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【備忘録】おもいびとの茶髪はいくつまで続いて 卯月でも疼きでもよくって

新年度。1月から書いてきた備忘録も4ヶ月目となり、なんとなく書きたい方向性が見えてきた。このまま書き続けて、来年にはZINEにまとめたい。例によって先頭がもっとも新しい記述で、タイトルは短歌です。
(追記)6月に4月の備忘録を公開するとんでもない遅れようで申し訳ないです。書き溜めていた文章の整理(ハマりすぎてネットリとした文章でお笑い芸人について書いた部分を没にするなど)に手間取りました。5月分もすぐ出すので、読んでもらえるとうれしいです。「歌人の備忘録交換ラジオ ビボロクロク」もよろしくお願いします!

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入稿した本がほんとうにミスなく刷れているかが不安で、「モノがあるべき場所になくて困る」「やるべきことをやれなかったせいで困る」系の夢ばかり見る。データの載せ忘れがとくに怖いためだろう。行く先々のお手洗いでトイレットペーパーがすべて本革になっていて、使用料を取られる夢。なんらかの会の芳名帳に名前を書くのを忘れたせいで、なんらかの会の打ち上げに行けない夢。なんらかの会の打ち上げには、好きな芸能人がいっぱいいたのに!ああ、わたしの悪夢はその時々のわたしの不安の見事なアナロジーだ。これを見ているあなたにおすすめです、がちゃんと機能する脳なんだと思う。
余談だが、去年出したZINEは、じぶんのあとがきが途中でスパッと見切れていてかなり落ち込んだ。ふだんから目立つ装丁のZINEばかり売っているためか、即売会では訂正票を「そういう造本」だと思う方が多くてちょっと心が晴れた。もちろん「これは訂正票です」と釈明したが、図らずも「木を隠すなら森の中」がちょっと理解できた。信頼できる人たちに組版でミスをしないためのコツを訊いたから、今回はきっと大丈夫。

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岡野大嗣さんのサイン会に行く。買ったばかりのジャガードでパフスリーブでぺプラムのトップス(呪文?)の中に真っ赤なシアーTを重ねて大ぶりのシルバーアクセサリーを着けたら、梅田に行くのにふさわしいかわいさになった。会場は蔦屋書店。実は『夜なのに夜みたい』は我慢できずすでに買って読んでいたので、サインを入れていただく用にもう一冊買う。(最初に買った方は用賀ねねさんにお渡しした)
『夜なのに夜みたい』はとにかく装丁がかわいい。黒い、つやつやした手触り。写真を撮ろうとすると反射で背景が映り込んでしまって上手く撮れなくて、でもそれが窓にへばりついて見ている夜景とまったく同じ体験でうれしい。同じく今月刊行された『ユニバーサリー・アニバーサリー』はおそらくベルベットPP加工が施されていて、さらさらの桃みたいな触り心地。つるつるの本とさらさらの本を立て続けに出版するのってめっちゃいい、正直めっちゃ羨ましい!わたしも赤い歌集と青い論集を同時刊行する野望(赤と青は爆弾のどっちの線を切るか、の色だから好き)とかレースの布張りの論集を商業出版で売る野望とかを冗談まじりではなくほんとうに思っていきたい。
装丁の話をしすぎたんだけど、サイン会すごく楽しかった。岡野さんとお話しするときは焼く前のパンがあわあわに膨らむような気持ちになり、楽しい。自分も、会話の相手にこんな風に思ってもらえるといいなあと思う!

めっちゃ金でうれしい

サイン会の列に並んでいると「これなんの行列?」という顔で通りすぎる人がいて、「へえー、短歌?いいね、短歌の棚見てみる?」と話していた。短歌は、いいね。短歌はすごく、いいんだよ。

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午前はTAをして、午後から兵庫県立美術館に「アンチ・アクション 彼女たち、それぞれの応答と挑戦」を観に行く。長いベロアリボンを三つ編みとともに垂らした髪型を先輩に褒められてうれしかった。おしゃれな大学院生になりたい。
展示についての詳しい感想は膨大になりそうなので控えるけれど、キュレーションがよかったのでちょっと書いておく。解説文が書かれた小さな二つ折りの紙が順路の各所に置かれ、それをすべて集めるとひとつの冊子になるというギミック。表紙のようなスリーブのようなものも配布される。ドラゴンボールをやりながら美術展を観ている感覚で楽しい。鑑賞者がコレクトしていくのが美術に文脈を付与してしまう言葉の束であること、言葉を拾い集める動作が広義の「アクション」たりうることをふまえると、完全にエンタメとしてのアイデアだとは言い切れそうになく、それもよかった。
美術館の帰りに文田さんが愛飲する「水ゼリー」を探して5軒以上のコンビニを巡ったが、見つからず。水ゼリー、数日探しているのにどこにもない。そろそろまぼろしの飲料になりそうだ。まぼろしの飲料は詩語に捕捉したくなるから、水ゼリーの短歌を詠む日もそう遠くない。

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大雨でびっしゃびしゃになりながら坂を下り、友人とミスドに行った。ロイヤルミルクティーを頼む。雨に降られた日のあつい飲み物は格別。友人は、話すたびに尊敬の個数が増えていくような人だ。たとえばミスドで最も好むのはオールドファッションだということがわたしと全然違っていて、かっこいい!オールドファッションを迷わず手に取るのって結局、Tシャツにジーパンでサマになる、みたいなことだから。せっかくなので久々に(なんなら始めてだったかもしれない)オールドファッションを食べた。これはごめんなさいなんだけど正直、つまらない食べ物だという偏見があった。わたしがクリーム乗ってれば乗ってるほどいいと思うような人間であることは、Twitter等を見ている人には丸わかりだろう。実際のオールドファッションはつまらなくなく(今夜はブギーバック?)、よい食べ物だった。ノームコア的なかっこよさを想像していたが、味の感想に限ると、出汁とかの良さに近い。4月は新しい環境での焦りがつのっていたが、すてきな友達の向かいに座っておしゃべりするためにも沈んでいられないと思った。人とお茶するのは暇つぶしとは限らず、ヤバい方向にずれ始めた気持ちを心地よい位置に戻せる時間だから、要は整体の心バージョンなのか。

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はしご酒企画で、初手からふたりともたこ焼き8個を立ち食いしていてすてきだった。手加減なくものすごい勢いで海賊のように飲み食いして、ものすごい勢いのまま退店して、夜風にあたった瞬間にものすごい勢いが全部停止してしまう、ような外食を志向している(飲み会のあとの夜風のために飲み会をしたい日がある)ので、気持ちの良い動画だった。とびきりの強さで文田さんが好きだから、心が毎日、おおきなお祝いの会場みたいに慌てている。

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大ハマりした勢いのまま、はじめて囲碁将棋を生で観た!Dr.ハインリッヒとのツーマンライブ「道頓堀High and low」に、なべとびすこさんを誘って行ってきた。なべとさんはどちらのコンビもすごく詳しいわけではないため恐る恐る誘ったが、快諾してもらえてよかった。友達をお笑いライブに誘うとき、すごく緊張する。なにを面白いと思うかは人それぞれだし、相手が笑っているかどうかが見えてしまうから、音楽ライブと違って誤魔化しが効かない。結果として、面白いと言ってもらえてよかった。とはいえよく考えたら、もしお笑いライブに誘った友達がまったく笑わなくても、いやな気持ちにならないな。わたしたちは面白いと思えるものをいつの間にか選びとっていて、笑ったり笑わなかったりするなかでそれをこんなに無防備に晒している。芸人さんはそれを「笑ったり」になるべく近づけていくこと、つまり他人の生理的な反応に介入することを職業としている。やっぱりお笑いってヘンな営為!大好き!

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テクスチャーにも真偽がある気がする。たとえばAIが生成した、ガラスでできた果物を切るASMR動画。あれは、嘘すぎる。果物がガラスでできているわけが、ありませんわよ。嘘すぎるのだけれど「ガラスに刃物が当たる音」と「果物が切れる映像」はそれぞれ本当で、本当と本当の足し算によって大嘘が導出されるのは短歌っぽいと思う。AIが実在しない物体を切ったり揉んだり食べたりできるようになったせいで生身のASMR配信者は割を食っているらしいが、歌人はどうなんだろう。歌人は元からガラスでできた果物を切ることができる存在だから、その点においてAIに凌駕されることはない。ではどの点においてAIが脅威となりうるのか……と真面目に考えてみたが、歌人がずっとずっとガラスの果物を切れる存在として生きてきたことが面白くて、かつすごいことで、笑ってしまった。わたしの想像力にとってわたしはいちばんの魔法使いなんだなあ、と思った。

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佐々木舞香さんというアイドルがいて、わたしは彼女のことをごく表面的にしか知らないのだけれど、とにかく声がすごい。すこんと突き抜けて、すこん、のまま聴き手の体内に入ってくるような気持ちのよい声なのだ。佐々木さんの歌声を聴くときにだけ認識される臓器がある、という気すらしてくる響き方。カラオケで彼女のパートを歌ってみても、すこん、どころかスタート地点にすら立てなくて悲しかった。佐々木さんの声のよさは「なんのトッピングもないバニラアイスが結局いちばんだよね」という感覚に似ている。わたしはハロプロが大好きだから、ハロプロ以外のアイドルがハロプロとは違うやり方で腹からデカい声を出しているさまを見るのもすごくうれしい。じぶんが、アイドルの技術者としての側面にかなり惹かれていることを最近理解した。

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家族が「水曜日のダウンタウン」を見ている横で作業をしていたら、好きな芸人が出てきたのでなんとなく眺める。妨害ドミノ選手権という企画に、高校生の頃から好きな囲碁将棋が出演していた。囲碁将棋の文田さんは元々めちゃくちゃ見た目が理想どまんなかであるため、お笑い芸人をそのような目で見てはならないという規範意識?が働き、あまり直視できない存在だった。水ダウでの文田さんはとにかくとにかくドミノが下手で、それを見て、なぜか全ての理性が溶解してしまった。じぶんの短歌のなかにしか存在しない、二人称で名指されるひと、がそのまま現実になったみたいだと思う。お笑い芸人を積極的にアイドルのように消費するファンがよく問題視されるけれど、とっても好きだと思った人の職業がたまたまお笑い芸人だったときはどうすればよいのだろう。かなり煩悶し、「絶対に各種SNSでお笑いファンアカウントを作らない」という結論にたどり着いた。ファンダムの構成員になってしまうと、絶対に冷静でいられなくなるため。しばらくは、もちょもちょと言葉をこねくり回して「あの言葉もこの言葉もこのひとのすてきさにはかなわないよ~」だけをして毎日過ごしますのでね。

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ほんとうに大学院はよいところだ。よいところであると思い続けるためにも、たくさん読んだり書いたりしていきたい。

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大学院に入学した。なんだかんだ週5で通っており、日によっては1限から授業もあり、大学1年生を思い出す。文学フリマ東京に向けた2つの組版を同時進行しながら入学手続きや履修登録をしているうちに授業が始まり、よく眠れない日々が続く。教室移動に20分掛かったり、その道中が明らかに山道だったり、毎朝坂をのぼるから足の皮がめくれたりして、どちらかというと虚弱体質のわたしにはかなりきつい。のだけれど、坂をぐんぐんのぼった後にきれいな景色を見て息を深く吸う、というかなり野生のぶぶんに近い達成感を毎朝味わえるのが楽しい。わたしは愚鈍、どんくさい、と幼少期から家族に言われてきて、俊敏さに欠けるのがコンプレックスだった。最近は電車が来るまでの1分でアメリカンドッグを食べきることもできるし、一段飛ばしで駅の階段を駆け上がることもできる。親にずっと指摘されてきた短所を疑うことや、後天的に巻き返すことは、できる。体力がついているとの実感は、のろまな人間であるという前提が前提として機能しなくなることでもあってうれしい。

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アクリルスタンド(通称アクスタ)が流行っている。「推し」の全身が縮小プリントされた透明のアクリル。飾ったり外出先に連れ歩いたりすることが推し活の一環とされている。アクスタが流行る前、というか推し活がここまで一般化する前は、現在よりも「生写真」が興隆していた気がする。昭和より続く「ブロマイド」文化の延長。
わたしが小学生の頃は、三宮センター街に(それはもうガッツリ違法の)生写真屋さんがあった。ネットで拾ったアイドルの写真が所狭しと並べられた店。そんなに画質も良くない写真を握りしめて、やたらと狭くて急な螺旋階段を登ったのを思い出す。あの白いペンキの剥げかかった階段、わたしの原風景として在る、推し活の、巻貝。あの頃は肖像権のことがよく分からなかったし、比較的遵法意識が薄い親なのもあって、なんの疑いもなく宝物としてまゆゆの写真をコレクトしていた。ショッピング内のファンシー文房具店にも違法アイドルグッズは展開されていて、公式グッズにはない下敷きや免許証(なめ猫みたいなもの。「大好きな限り有効」とか書いてある)に魅了されたものだ。さいきんシール交換にハマって久々にファンシーショップを訪れたら、ミセスグリーンアップルの免許証(違法)が売られていて感動した。ミセスはアイドルでもないしな。ショッピングモールは年々クリーンな施設になっているため、堂々と展開される非公式アイドルグッズにうっとりしてしまう。当然ながら倫理的には大問題だが、わたしがすっかり大人になってしまった今も、同じフォーマットで内容物たる芸能人を挿げ替えて、同じ法を犯し続ける図太い商売が存在していることへの陶酔はやめられない。
回想が長くなったが、そう、今はどうやら生写真よりもチェキが流行っているし、もっぱらアクスタを持ち歩く人が多いようだ。さいきんの推し活は、推しのグッズを撮影する際の背景にこだわる。アフタヌーンティーに行ったり、おめかししてグッズを持ったり。(とくに非公式の)生写真文化においては、写真に他のメンバーが写り込むことも多かった。つまり背景は固定化されていて、すでに過去となったひとつの状況にファンは対峙するしかなかった。今の推し活は徹底的に撮り手が背景を演出する。そのさまは、推しという圧倒的な主体をまえに、現実の一切でもって美的な背景に徹するという壮大な謙遜のようにも見えてくる。さいきん典型的なフォーマットに則った推し活を始めたので、壮大な謙遜を能動的に行う気持ち良さが分かってきた。高額なアフタヌーンティーも推しを前にすると背景物でしかない、と実証するためにアフタヌーンティーを食べにいくことは、被虐心なのだろうか。そうである気もそうでない気もして、わたしはまだまだ推し活の全貌を分からない……。

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鍋をねぎ塩レモンたれにつけて食べたらほとんど牛タンだった。食べ進めるごとに牛タンの幻影が背後に立っている気がして落ち着かなかった。たぶんわたしにとって、ねぎ塩レモンは「〇〇味」になりきれていない。固有の料理から調味料的な「味」へと一般化していく過渡期にあるな、と思った。あと、タン塩は焼肉における前菜のようなものだから、ずっとタン塩の味が持続することに身体が慣れておらず、疲れてしまった。
カレー味のものを食べてもライスを想起させられることは滅多になく、それはカレーが「味」になりきれているためである。すこし前にみたらし団子のタレがシロップとして売られており、食パンにかけるのがおすすめだと書いてあったが、それはまだわたしのなかで「味」ではない。カレーの部分からライスを想起させられることはないのに、みたらしの部分を摂取するとまだ団子がちらついてしまう。それに、よく考えると食パンは都合よく使われすぎではないか。主にカルディなどで売られている種々のスプレッドによって、あらゆる料理の代替とされている。すべての料理は、食パンを踏み台にして「味」へと変貌してゆくのか。許せないというほどではないが、「食パン的には、それでいいの?」とはすこし思う。
ところでみなさんは食パンに何を乗せるのが好きだろう。わたしは海苔の佃煮、マヨネーズ、七味唐辛子を乗せて焼くのがもっとも好きだ。「おにぎりせんべい」の味がする。ここにおいてわたしは、食パンを米の代替としているわけではない。海苔の佃煮は、米よりパンに合う。そう本気で思っている。それに、そもそも「おにぎりせんべい」はおにぎりを模した菓子だ。食パンに佃煮を乗せて「おにぎりせんべいの味!」と思うとき、それは代替の代替であり、かつまったく替えの効かない嗜好でもある。

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パーソナルカラー診断がズルだとは思わない。けれど似合う服の形状や色をひとつひとつ、きわめて非効率に見つけていく営みが、逆にじぶんの身体と向き合う手っ取り早い方法だと思うときもある。それに、似合わなかった口紅はどれも愛おしい。その色が持つ美性は、わたしの相貌との不和によって先鋭化される気すらする。似合う口紅はお守りで、似合わない口紅はナイフで、どちらもわたしには必要だ。

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こないだ葉ね文庫行ったとき、開店時間がちょっと遅れていたから近くの薬局でリンスを買って、わたし、このへんに住んでるひとみたい!とうれしくなった。とびきりのお金持ちになりたいわけではなく、でも家が5個ぐらい欲しい。たまらなく好きな土地がたくさんあるから。

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