【そして戦争が始まった】Countdown 319 ~1941年(昭和16年)1月23日 駐米大使~[1830文字]

 太平洋戦争までの道のりを出来事で振り返っています。
 引き続き日米交渉編です。

 特定の事件・国家・組織・人物を賞賛や批難するものではありません。
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 日独伊三国同盟が締結される1ヶ月ほど前、 1940年(昭和15年)8月24日
 この時、阿部内閣で外務大臣を務めた海軍大将の野村吉三郎は、避暑で山中湖を訪れていた。
 そこに、外相の松岡洋右から、『すぐに帰京してほしい』との電話があった。

 野村は、1939年(昭和14年)8月30日に、阿部内閣で外務大臣に起用されている。
 野村はアメリカ大統領ルーズベルトと、個人的に親交があるため、日米関係の改善に役立つことを期待されたのが、外相抜擢の理由のひとつであった。

 実際、外務大臣就任の際に、ルーズベルト大統領から祝電が送られた。
 しかし、個人的関係だけで国家間の関係が改善されると期待するのは、楽観が過ぎたと言わざるを得なかった。

 駐日大使のグルーと日米関係改善のために会談した際に、野村はグルーからこう言われている。

 「日本の歴代外相は、中国におけるアメリカの権益を尊重すると保証したにも関わらず、いっこうに守られていないではありませんか」

 グルーは、アメリカ人権益の損失を、具体的な数字を上げて指摘し、さらに、と続けた。

 「アメリカ人権益の損失だけではありません。日本軍およびその代理機関は、軍事的要求という名目で、中国における貿易を独占し、アメリカ人の正当な貿易に数百万ドルもの損害を与えています」

 この時、日本軍は中国の揚子江を押さえており、そのためアメリカの船は自由に揚子江を航行出来ずにいた。
 野村は、この揚子江の一部を開放してアメリカに恩を売ることで、日米関係の修復を図ろうとした。
 グルーに揚子江の一部を開放することを提案し、グルーはそれをアメリカ本国のハル国務長官に伝えた。

 しかし、ハル長官はこれを拒否した。
 揚子江の一部開放程度では済まされないほどの損害を、アメリカは日本から被っている、ということであった。

 野村吉三郎は、日米関係の改善に取り組んだものの、成果を上げることが出来ず、阿部内閣は1940年(昭和15年)1月16日に崩壊してしまう。

 そして7か月以上が過ぎた1940年(昭和15年)8月24日、日米関係はさらに悪化していた。

 帰京した野村吉三郎を迎えた外相・松岡洋右は、外交上の話をした後に本題を切り出した。

 駐米大使をお願いしたい。これについては吉田海軍大臣も同意されている、と松岡は野村に告げたのだった。

 海軍大臣も同意しているとのことだったので、野村は吉田善吾・海軍大臣のもとを訪れ、政府は枢軸国との関係強化を目指しており、その上で日米関係の改善を行うのは、正に二兎を追おうとするものであり、日米関係の改善達成は不可能であると、野村は駐米大使就任を断ったのだった。

 しかし、その後も野村のもとには、海軍関係、外務省関係などから、駐米大使就任の勧誘が続くことになる。

 10月2日に海軍次官の豊田貞次郎中将から、海軍の要望として就任を要請されるに至り、さすがに野村も考え込まざるを得なかった。

 10月24日には、なおも駐米大使就任を請う松岡洋右から言われている。

 「もはや、湊川に行っても宜しいのじゃないか?」

 湊川とは南朝の忠臣、楠木正成が赴いた最後の決戦場である。
 日本のために命の捨て所に赴いてもいいのではないか、とそう言いたかったのだろうか。
 
 野村は近衛首相と会談し、日米開戦は避けるべきとの意見を具申し、それを受け入れられたことから、ついに駐米大使就任の要請を承諾したのだった。

 1940年(昭和15年)11月27日に親任式を終えて、駐米大使として日米関係改善の使命を担った野村吉三郎が横浜港を出港したのは、1941年(昭和16年)1月23日であった。


🔲参考・引用資料
「ゾルゲ事件80年目の真実」 名越 健郎:著
「ゾルゲ 東京を狙え」   ゴードン・W・プランゲ:著
「日米開戦への道」     大杉一雄:著
「大東亜共栄圏-帝国日本のアジア支配構想」 安達 宏昭:著
「御前会議: 昭和天皇十五回の聖断」     大江 志乃夫:著
「真珠湾・リスボン・東京」         森島守人:著
「戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗」 加藤陽子:著
「開戦前夜」                児島 襄:著            


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