年に発生した麗水・順天事件を契機に、大韓民国国内の南朝鮮労働党員などの反李承晩左翼・親北勢力除去を目的として、1948年12月1日国家保安法を制定している[25]

1949年1月5日に朝日新聞を通じた日本への新年メッセージでは過激な反日姿勢を見せてなかった。そこでは「日本の皆さん新年おめでとう。韓国人は日本人が韓国人へ抱いてるのと同様に善良な皆さんに対してては何の呵責もない」、「過去40年、韓国人がうけた痛手は日本の軍国主義者の罪であって、日本人もまた政府の同様に被害をうけた。隣人の両国民はお互いに仲良くしなければならないことを日本人は忘れてはならない」としていた[26]

韓国政府内部の最初の対立は大統領制を採用し続けるか議院内閣制を採用するかを巡って起きた。大統領制の維持を目論む李に対し、李を支えていた韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。この両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。日本統治時代に普成専門学校(現在の高麗大学校で湖南財閥の一員)教授をし、ソウル大学校教授を兼務していた兪鎮午・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李により覆され、大統領中心制へと転換される[27]

初代内閣組閣の時にも韓民党との対立は起こった。韓民党は金性洙を国務総理に推していたにも拘らず李承晩は李允栄を国務総理に任命、27対120の大差で否決される。しかし、承晩は続いて李範奭を国務総理に任命、110対84で可決。初代内閣からは韓民党はほぼ排除され、金度演が財務部長官に任ぜられたのみとなった。

1949年には反承晩勢力が団結して政界再編が起き、民主国民党(民国党)が生まれた。民国党には臨時政府出身者の一部も加わり、申翼煕趙炳玉らがリーダーとなった。民国党は改憲案を上程したが、在席者中3分の2の賛成を得られず、改憲案は否決された。

更に、1949年6月26日には右派陣営で李承晩最大の政敵であった金九安斗煕によって暗殺されている[28]。安斗煕は反共団体の西北青年会の元会員で、思想的は李に近い人物だった[29]

朝鮮戦争

[編集]

李承晩は第2回総選挙で支持母体である大韓国民党が惨敗したことから、北朝鮮に対して「北進統一」と強硬な姿勢を示すことで求心力を得ようとした。 1949年2月には、アメリカ陸軍長官との極秘会談の中で、軍備を増強した上で遠からず北朝鮮に兵を進めたいと表明したが、長官からたしなめられてアメリカを窮地に陥れるような行動はしないとの約束を強いられている[30]。また、このことで米国の不興を買うことになり、経済・軍事の両面での支援が停止された。北朝鮮は韓国とは対照的にソ連の支援を受けて、軍事力の増強を行っていた[31]

金浦空軍基地に到着したダグラス・マッカーサー元帥を歓迎する李承晩。

1950年6月25日朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が大韓民国(南朝鮮)に圧倒的な戦力で攻撃を開始、朝鮮戦争が勃発した。農繁期を理由とした兵士の休暇、総選挙による警戒態勢の解除、装備・戦力の差(特に対戦車装備の欠如)、同年6月に行われた人事異動など、様々な理由から[32][33][34]、圧倒的な朝鮮人民軍(北朝鮮軍)との人員・戦力・装備の差から大韓民国国軍(韓国軍)は瞬く間に総崩れとなった。

李承晩は開戦2日後の6月27日午前3時に特別列車でソウルから逃亡し、韓国では現在も批判されている[35]6月28日首都ソウルは陥落した。その際、北朝鮮軍の進行を遅らせるために、蔡秉徳少将の命令により、漢江にかかる橋が爆破され(漢江人道橋爆破事件)、多くの軍人・民間人を置き去りにする結果となった。

ソウル北方の防御戦で北朝鮮軍を食い止めているとの情報を受けて大田まで戻った。翌7月2日の昼前、釜山に到着した[36]

また釜山陥落に備えて、日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる亡命政府を建設しようとし、日本側にGHQを通じて要請を行った[37]

1950年7月7日国際連合安全保障理事会による国連軍創設決議案決議後、アメリカ合衆国のハリー・S・トルーマン大統領の指名により、ダグラス・マッカーサー元帥が7月10日に初代国連軍司令官に任命された後、7月14日に李大統領は大韓民国国軍の指揮権を国連軍司令官に移譲した[38]1950年9月15日のマッカーサー国連軍司令官による「仁川上陸作戦」により形成が逆転し、9月26日に国連軍が奪還し、9月28日に北朝鮮軍の掃討を経た後、9月29日に李は釜山からソウルへと首都を再遷都した[39]

国連軍のソウル奪還後、開戦以前の南北両政府の事実上の国境線であった北緯38度線を国連軍が北上することはソ連中華人民共和国など共産圏の介入を招くのではないかと国連軍内部で問題となったが、「北進統一」を望む李大統領は丁一権参謀総長に大韓民国国軍の38度線北上を指示したため、韓国軍は38度線を越え[40]、既に国連軍司令官のマッカーサー元帥も38度線突破を決意していたこともあって、この大韓民国の独断突破は事後追認された[41]。大韓民国国軍と国連軍は朝鮮半島の北進を続け、1950年10月19日には北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の首都機能の存在した平壌に入城し[42]10月26日林富澤大佐率いる大韓民国陸軍第6師団第7連隊英語版楚山を攻略、中朝国境の鴨緑江に到達した[43]

抗美援朝」と大書された朝鮮戦争1950年-1953年)当時の中華人民共和国プロパガンダ・ポスター。李大統領の指示による大韓民国国軍38度線北上突破とその後に続いた国連軍の北進は、1949年10月1日に建国されたばかりの成立間もない中華人民共和国毛沢東主席に「保家衛国、抗美援朝」の標語の下で、彭徳懐司令官率いる中国人民志願軍抗美援朝義勇軍)の直接介入を決断させ、朝鮮戦争を最初の東西冷戦代理戦争とするに至った。

しかしながら、この1950年10月以降の大韓民国軍、及び国連軍の38度線北上に際し、毛沢東主席や周恩来総理ら中華人民共和国の首脳部は台湾に逃れた中国国民党蔣介石総統率いる中華民国の占領よりも、朝鮮戦争を重視する観点から、中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)の参戦を決意しており、「保家衛国、抗美援朝」の標語の下で同1950年10月19日には彭徳懐司令官率いる抗美援朝義勇軍が鴨緑江を渡って朝鮮入りし、10月25日より本格的に国連軍と衝突した[44]。国連軍はこの抗美援朝義勇軍人海戦術に敗北を重ね[45]12月5日には占領した平壌から撤退し[46]、同年12月中に中朝連合軍は38度線にまで南下、翌1951年1月4日に中朝連合軍はソウルを再占領するに至った[47]1951年1月10日、李はトルーマンアメリカ大統領宛にソビエト連邦首都への原子爆弾を使用した民間人大量殺戮を示唆する[要出典]書簡を送っている[48]

今ならまだ韓国軍は戦線を維持できます。しかしこの機を逃せば、中国と北朝鮮の共産主義者共は、我が軍を壊滅させ、反共主義勢力を滅ぼすでしょう。(中略)マッカーサーに、共産主義侵略を阻止する原子爆弾使用許可を与えるべきです。モスクワに原子爆弾を数発落とせば、世界の共産主義者共は震え上がるでしょう。Syngman Rhee, letter, 10 January 1951

朝鮮戦争期の政争

[編集]

京紡は李派に資金供給先を変更し、民国党は強力な経済的基盤を失うこととなる[49]

当時、李が語った「アメリカは余り信じるな。ソ連の奴らには騙されるな。日本は必ず再起する。注意せよ!」が韓国で流行語になった[50]

任期切れを控えていた李は、憲法の再選禁止を撤廃するために、三選までを許す改憲案を提出した。これに対抗して野党は議院内閣制案を提出した。李は戦時下の釜山に戒厳令を布告し、野党議員を大量に検挙した(釜山政治波動)。

1952年7月4日、国会が警察に包囲されている中、与党議員がほとんどを占めている国会で、改憲案は可決された。大統領の選出は直選制となった。この頃までに李派は自由党を組織している。この時期、アメリカは戦時下において議会との対立を解消できない李の排除を考え始めたと言われている。国民防衛軍事件居昌良民虐殺事件によって大韓民国陸軍本部では、李に対する反感が高まっていた[51]

朝鮮戦争初期に大韓民国に侵入した朝鮮人民軍兵士は、その後、韓国内でパルチザン闘争を繰り返した。同じ朝鮮民族によるパルチザン闘争の衝撃は強く尾を引いた。また、李が傷病兵の慰問としてある病院を訪れた時、その中に韓国出身の在日朝鮮人義勇兵が混ざっていた。

一方で李は1953年1月5日から1月7日までの間、国連軍総司令官マーク・W・クラーク大将の招きの形で、非公式に訪日し[注釈 7]、1月6日にクラークの公邸で、吉田茂首相と約1時間対談した。内容は未だに明らかではないが、険悪なやり取りであったとされる[注釈 8]

1953年、戦況が膠着した朝鮮戦争について、国際連合主導による休戦提案が出始めると、李は「停戦反対、北進統一」、「休戦は国家的死刑」を口にし最後まで休戦に反対し、「北進統一論」に基づいた朝鮮半島の大韓民国による統一にこだわった。しかし国際連合は、粛々と休戦への道筋を作り、6月8日に両軍の捕虜送還協定が締結された。

6月18日に、李はアメリカに何の予告も無く捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令して、抑留していた朝鮮人民軍捕虜2万5000人を北へ送還せずに韓国内で釈放する[注釈 9]という事件を起こした。

正式に決まった協定を反故にする暴挙だったことから、国際世論の非難が高まった上に、北朝鮮内の中国人義勇兵(抗美援朝義勇軍)の全面撤兵を李は要求し、早期休戦を望む国連軍やアメリカ軍と激しく対立した。7月16日のソ連の新聞『ソヴィエト・ニュース』は以下の様に報じている。

ここ3年というものは李承晩について聞いたことがなかった。3年の間、南朝鮮のすべての問題はアメリカ軍司令官だけによって指令されており、李承晩は、釜山の奥にいるアメリカ軍の裏庭あたりにおあずけになっていた。……ところが、いま突如として、李承晩はあまりに強大かつ強力であるため、「国連軍司令官もアメリカ大統領も、またアメリカ議会も彼とは太刀打ちできない」と発表されている。ぶざまな茶番劇が上演されているのだ。神谷不二『朝鮮戦争』

しかし、あまりにも尊大で強引な李は、件の捕虜釈放事件で孤立することになった。

李はやむなく休戦に同意し、1953年7月27日に、大韓民国の政府要人が署名しないまま、中朝連合軍代表の南日朝鮮人民軍大将国連軍代表のウィリアム・ハリソン・ジュニア英語版アメリカ軍中将朝鮮戦争休戦協定署名した。

朝鮮戦争休戦以後

[編集]
1957年に発行された1000ファン紙幣。李の肖像画が描かれている。

1954年10月14日には「韓国の生徒達へ日本帝国主義の侵略性とその韓国への悪意を教えるよう命令した。これは韓国経済を独占を望む日本の陰謀への対抗措置で教師・大学教授に命じて生徒を激動させようとするもの」と発表させた[26]

1954年当時の憲法では、大統領の任期は二期までで、三選は出来ない事になっていた。しかし、生涯大統領を望む李承晩及び与党自由党は「初代大統領に限って三選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出した。11月27日の国会投票では、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になった。可決には議会の3分の2に至る135.33票以上、つまり136票が必要だった。よってわずか1票届かず、改憲案は否決されるはずだった。しかし、李派の国会議長は、「203票の3分の2は“135.3333…”であり、人を小数点以下まで分けることは出来ないから、四捨五入の論理によって、135票を得た改憲案は可決されたと見なすべきである」として改憲案の可決を宣言した(四捨五入改憲)。

1956年、80歳を過ぎた李が三選を狙った大統領選挙に際して、民国党を中心とする野党勢力は「やってられない、(政権を)変えてみよう」をスローガンに統一戦線を組み、「民主党」を結成した。一方、自由党は「替えても変わらにゃ、長老(李大統領)がマシ」というスローガンで対抗した。

民主党は大統領候補に申翼煕、副大統領候補に張勉、自由党は大統領候補に李承晩、副大統領候補に李起鵬という布陣だった。

選挙直前の5月5日、民主党の大統領候補・申翼煕が遊説に向う途中の列車の中で脳溢血で倒れ、急死するというトラブルがあり、民主党は副大統領候補だけの選挙を余儀なくされた。官憲の介入もあり、選挙の結果、李承晩は大統領三選を果たしたが、副大統領の李起鵬は民主党の張勉に敗北。大統領が与党、副大統領が野党という一種のねじれ現象が起きた(1956年大韓民国大統領選挙を参照)。

高齢の李承晩に万一の事態が起これば副大統領の民主党の張勉が繰り上げて大統領になる上に、次の大統領選で李が当選するかさえも怪しくなり自由党は危機感を抱いた。同年9月28日には退役軍人による張勉副大統領暗殺未遂事件[注釈 10]を起こし、1959年4月30日には張勉系の野党紙『京郷新聞』を廃刊処分させ、同年7月には前年に進歩党事件で逮捕[注釈 11]した曺奉岩進歩党党首を処刑[52]するなど、李は徹底的な政敵潰しを行った。

李は25歳年下のフランチェスカ夫人との間に実子がいなかったため、遠縁にあたる側近で副大統領候補でもあった李起鵬の長男・李康石(イ・ガンソク)を子に迎えた。康石は1957年ソウル大学校に入学をするが、その入学が特恵措置によるものであったことから騒動となった。しかし承晩の独裁下では批判が出来ようもなく、案の定「独裁者の息子」はたびたび問題を起こし[注釈 12]、朝鮮日報社『韓国現代史119事件』ではこう記されている。

1957年8月、9月は李承晩政権の絶頂期。李康石は街の無法者となり、警察官を殴ったり、派出所の器物を壊して歩いても、誰も告発したり、処罰するものはいなかった。

この風潮に便乗する格好で、1957年8月末に姜聖柄という22歳の男が康石になりすまし、「父から密命で公務員の不正を調べている」と地方の道知事や警察署長などを騙し、厚い接待を受けたり金品を要求するという事件を起こした。事件発覚後、慶州知事の「貴いお方が一人でいらっしゃったのだから」という発言が取り沙汰され、かねてからの康石への無法への反感や政権への不満感から「貴いお方」という言い回しが流行語となった[注釈 13]

1959年12月4日には、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の南日外相の呼び掛けに応じた日本政府による在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するために、李承晩政権は密かに日本に民団所属の在日韓国人と協力して、「北韓帰還阻止工作員」を送り込んで新潟日赤センター爆破未遂事件を引き起こした。

四月革命による失脚

[編集]
李承晩大統領の独裁政治に対して蜂起する大韓民国市民(1960年4月19日)。この四月革命 (韓国)によって李政権は打倒された。
ハワイへと亡命する李承晩(左から二人目)
左側に過渡政権首班・許政

1960年、李承晩が四選を狙った大統領選挙に際して、野党の大統領候補・趙炳玉がアメリカで病気療養が長引いている(同年2月に客死)ことを見計らって李は選挙期間を早めた。野党は「悲しみをおさめ、また戦場へ」をスローガンで国民に同情を訴えたが、与党は「ケチつけるな、建設だ」というスローガンで対抗した。

この選挙では与党の不正工作は前回の大統領選挙よりも徹底された。腹心の李起鵬の副大統領の当選を確実にするために公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作・不正投票などが横行した(1960年大韓民国大統領選挙を参照)。

1960年3月15日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、特に不正が酷かった慶尚南道馬山では民主党馬山支部が「選挙放棄」を宣言。それは即座に不正選挙を糾弾するデモへと発展し、これに市民も参加。「デモは共産党主義者の扇動」を主張する当局がデモ隊に発砲し、8人死亡50人以上が怪我という惨事になった。

同年4月11日、このデモを見物に行きそのまま行方不明になっていた高校生・金朱烈が、馬山の海岸で頭に催涙弾を打ち込まれた状態で遺体で発見された。市民・学生などは、当局に彼の死因を究明する要求を掲げ、再度デモを行ったが、当局は再び「デモは共産党主義者の扇動」とこれを鎮圧し、デモの主導者を逮捕した(馬山事件)。

馬山事件に抗議するデモは瞬く間に韓国中に飛び火し、4月18日には高麗大学ソウル市立大学の学生が国会前で座り込み(帰宅途中に暴漢に襲われ、多数の負傷者が出た)、翌4月19日にはソウルで数万人規模のデモが行われた。各主要都市でも学生と警察隊が衝突し、186人の死者を出した(4・19学生革命)。

同年4月20日ウォルター・パトリック・マカナギー駐韓アメリカ大使英語版が景武台を訪れ、「民衆の正当な不満に応えないのなら、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領の訪韓を中止し、対韓経済援助を再考する。一時しのぎは許されない」と、李承晩に対して事実上の最後通牒を突きつけ、頼みの綱だったアメリカにまで見放された形となる。4月23日には「行政責任者の地位を去り、元首の地位だけにとどまる」と完全に地位から退くことを否定する発言をし、民衆の怒りは最高潮に達する。

政府は各主要都市に非常戒厳令を布告した。デモは約1週間続き、同年4月25日には、ソウル大学を中心とした全国27大学の教授団が呼びかけた「李承晩退陣」を要求する抗議デモが発生、ソウル市民3万人が立ち上がり、韓国全土に一気に退陣要求の声が広がった。このとき、学生代表5名と会見した李は「若者が不正を見て立ち上がらなければ亡国だ。本当に不正選挙ならば君たちの行動は正しい。私は辞職しなければならぬ。」と語り、覚悟のほどを示した(金大中『私の自叙伝』)。翌4月26日には、パゴダ公園にある李の銅像が引き倒され、腹心である李起鵬副大統領の邸宅が襲撃される事態にまで発展。国会でも大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択された。このことを受けて午前中に、承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、漸く下野した。建国以来12年間続いた独裁体制はようやく崩壊することになった。2日後の4月28日に、養子の李康石が一家心中を図って李起鵬一家(実父母と実弟)を射殺、自らも命を絶った。

李承晩は1960年5月29日早朝に妻とともに、金浦空港から民航空運公司(CAT)の専用機でアメリカ・ハワイ亡命した。韓国で李の見送りに訪れたのは、大統領代行となった許政外務部長官だけだった。

1965年7月19日、李はハワイの養老施設で90年の生涯に幕を閉じた。臨終に立ち会ったのは妻のフランチェスカ・ドナーと養子であった[53]。フランチェスカは承晩の没後、故郷であるオーストリアを経て1970年5月16日に韓国へ戻り、1992年3月19日にソウルにおいて92歳で死去している。

経済政策

[編集]

韓国併合時代に日本が建設した重化学工業施設の多くは鉱物資源が比較的豊富な半島北部に集中し、他方南部に於いてはその多くが農地と山林で占められ、日本が建設した社会インフラ(港湾や橋・交通網)が整備されたとはいえ工業施設は繊維産業などの軽工業が中心だった。このため建国直後の韓国は非常に困難なスタートを余儀なくされ経済力では北よりも劣悪だったにもかかわらず、反共政策が優先される中で経済振興策は等閑にされていた。そこに朝鮮戦争が追い討ちをかける格好となり、工場建物の44%、機械施設の42%、発電設備の80%が被害を受けるなど農地の荒廃や工場施設や社会インフラの破壊を招いた[54]

朝鮮戦争の休戦を同意(署名は最後まで拒否)するにあたり李承晩はアメリカからの経済支援を要求し、朝鮮戦争休戦後の1953年10月1日米韓相互防衛条約が署名されたことを契機としてアメリカからの多大な経済支援が始まった。自給できる資源が全く存在しない中ではアメリカの経済支援を原資とする「三白産業」(製粉製糖紡績)が主要産業となり、「実需要者制」に従い援助物資が割り当てられる建前だった。しかし実需要者の中でも政治力のある業者団体が独占的に配分を仕切り、しかもその中でも圧倒的な財力を誇る財閥系の企業が独占的に買い取ることが常となった。加えて実勢レートに比して公定為替レートでドルが過小評価(つまりウォンの過大評価)されたばかりか低金利政策によって、政権と癒着した財閥が多大な利益を得ることとなる。

こうした手厚い保護を受けた財閥系の企業による「三白産業」は圧倒的な速度で工業化し1957年には経済成長率は8.7%に達したものの、政権末期になると過剰設備投資が顕在化し加えて援助の削減から深刻な不況が起きた。また商工業が盛んになったのとは裏腹に、農業政策はほぼ無策に等しかった。インフレ抑制の一環として(なおかつ「三白産業」の発展を利することもあって)米価は低価格に抑えられたものの、結果として農業従事者の収入の低下・不安定化を招き、春窮農民が増大化することになった。李承晩政権の末期には、春窮農民が農業従事者の半数に達した[要出典]。こうした経済政策の無策もあって、1961年朴正煕政権成立まで一人当たりのGNPも80ドル前後に止まる事となる。ただし、韓国経済が解放・分断・戦争の過程を経て、1953年から1955年における一人当たりの実質所得がほぼ1910年代の水準にまで後退し、これが1940年代のレベルにまで回復するのは1965年を待たねばならなかったという状況を留意する必要がある[55]。李承晩政権期から朴正煕政権期の1970年前後まで、南側の大韓民国よりも北側の朝鮮民主主義人民共和国の方が経済的な体力では勝っていたのである。ただし、そのような状況は、あくまで北朝鮮が日本から受け取った物質的な遺産が豊富だったからだともいわれる。例えば1930年代後半から推進された軍需工業化の結果、解放後の1946年当時、北朝鮮ではおよそ800か所以上の大規模工場が稼働中であり、製鉄精錬電気化学など、当時世界の先端レベルの工場群が存在した。1939年以降に日本からもたらされた電気・化学工業の大規模工場は、従業員数が3000、あるいは6000を超える場合もあり、現在確認されたものだけでも200か所を超える。北朝鮮に敷かれた鉄道網は一人当たりの鉄道の長さでは日本内地より高い水準にあった。一人当たりの発電量も、北朝鮮では日本を凌駕するレベルであった。反面、南朝鮮が日本から引き継いだ物質的な遺産は貧弱だった。南朝鮮で最も大きな産業は米穀の輸出であった。工業施設は醸造所・精米所のような食品加工業か、印刷業・陶磁器業のようなものがほとんどであった[56]

このような経済状況を反映してか当時の韓国では砂糖が大変な高級品とされており、外国人記者団との会談の最中にコーヒーと角砂糖が差し出され、外国人記者達が自国で行っている通りに複数の角砂糖をコーヒーの中に入れている光景を目の当たりにして、「貴方たちの国ではコーヒーの中に砂糖を入れるようだが、私たちの国では砂糖の中にコーヒーを入れる」と自虐的とも取れる冗談を発言したことがある[57]

日本からの多額の無償援助や借款による急速な経済発展を達成した朴正煕と比べて経済の停滞を解消できなかったとして韓国内での評価はきわめて低く、「漢江の奇跡」に象徴される躍進の1960年代とは対照的に、停滞の1950年代と捉えられることが多い[注釈 14]

評価

[編集]

肯定的評価

[編集]

独立運動家

[編集]

張勉は、「李博士の下で約1年間国務総理として仕えた私から見た彼は、長所も多く短所も多かった。しかし、その愛国心には疑う余地がなかった。一生を独立運動に捧げた功績がそれを十分に物語っている。特に対外的には、確固たる反共姿勢、毅然とした対日態度、大胆な反共捕虜釈放などは、李博士の決断力なくしては成し得なかった。独立主権意識の徹底した実践もまた敬服すべき偉大さであった」と評価した。[58][59]

許政は、「不正選挙に抗議する4・19革命の怒涛が都を覆ったとき、彼は初めて民意の所在を正確に把握し、『不正を見て立ち上がらない国民は死んだも同然だ』として潔く権力の座から退いた」とし、「若い学生たちの愛国的気概を称賛し、国民が望むなら辞任するとして自ら大統領職を投げ出して下野したことは、李承晩でなければできない決断であった」と評した。[60] また、「我々は彼の最期の姿だけを見てその全体を評価してはならない。南韓単独政府樹立によって朝鮮半島全体の赤化を防いだ彼の知略と決断だけでも、雩南は韓国現代政治史に大きな功績を残した」と評価した。[61]

農地改革法施行

[編集]

農地改革法は、日本統治時代以来の封建的な地主・小作関係を、自作農中心の社会へ転換させた革命的契機として評価される。これにより産業資本主義の発展を阻害していた旧来的要素が消滅し、地主に代わって資本家が新たな経済主体として台頭した。

また、自らの土地を耕作するようになった農家からは高い教育水準を備えた将来の労働者層が輩出されたとされる。さらに、朝鮮戦争中に南韓への共産主義浸透を防止する役割を果たしたとも評価されている。農地改革によって土地所有意識を持った農民が増加したことで、朝鮮民主主義人民共和国金日成・朴憲永らが主張した「100万蜂起説」が無意味となったという見解がある。金一栄教授は「農地を得た農民は李承晩の支持基盤であると同時に、大韓民国という国家の構成員として包摂された」とし、「大韓民国国民というアイデンティティ形成の第一の契機が農地改革であった」と主張した。[62]

2020年時点において、米韓相互防衛条約は成功した政策と評価されている。これは第二の朝鮮戦争が発生していないためであり、条約最大の目的であった戦争抑止を達成したとされる。

また、国防負担を米軍が一定程度担うことで、大韓民国は経済開発に注力できたという意義も指摘される。これにより、産業化と「漢江の奇跡」を可能にし、北朝鮮との体制競争において優位に立つ基盤を形成したと評価される。

さらに、常時戦争再発の危険が存在する朝鮮半島において「米国が戦争を防止する」という安定感を与え、いわゆる「コリア・ディスカウント」を抑制して海外投資資金の安定的誘致に寄与したとの評価もある。

一方、北朝鮮側から見れば、これは赤化統一を挫折させた根本要因ともみなされている。

反共捕虜釈放事件に関連して李承晩排除作戦(エヴァレディ作戦)の命令を受けたマーク・W・クラーク国連軍司令官は回顧録で次のように評価した。

李承晩は強固な反共闘争を通じてのみならず、時にはアメリカに対しても臆することなく自己の主張を展開し、決して卑屈ではなかった。彼は共産主義者らが主張するような傀儡指導者では決してなかった。彼はアジア人であった。そして強力な指導者であり、彼には輝きがあった。要するに彼は「アジアの星」であった。私は今なお韓国の愛国者李承晩を世界で最も偉大な反共指導者として尊敬している。[63]

大統領直接選挙制導入

[編集]

発粋改憲案可決の過程には無理があったものの、国民が自らの代表を直接選出する大統領直接選挙制を初めて導入したとの評価がある。ただし、前回総選挙で野党が多数党となっていた状況下では、これを任期延長のための改憲とみなす見解もあり、肯定的評価には慎重論も存在する。

1952年7月4日、発粋改憲案反対議員の一部が国会欠席を宣言する中、軍警は武力衝突に備えて国会議事堂を包囲した。議員総数210議席中166名が出席し、起立採決の結果、賛成163票・反対0票・棄権3票で可決され、同年7月7日に公布された。

自由民主主義者

[編集]

1991年の『韓国論壇』とのインタビューで尹致暎は、「我々は巨視的な次元で李博士を評価すべきである。彼は生涯を独立闘争に捧げた人物であり、民主主義を最も信奉した人物であった」と評した。[64]

Students for Liberty韓国支部代表の全桂雲は、李承晩大統領が民族主義を抱きつつ自由民主制度による大韓民国の繁栄を夢見たと評価し、自由主義の核心価値である経済的自由の保障によって韓国は目覚ましい繁栄を成し遂げたと述べた。[65]

識字率向上と初等義務教育導入

[編集]

文盲撲滅および国民学校義務教育を実施したことにより、韓国近現代教育史に画期をなしたとの評価がある。

1954年から識字教育政策および文盲撲滅5か年事業を推進し、文盲率を1945年の78%から1958年の4.1%へと大幅に低下させた[66]

また1954年からは就学率を70%水準から95%以上へ引き上げるため、「初等義務教育完成6か年計画」を実施し、教育予算の約80%を義務教育費に配分した。総学齢児童の就学率は1957年に90%を超え、1959年には96%目標を達成した[67]

プロテスタント普及

[編集]

李承晩は、解放直後の1945 年11 月にはソウルの教会で「キリストの上にこの国を建てよう」と述べ、力初代大統領の就任にあたっては職務に最善を尽くすことを「神と同胞の前で」と述べて宣誓するほど、キリスト教信者であることを積極的に表明する熱心な信者であった[68]

歴史学者の李周永は、李承晩を尹致昊とともに、この1世紀における韓国史の中でプロテスタントと文明開化の結びつきを最も明確に示した代表的人物と評価した。

李周永は「李承晩大統領は在任期間中に計135名の長官および長官級部処長を任命したが、そのうちキリスト教徒は47.7%に達した」とし、さらに「軍隊および監獄へのキリスト教普及のため、軍牧制度および刑務所牧師制度を導入した」と述べた。

また、社会全般の未成熟ゆえに最終的には失敗に終わったものの、個人の平等を前提とする自由選挙制度の確立にも多大な努力を払ったと付言した。[69]

否定的評価

[編集]

権力主義者的性向

[編集]

プロテスタントのクリスチャンであったが、彼の信仰は多分に土着信仰や封建的な家父長主義の影響を受けていた。また、独善的な権力亡者で、そのため政権は過酷な弾圧も厭わない強い反共・独裁的な性格を持ち、李は長期政権に執着した。政権は国内の民主派勢力と鋭く対立、その一方で、とくに38度線以北から逃れてきたキリスト教徒らは何があろうとも李を無条件に支持する傾向があった[68]

親日派登用

[編集]

済州島四・三事件麗水・順天事件、反民特委襲撃事件、張勉副大統領暗殺未遂事件などの背後には親日警察が存在したとされる。盧徳述、李九範、崔雲夏らは日本統治時代から拷問によって出世した人物であり、彼らは「反共」を利用して国民に恐怖を植え付けたとされる。当時は親日行為の清算を主張すると共産主義者として糾弾されやすい状況にあり、李承晩自身も親日派清算論を共産党と結びつける趣旨の発言を行った。[70]

歴史学者韓永愚は、「このような李承晩の親日派包容は民族文化の正常な発展を阻害し、大韓民国の正統性を弱化させる要因として残った」と評価した。[71]

各種民間人被害への責任

[編集]

多くの歴史学者は、済州島四・三事件および麗水・順天事件鎮圧過程で発生した大規模民間人被害について、大統領李承晩の責任を指摘している。また、朝鮮戦争期の漢江人道橋爆破事件保導連盟事件国民防衛軍事件居昌良民虐殺事件などに伴う民間人被害についても、その政治的責任が論じられている。

1960年の四月革命では、初等学生らも参加したデモ行進に対して警察が発砲し、多数の児童・生徒が景武台前で死亡した。[72]

国家保安法濫用

[編集]

1948年の麗水・順天事件発生を契機として、「国家の安全と国民の生存および自由を確保する」との名目で国家保安法が制定された。しかし、その法体系は日本統治時代に独立運動家弾圧のため制定された治安維持法を母体としたものと批判されている。

1949年、李承晩が反民特委解体を図った際、国家保安法制定に強く反対していた盧一煥議員ら少壮派議員13名を、いわゆる国会フラクチ事件によって逮捕した。また、1949年1年間で国家保安法違反により拘束された者は12万人を超えたとされる。

長期執権のための改憲

[編集]

1954年四捨五入改憲については、その目的が国益よりも李承晩および自由党の権力維持にあったとの批判が存在する。

当時、改憲案採決結果に対する議長または司会者の議事宣言を覆すには法的根拠と適法手続が必要であったが、自由党はそうした手続を経ず、議決定足数算定において135と3分の1を違法に四捨五入して135と解釈し、改憲案可決を宣言した。このため第2次改憲は「四捨五入改憲」との汚名を残した。

言論弾圧

[編集]

1955年の「東亜日報傀儡五識事件」「大邱毎日新聞襲撃事件」、1958年の「景武台糞壺事件」「咸錫憲筆禍事件」[73]1959年の「京郷新聞廃刊事件」など、一連の事件を通じた言論弾圧について批判されている。

不正選挙の責任

[編集]

1958年1月1日、自由党民主党は協商選挙法を可決させた。同法の言論規制条項には違憲論争が存在したが、民主党がこれを黙認したことで成立した。[74]

この言論規制条項の導入は、自由党による本格的な不正選挙計画を可能にする基盤となり、言論および国民の基本権制約を招いたと評価される。自由党と民主党は同法に基づき実施された大韓民国第4代民議院議員選挙において圧倒的議席を獲得し、無所属・小政党は大きな打撃を受けた。[74]

その後、自由党は李起鵬を副大統領に当選させるため1960年3・15不正選挙を実行し、これに対する道義的責任を負った李承晩は最終的に下野した。

外交力評価

[編集]

対米関係

[編集]

李承晩はアメリカを不信しつつも、強力な同盟相手として位置づけていた。李承晩は大韓帝国時代に密使として派遣された経験や、1905年桂・タフト協定によりアメリカが日本の朝鮮支配を黙認したと認識したことから、アメリカの対韓政策に対して強い不信感を抱いていた。

また、1940年代においても、大韓民国臨時政府承認を遅延・回避したアメリカへの不信は継続していた。さらに李承晩は、朝鮮戦争勃発の一因として1949年在韓米軍撤退を挙げていた。

対日関係

[編集]

日本に対する外交政策は、一貫して反日路線と警戒を基調とした。[75]

1951年1月12日、李承晩はマシュー・リッジウェイ将軍に対し韓国軍武装を要請する中で、次のように述べた。[76]

リッジウェイ将軍、なぜ貴殿は戦う準備を整え訓練された韓国青年を武装させないのですか。なぜ50万の韓国青年を共産党と戦えるよう武装させないのですか。なぜ貴殿は韓国青年を押しのけ、その代わりに日本武装させて再び列強にしようとするのですか。

我々の苦い経験はこうです。我々は日本人ロシア戦えるようこの地を通過させたが、彼らは決して去らなかった。むしろアメリカの助けを得て朝鮮に居座り、40年間この半島を占領した。

まさに貴国アメリカが1905年にロシアと戦わせるため日本の軍備を増強させたのです。そして第二次世界大戦中にはそのロシアに日本と戦わせるため軍備を増強した。今また日本の軍備を増強しようとしている。

あなた方はいつも韓国がアジアの要衝であるという事実を正しく見ず、二大勢力がそのため戦争に巻き込まれたことを理解していないのです。

もし貴国が我々の青年を訓練し武装させるなら、決して後悔することはないでしょう。

このように李承晩の強硬な反日姿勢は、韓国が列強間に位置する地政学的環境の中で、強力な国家となることでのみ東アジアの平和が維持されるという軍事地政学的信念に基づくものと解されている。

1952年、李承晩政権は海洋主権に関する大統領宣言を行い、「李承晩ライン」と呼ばれる海洋境界線を設定した。

戦後、GHQは日本の漁業活動範囲を制限する「マッカーサー・ライン」を設定していたが、1951年のサンフランシスコ講和条約締結過程を経て、日本の主権回復に伴い同措置は終了した。

李承晩ラインは、国際的な海洋法制度(後の国連海洋法条約排他的経済水域制度)が整備される以前に、韓国政府が独自に設定したものであり、漁業資源の確保や海洋管理を目的とした措置とされる。

この設定により、当時「公海」とみなされていた海域を含む範囲で韓国側が日本漁船を拿捕する事例が発生した。日韓国交正常化(日韓基本条約締結)までの期間において、複数の日本漁船および乗組員が韓国側により拘束されたとされる。

李承晩ラインの設定は、竹島(独島)を含む海域の管轄問題とも関連し、現在まで日韓間の領有権問題の一つとなっている。

その後の日韓関係では、在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業(北送事業)を巡り通商関係の中断が発生した時期があり、関連して両国間の対立が続いた。これに関連する事件や工作活動については複数の報道が存在する[77]

晩年にハワイへ事実上追放された後も、対日関係改善を通じた経済開発を志向した朴正熙政権にとって負担となり、帰国が許可されなかったほど、その反日姿勢を維持した。

一方で、日本に代表部を派遣して連絡を維持しており、これは李承晩退陣後に在日韓国大使館へ昇格した。

また、朝鮮戦争中にアメリカ側が日本軍参加を検討した際には、李承晩は駐韓米国大使に対し「日本軍が介入すればまず日本軍から追放する」と述べ、日本軍参戦を断念させた。

さらに1954年3月27日には国内流通中の日本製品没収を指示し、1955年6月20日には日本製品優遇輸入禁止令を発した。加えて、日本人と会談したことを理由に国務総理張沢相を解任した。

対アジア関係

[編集]

大韓民国臨時政府を支援した中華民国とは友好関係を維持した。蔣介石を訪問して会談を行い、訪韓した蔣介石に建国勲章を授与したこともある。

また、ベトナム共和国(南ベトナム)のゴ・ディン・ジエムとも友好関係を構築し、訪韓時には建国勲章大韓民国章を授与した。

一方、インドネルーとは関係が悪く、ネルーは李承晩に否定的であった。ネルーは1949年大韓民国政府承認に反対する立場を取ったが、韓国政府代表団の趙炳玉の説得により反対から棄権へと態度を変更した。

同時代人物による評価

[編集]

徐載弼の評価

[編集]

徐載弼は、1949年に李承晩の英文伝記を執筆中であったロバート・T・オリバーの要請に応じて送った「李博士に対する私の印象(My Impressions of Dr. Rhee)」と題する文書において、李承晩について次のように評価した。[78][79]

……祖国独立のための彼の執念と不屈の献身的努力は、彼が韓国のために行った奉仕の中で最も際立っている。1948年、大韓民国国会は長年にわたり最悪の条件下で民族のために献身した彼の労苦を認め、韓国史上初の民主政府の大統領に選出した。

私は李博士以外にこの栄誉によりふさわしい人物を知らない。私は彼が大統領職を成功裏に遂行することを望み、またその資格を備えていると考える。彼の前途に横たわる課題は険しく、その遂行に必要な制度・設備は未整備である。私は韓国を愛するすべての者がこの時点で彼とその補佐官たちを過酷に批判したり根拠なく中傷したりせず、同情と激励を与えることを望む。

私は李博士を韓国史上最も傑出した人物の一人と考える。彼は祖国のために多くの苦難を経験した。しかし今や生涯の目標を達成した以上、残る余生を喜びのうちに過ごしてほしい。

許政の評価

[編集]

許政によれば、李承晩は非常に頭脳明晰な人物であった。[80]:229

一方で、自身を極めて高く評価し、韓国人の中に自分と対等に渡り合える者はいないと考えていたという。誰であれ自分に服従し従う者は同志と見なし、それ以外の者は敵と見なしたとされる。また許政は、李承晩について「非常に短気で人と争いやすく、主要政治問題に対して極めて頑固であった」と評している。[80]:229

さらに許政は、「彼が政党の指導者ではなく国民の立場に立つ超党的指導者として、未熟な韓国政党を公平に育成し、平和的政権交代の基盤を築けなかった点、また政権移譲によって民主的伝統を確立できなかった点は彼の過失である」と指摘した。[61][81]

他方で、「理にかなった意見であれば誰の言葉でも受け入れる淡泊な面があった」とも述べている。[82]

また、許政によれば、李承晩は普段年下相手にも敬語を用い、来客時には必ず立って迎えたという。さらに「不正や虚偽を見れば肉親であっても容赦しなかった一方、正しいことであれば子供の言葉にも耳を傾けた」と述べている。[82]

一方で、「誰かの不正を告げ口されると、事実確認前にまず処分することが少なくなかった」とも回想している。[83]

さらに許政は、李承晩が非常にユーモアに富んだ人物であったとし、「気分が良い時には春風のように柔らかく、冗談を連発した」と述べている。[84]

一方で、「主権在民を掲げながらもカリスマ的に君臨しようとする態度があった」とし、民主主義理念を実現する方向で周囲が支えていれば「韓国のジョージ・ワシントンにもなり得た」と評した。[85]

また、「彼の有名な頑固さは韓国史に少なからぬ貢献をしたが、その悪い側面は晩年の不運を招いた」と述べ、「もし自由党を真の民主政党として育成し、合憲的政権交代の先例を残していれば、国父として崇敬されていたであろう」と評した。[86]

張勉の評価

[編集]

張勉は、「李博士の愛国心には疑いの余地がなく、生涯を独立運動に捧げた功績は十分に評価されるべきである。特に反共姿勢、対日強硬姿勢、反共捕虜釈放などは彼ならではの決断であった」と評価した。[58][59]

一方で、「過剰な自尊心ゆえに自分以外に国家を統治できる人物はいないと考えたかのようであり、その政治的個性は独裁的印象を与えた。政敵を容赦せず、高度な策略や残忍さを見せることもあった」と批判した。[59]

申翼熙の評価

[編集]

申翼熙は、李承晩について独立運動時代の感覚を捨てきれず、場当たり的計算で政治を行う人物と評価した。

李承晩の大統領当選直後、申翼熙は閣僚人事権限の委譲を進言したが、李承晩は「信じられる者が誰にいるというのか」と答え、末端職員に至るまで自ら関与しなければならないと述べた。[87]

これを受け申翼熙は、李承晩がなおハワイ時代の小規模組織運営感覚から脱していないとして、今後の政治運営に懸念を示した。

ハッジの評価

[編集]

ジョン・ハッジは、1946年6月23日に政治顧問ミラード・グッドフェローへ送った書簡の中で、李承晩を「老いた悪党(old rascal)」と表現した[88]

その他

[編集]

朴容万は「李承晩と金九は民族の双璧であり、民族陣営人士は両指導者の下で大きな安心感と信頼を抱いていた」と評価した。[89]

張沢相は李承晩の欠点について「まず行動し、後から考える人物であった」と評した。[90]

金泳三は李承晩を当時最も現実的な指導者と評価しつつ、建国の功績を認めながらも、四捨五入改憲以降に誤りが始まったと述べた。[91][92]

また、「李博士は高齢で記憶力が衰えていたように見え、側近の補佐も不十分であり、李起鵬にも権力欲があった」と評価した。[92]

日本語著書

[編集]
  • 李承晩 著、中村慶守 訳『私の日本観』産業貿易新聞社、1956年11月15日。NDLJP:2981300 
  • 李承晩 著、金永林 訳『「独立精神」』原書房、2024年2月26日。ISBN 978-4-562-07398-6 

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. これは朝鮮王位(韓国皇帝位)継承権を持つ傍系王族の一人であることを意味する。
  2. 後に内部対立で弾劾されてアメリカに渡った。
  3. この時期の朝鮮では最大の朝鮮人資本であり、京城紡織を中心に戦前既に満州への進出を果している。東亜日報高麗大学校なども系列下。
  4. 韓民党の臨政との決裂から李承晩への接近に至る過程は木村幹、『韓国における「権威主義的」体制の成立-李承晩政権の成立』 ミネルヴァ書房、2003、第2章第4節に詳しい。
  5. 朝鮮建国準備委員会」のリーダー呂運亨は左右両翼による統一戦線の維持に腐心し、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁左派・共産主義者の排除を意図していることを意識して、自らは中道派として振る舞い、「建準」の路線も中道へと切り替えようとした。
  6. 大日本帝国統治下官僚は、現在の韓国でいう「親日派」に該当する
  7. それ以前にも、1948年10月19日1950年2月16日の二度にわたって、非公式に日本を訪問している。
  8. 吉田茂の著書『回想十年』等では、出ていないが、「世界で最も嫌いな人物が3人いる。スカルノインドネシア大統領)、河野一郎(ライバルの党人派政治家)、李承晩だ」と近くにいた人物に述べたとされる。[要出典]
  9. 同じ捕虜の解放とは言え、「送還」だと韓国が自らの責任を持って捕虜を北へ帰還させるのに対し、「釈放」だと捕虜の本国への帰還が義務化されない[要出典]李としては北の体制に否定的だった捕虜は自国内に止めて支持基盤に加えたかったと言われている。[要出典]
  10. 李承晩政権崩壊後に政権上層部が関与を認めている。
  11. 1958年1月に国家保安法違反容疑で逮捕、後にスパイ容疑に切り換え。
  12. この後の大統領である朴正煕の息子もまた問題の多い人物だったが、朴自身は敢えて息子でも特別扱いすることはなかったばかりか親類を首都ソウルに住まわせることを禁じたくらいである。
  13. 風刺4コマ漫画家の金星煥は連載中の『コバウ令監』で「景武台の住人が貴いお方だったら、糞尿を運ぶ人も貴いお方」と揶揄したことから、当局に4日間拘留され国家元首侮辱罪で罰金450ファンを払わされる事になった。
  14. 1950年代と1960年代の断絶のみならず連続性の観点から、経済面での李承晩を再評価する機運が1990年代から徐々に高まってもいるが、それは李承晩が始めた反日政策を評価することにとどまっている。- 李鍾元『東アジア冷戦と韓米日関係』(東京大学出版会、1996年。金三洙『韓国資本主義国家の成立過程 1945-53年 政治体制・労働運動・労働政策』東京大学出版会、1993年。木村幹、前掲書[要文献特定詳細情報]

出典

[編集]
  1. Lee Wha Rang (2000年2月22日). Who Was Rhee Syngman?”. 2007年12月1日閲覧。
  2. 木村 2008, p. 16.
  3. “내 국적은 일본” 이승만 美체류시절 자필 국적표기 충격 등록 일시 [2013-10-05 10:02:32]이승만, 《뭉치면 살고》 (조선일보사, 1995) 63페이지
  4. 池(2002a:29)
  5. 1 2 3 4 5 木村 2001, p. 2.
  6. 1 2 ニューヨーク朝鮮日報 2013-10-05 10:02:32 私の国籍は日本「李承晩美滞在時代手書き国籍表記衝撃
  7. 木村 2008, p. 18.
  8. Oliver, Robert T "Syngman Rhee: The man Behind the Myth" P.111
  9. 1 2 3 木村 2001, p. 3.
  10. ハルバースタム(2009) p.101
  11. 1 2 3 4 木村 2001, p. 4.
  12. 1 2 木村 2001, p. 5.
  13. キム・ソンヒョン記者 (2015年5月26日). “独立運動を記録、李承晩英文日記を完訳”. 朝鮮日報 2015年6月2日閲覧。
  14. ハルバースタム(2009) p.104
  15. 木村 2001, p. 8.
  16. 「新しい国の民族主義は欧米の宗教的基準を満たすものでなくてはならなかった」ハルバースタム(2009) p.104
  17. 木村 2001, p. 6.
  18. 池(2002a:33)
  19. 池(2002a:35-36)
  20. “Truth commission confirms Korean War killings by soldiers and police” (英語). ハンギョレ. (2009年3月3日) 2010年1月24日閲覧。
  21. 国定教科書の「1948年建国」は抗日・臨時政府の否定ハンギョレ2015年11月9日付記事)]
  22. 田中 (2011:9)
  23. 親日反民族行為者財産調査委員会が発足”. 朝鮮日報 (2006年7月14日). 2007年5月2日閲覧。
  24. 盧大統領「親日派の財産調査は遅かったが幸いだ」”. 聯合ニュース (2006年7月13日). 2007年5月2日閲覧。
  25. 尹 (2004: 138-139)
  26. 1 2 http://ironna.jp/article/2232
  27. 木村幹、前掲書[要文献特定詳細情報]、p.118。
  28. 池 (2002a: 38)
  29. “西北青年団”再建の波紋、極右団体の復活に知性はどう対処すべきか(ハンギョレ 2014年9月29日)
  30. 朝鮮戦争の発生一年前 李承晩(元韓国大統領)が「北」信仰論 米は懸命に引き留め『朝日新聞』1977年(昭和52年)4月18日朝刊、13版、7面
  31. 毎日新聞 1983年6月6日 朝鮮半島・分断と統一 (2)国際戦争へ拡大
  32. 「韓国戦争〈第1巻〉人民軍の南侵と国連軍の遅滞作戦」韓国国防軍史研究所編(2000)
  33. ハルバースタム(2009)
  34. 「陸戦史集1」陸戦史研究普及会(1970)
  35. ハンギョレ 2014-05-20 20:47 チョン・モンジュン、6・25の時に逃亡した李承晩「大きな失敗だが…」
  36. 木村 2008, pp. 47, 64–66.
  37. 庄司潤一郎「朝鮮戦争と日本の対応:山口県を事例として」(PDF)『防衛研究所紀要』第8巻第3号、東京 : 防衛省防衛研究所、2006年3月、45頁、CRID 1522543655077024384ISSN 1344-1116国立国会図書館書誌ID:7930383
  38. 田中 (2011: 37)
  39. 田中 (2011: 56-66)
  40. 田中 (2011: 70-73)
  41. 田中 (2011: 70-75)
  42. 田中(2011:73-79)
  43. 田中 (2011: 79-81, 86-87)
  44. 田中 (2011: 82-85)
  45. 田中 (2011: 85-88)
  46. 田中 (2011: 88-91)
  47. 田中 (2011: 91-95)
  48. http://www.ocr.org.uk/Images/64359-question-paper-unit-f964-02-european-and-world-history-enquiries-option-b-modern-1774-1975.pdf f964-02 European And World History Enquiries Option:B Modern 1774-1975 11頁 Source:D より抄訳
  49. 木村幹、前掲書[要文献特定詳細情報]、第3章第5節。
  50. 関係者が暴露した「進歩党ねつ造事件」 民族時報 第893号
  51. http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir
    /2015/07/18/2015071800604.html
  52. p282 大韓民国の物語 李榮薫永島広紀文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101
  53. p314 大韓民国の物語 李榮薫永島広紀文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101
  54. p181~p182 大韓民国の物語 李榮薫永島広紀文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101
  55. 尹浩根『恨半島 : ある外交官の生き方』エネルギーフォーラム、2002年。ISBN 4885552699国立国会図書館書誌ID:000003979358
  56. 1 2 張勉, 『한알의 밀이 죽지 않고는』 (가톨릭출판사, 1999) 41ページ
  57. 1 2 3 張勉, 『한알의 밀이 죽지 않고는』 (가톨릭출판사, 1999) 42ページ
  58. 許政, 『내일을 위한 증언』 (샘터사, 1979) 240ページ
  59. 1 2 許政, 『내일을 위한 증언』 (샘터사, 1979) 236ページ
  60. [建国60周年 農地改革…土地を得た農民、「大韓民国国民」というアイデンティティも獲得]”. 2020年9月10日閲覧。
  61. Gen. Mark Wayne Clark (1954). From the Danube to the Yalu
  62. 韓国論壇 1991年9月号 (韓国論壇, 1991) p.73
  63. 이승만은 친미파가 아니라 미국과 투쟁했다”. 미디어펜 (2015年3月27日). 2026年5月5日閲覧。
  64. 글자 알아도 글 못 읽는 아이러니…'문맹률 제로' 신화 깨야”. 뉴스1 (2016年10月8日). 2026年5月5日閲覧。
  65. 한 눈에 보는 무상교육 역사…고교 무상교육 현실화 가능한가 [一目で見る無償教育の歴史…高校無償教育は現実化可能か] (2018年9月25日). 2020年9月12日閲覧。
  66. 1 2 韓国の民主化運動とキリスト教(1)”. 東京女子大学. 2026年6月7日閲覧。
  67. 개신교, 근대화의 장애물이었나 촉진제였나[リンク切れ] クリスチャントゥデイ 2008年3月27日
  68. 시사INLive 2010.08.23 '친일'은 지금도 계속된다.
  69. 『다시찾는 우리역사』、韓永愚著、경세원、579頁。
  70. 4.19革命60周年特集 4.19 세대의 증언 4월의 함성 역사를 바꾸다 KBS 2020-04-19
  71. 김동문 (2007年4月20日). 함석헌 필화사건-1 [咸錫憲筆禍事件-1]. 뉴스타운. 뉴스타운. 2015年3月29日閲覧。
  72. 1 2 협상선거법”. 韓国民族文化大百科事典. 韓国学中央研究院. 2026年5月6日閲覧。
  73. 代表例として李承晩ラインや対日賠償要求問題などが挙げられる。
  74. Francesca Rhee. 6.25와 李承晚 : 프란체스카 亂中日記 (2010 ed.). 耆婆郞. p. 379-381
  75. 在日朝鮮人帰国事業の阻止に向け動いた工作隊(上)(下) 朝鮮日報 2011年4月30日
  76. 柳永益、「李承晚의 獨立運動과 徐載弼」、2006.11.6 雩南李承晚研究会第1次学術会議資料集。
  77. 柳永益、「3・1運動後 徐載弼의 新大韓 建國 構想」、上南言論財団。
  78. 1 2 이정식, 《대한민국의 기원》(일조각, 2006)
  79. 許政, 『내일을 위한 증언』 (샘터사, 1979) 237ページ
  80. 1 2 許政, 『내일을 위한 증언』 (샘터사, 1979) 241ページ
  81. 許政, 『내일을 위한 증언』 (샘터사, 1979) 242ページ
  82. 許政, 『내일을 위한 증언』 (샘터사, 1979) 31ページ
  83. 허정, 《내일을 위한 증언》 (샘터사, 1979) 234페이지
  84. 許政, 『내일を 위한 증언』 (샘터사, 1979) 32ページ
  85. 申昌鉉, 『내가모신 해공신익희 선생』 (해공신익희기념사업회, 1986) 381ページ
  86. 하지의 고백 "이승만은 제 정신 아닌 '늙은 악당'" [ハッジの告白「李承晩は正気ではない『老いた悪党』」]. 프레시안. 프레시안 (2011年6月16日). 2026年5月5日閲覧。
  87. 朴容萬, 『경무대 비화』 (내외신서, 1986) 35ページ
  88. リチャード・ロビンソン, 『미국의 배반:미군정과 남조선』 (정미옥訳, 과학과 사상, 1986) 199ページ
  89. 팔순 맞은 YS는 좌파의 숙주인가”. 주간한국. 2026年5月5日閲覧。
  90. 1 2 김영삼, “DJ가 1년6개월 동안 내 뒷조사해, 그러나 용서…””. 시사ON (2009年10月24日). 2026年5月5日閲覧。

参考文献

[編集]
※入門書、中公文庫で再刊。他の文献も参照。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
先代
自身
臨時政府首班として
大韓民国の旗 大韓民国の大統領
第1~3代:1948年 7月17日 - 1960年 4月25日
次代
許政
(代理)
先代
-
大韓民国の旗 大韓民国臨時政府の大統領
第1,2代:1919年 4月 - 1925年 3月
次代
朴殷植
先代
金九
大韓民国の旗 大韓民国臨時政府の国家主席
1947年 3月 - 1948年 7月22日
次代
-
先代
-
大韓民国の旗 大韓民国臨時政府の国務総理
第1代:1919年 4月 - 1919年 4月
次代
李東輝
先代
金奎植
大韓民国の旗 大韓民国臨時政府駐美代使
第2代,3代:1919年 9月 - 1941年 10月
1941年 10月 - 1945年 10月
次代
林炳稷