ゼンブツナガッテル~
私には、大切にしている言葉があります。
「ゼンブツナガッテル~」
これは、きれいな標語として出会った言葉ではありません。
カナダ人の友人R君が、いつも私に言っていた言葉です。
彼は、いろいろな言語を話すことができる、とてもストイックな人でした。
自分にも人にも甘くない。
けれど、いつもどこか明るくて、話すと不思議とこちらの背筋が伸びるような人でした。
彼が感銘を受けていたのは、三位一体の考え方でした。
身体と精神。
自分と他者。
見えるものと、見えないもの。
そういうものは、別々に存在しているようでいて、本当はつながっている。
彼はそのことを、何度もニホンゴで私に話してくれました。
芸術家は、さまざまな文化に触れていく中で、肉体と精神のつながりを常に意識するようになります。
ただ技術を磨くだけでは、どこかで行き止まりになる。
身体がどう反応しているのか。
心が何を喜び、怖がっているのか。
自分が何を見て、何を聞き、何を経験してきたのか。
そういうものが、すべて音や表現に出てしまう。
だから、自分が見ること。
聞くこと。
経験すること。
音楽以外のこと。
暮らしのこと。
食べること。
誰かと話すこと。
知らない文化に触れること。
一見、関係がないように見えるものも、全部が自分の糧になっていく。
そしてそれは、やがて他者とのつながりにもなっていく。
R君は、いつも笑顔で私に言いました。
「だから君も、僕とつながっているんだ」
言葉だけ見れば、とてもよく聞く意味かもしれません。
すべてはつながっている。
たしかに、よくある言葉です。
でも彼は、それをカタカナ発音で、あいさつのあとに副題のように毎回言うのです。
「ハロー!!ゼンブツナガッテル~」
一度や二度なら、面白いな、で終わったかもしれません。
でも会うたびに言われると、こちらもだんだん意識するようになります。
そしてその言葉は、当たり前の意味ではなくなっていきました。
私にとって「行動する」ということは、ゼンブツナガッテル~。
何かを始めるとき。
誰かと出会うとき。
知らない場所へ行くとき。
自分には関係がないと思っていた世界に足を踏み入れるとき。
そのたびに、私はどこかでこの言葉を思い出します。
音楽もそうでした。
ホルンを学ぶことは、ホルンだけを学ぶことではありませんでした。
西洋の楽器を、日本人である私が学ぶ。
キリスト教文化やヨーロッパの歴史が背景にある音楽を、自分の身体を通して鳴らそうとする。
そこには、音だけでは済まない問いがありました。
なぜ、この楽器を吹くのか。
なぜ、この音楽を学ぶのか。
自分の文化と、相手の文化をどう受け止めるのか。
技術を極めようとすると、精神のあり方にたどり着く。
精神を見つめようとすると、身体の使い方に戻ってくる。
身体を整えようとすると、暮らしや食事や人間関係にも目が向いていく。
本当に、全部つながっているのです。
ドイツで暮らしていた頃、私は音楽学校だけでなく、教会や小さな町、地域文化、狩猟文化、野生動物保護にも関わりました。
最初は、音楽家としては少し変わった寄り道のように見えたかもしれません。
けれど、そこに入っていくと、音楽がホールの中だけにあるものではないことがよくわかりました。
教会があり、地域の歴史があり、人々の暮らしがある。
その中に音楽がある。
森があり、動物がいて、季節があり、祈りがあり、食卓がある。
その中にも、音楽につながるものがある。
私は少しずつ、音楽を「音楽だけの世界」から見るのではなく、暮らしや地域文化の中から見直すようになりました。
今、私が伯耆町でやってみたいことも、同じところから来ています。
音楽。
教育。
3D。
メタバース。
ゲーム。
ハンドメイド。
食。
自然。
暮らし。
地域の人たち。
外から関わる人たち。
これらは、別々の活動に見えるかもしれません。
でも私の中では、全部つながっています。
どれか一つだけを大きくするのではなく、その時々の出会いや流れに合わせて、柔らかく組み合わせていきたい。
誰かが音楽から入ってもいい。
誰かが食から入ってもいい。
誰かがゲームから入ってもいい。
誰かが「なんとなく面白そう」から入ってもいい。
入口は違っても、その先で人や場所がつながっていくなら、それでいい。
私にとって「ゼンブツナガッテイル」は、ただの言葉ではありません。
大切な人の、大切な言葉です。
そして、私の行動にかけられた魔法のようなものです。
不思議なことに、カタカナのアクセントで日本語を聞くと、宇宙用語のような感じでとても印象的。
今はまだ意味がわからないこと。
すぐには役に立たないこと。
遠回りに見えること。
ただ楽しいだけに見えること。
そういうものも、いつかどこかでつながるかもしれない。
もちろん、何でもかんでも抱え込むという意味ではありません。
全部を一人で背負うという意味でもありません。
むしろ逆です。
全部がつながっているからこそ、一人で完結しなくていい。
誰かの得意なことと、自分の経験がつながるかもしれない。
ある場所の課題と、別の場所の知恵がつながるかもしれない。
今日の小さな会話が、数年後の大きな流れにつながるかもしれない。
そう思うと、世界の見え方が少し変わります。
私はこれからも、この言葉を持って歩いていきたいです。
ゼンブツナガッテル~。
少し呪文のようで、少し笑ってしまう。
でも私にとっては本当に納得する言葉。
音楽から始まった道は、ドイツでの暮らしへ。
教育へ。
地域文化へ。
DAOやメタバースへ。
そして伯耆町でのこれからへ。
まっすぐな道ではありませんでした。
でも振り返ると、たしかに全部つながっていました。


