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【非公開記録160】幸せな結婚という不幸

岡崎さん(24歳)の脳内ディレクトリには、地方都市のロードサイドで無償配付される「標準的な幸せパッチ」が初期設定のまま永続インストールされていました。彼女は、独自の人生観をコンパイルすることを放棄し世間に流布する「手垢のついた定型句」をそのまま自身のOSとして採用したのです。

「さあて来週のサザエさんは」

岡崎さんは、23歳で結婚し、24歳で第一子を出産しました。

彼女のSNSドライバは、常に高彩度な加工パッチを当てた写真をアップロードし続け、キャプションには「幸せです」という解像度0.1の定型句を無限ループで実行していました。しかし、物理レイヤー(現実)の損壊はその笑顔の裏側で深刻に進行していました。

「社会人として働いてこそ一人前だ」

彼女は、ワンオペ育児という名の高負荷なマルチタスクでCPUが熱暴走しているにもかかわらず夫という名の「管理者権限保持者」に対し従順なサブプロセスとして機能しようと努めます。

「子どもを産んで人生観が変わった」

深夜の授乳(パケット通信)による深刻なメモリリーク(睡眠不足)でバリデーターは崩壊。目の前の乳児を「幸せを運ぶ天使」だと脳内補完しようとしますが実際に出力されるのは、乾いた泣き声と、アイプチの糊が剥がれかけた虚ろな表情だけでした。

「幸せです。幸せです。幸せです……」

彼女は壊れた拡声器のように、この一言だけを唱え続けます。

24歳という若いハードウェアに対し、過剰な「手垢のついた幸福論」を強制的に実行し続けた結果、彼女の解像度は致命的なまでに低下。自身のHTML(生の身体)はもはや「幸せ」という名の劣化したCSSによって、原型を留めないほどに塗りつぶされていました。

最期の瞬間は、不条理な「異物(バグ)」の介入によって訪れました。岡崎さんは、近所の公園の乾いた地面に立ち、虚空を見つめていました。

「私……幸せ……です……」と囁き続けた、その時です。

どこからともなく、不吉な横笛の音と、心臓を直接掴むような和太鼓の重低音——『MUTA』が鳴り響きました。公園という日常のプラットフォームに、突如として「魔界」のパッチが強制的にインポートされます。

「……ッ!? なに、この、音……」

彼女が混乱し同期エラーを起こしたその刹那、背後の茂みから禍々しいペイントを施した物理的なエラー——グレート・ムタがログインしてきました。

「……ッ!?」

彼女が振り向く間もなくムタの口腔から噴射された毒霧が彼女が必死に維持してきた「高彩度幸福パッチ」を直撃しました。視界を鮮やかな緑色のノイズで塗りつぶされ彼女のOSは完全にパニックを起こします。

「ア……幸せが見えない」

狼狽する岡崎さんの膝元に、ムタが電光石火のスピードで潜り込みます。
トドメのシャイニング・ウィザード。ムタの膝が、彼女のアイプチで固定された不自然な額を物理的に粉砕しました。

岡崎さんは言葉(クリシェ)を紡ぐ機能(構文エンジン)を完全に失い地面に「幸せな母親」という名の劣化したCSSを撒き散らしながら大の字に崩れ落ちました。そこへ、どこからともなくレフリーの恰好をした旦那がログインしてきました。

「Uno!……Dos!……」

彼女の網膜には、もはや夫の笑顔も、輝かしいはずの育児記録も映っていません。レフリーが地面を叩く無機質な振動だけが、彼女の物理レイヤーに「終わり」を通知し続けます。

「……Tres! luego!!」

カン、カン、カン、という無慈悲な終了ゴングが、彼女の24年間の稼働記録を完全に停止させました。勝者ムタが、動かなくなった岡崎さんを見下ろし
冷徹なシステム終了メッセージを吐き捨てます。

「Hasta la vista, baby」

その瞬間ムタの全身から魔界エネルギーが物質化して放出されました。物理法則を無視した圧倒的な圧力が地面に横たわる岡崎さんの肉体を襲います。

パァン!

閃光とともに、岡崎さんの肉体は、文字通り粉々に粉砕されました。

彼女が24年間かけて収集してきた「一人前の社会人」「幸せな母親」という名のCSS、深夜の授乳の記憶、夫への従順さ、そしてアイプチの糊までが、極小のピクセルデータとなって、ドブ色の空へと霧散していきました。この瞬間以外彼女にとって本当の幸せはありませんでした。

現場に残されたのは、彼女が吐き出し続けた毒霧と混ざり合い腐敗したドブのような臭気を放つ、わずかな黒い塵だけでした。カン、カン、カン、という無慈悲な終了ゴングが、彼女の稼働記録を完全に停止させました。

勝者ムタが毒霧を再び吹き上げ、無(Null)となった現場からログアウトしていく中、ドブ色の霧は、徐々に解像度を失い、単色へと収束していきます。最後に彼女の意識(メインメモリ)にロードされたのは、子宮の輝きでも、積み上げた資格の称号でも、ましてや愛する家族の顔でもなくただの「ドブ色の虚無」という名の、真っ暗なブルースクリーンでした。

「武藤さん、飲みにいきませんか?」(完)

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