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感覚とは体か、心か、社会か―『正義とは誤謬』を読む(26)

はじめに

橋本摂子『アウシュヴィッツ以後、正義とは誤謬である アーレント判断論の社会学的考察』(東京大学出版会、2024)を読む。

政治哲学者といわれるハンナ・アーレントの思想に関する内容だが、社会的な倫理の話を人間性の観点を含めて論じているようなところが興味深い。

アーレントとは、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906-1975)のこと。ドイツ系ユダヤ人の女性政治哲学・思想家であって、ナチス政権の成立(1933年)によりドイツから亡命し、パリを経て1941年にアメリカへ。1951年にアメリカ市民権を取得。以降、大学で教職、という経歴を持つ。ナチズムとスターリニズムという二つの全体主義を直接的・間接的に経験している。『全体主義の起源』『人間の条件』といった本がその代表的な仕事だが、『エルサレムのアイヒマン』の「特別に邪悪な怪物ではなく、思考停止した平凡な官僚が巨大な悪を可能にする」という悪の凡庸さの指摘が印象に残る。

ハンナ・アーレントの原書ではなく、本書を選んだ理由は、やはりタイトルの『正義とは誤謬』の文言のおかげだ。「正義が誤り、間違いだ」とは? また、感覚的にも「正義」を語る人はどうも……、といった面もある。

本書は8章からなる(内、本論は5章)。今回は第4章「全体主義と道徳哲学」の第4節「共通感覚の系譜」を読む。


4章4節 共通感覚の系譜

カントは反省的判断を趣味の領域に限定したが、アーレントは政治的な事柄全般の判断となると解した。人間事象を対象とする政治的判断は、「歴史の真理」「人類の進歩」などの普遍的(とされる?科学的?誰かの意志?みんなが認めた?)法則によるのではなく、自律的な思考に基づき、自分以外の複数の者の存在と結びついた活動でなければならない。理性ではなく共通感覚を判断基準とするカントの美的判断論は、人間事象にふさわしい判断の在り方を模索するアーレントにとって格好の範となった。

アーレントの判断論を論じる前に確認しておかなければならない重要な論点がある。カントの趣味判断の継承と政治領域への展開について、特に道徳哲学の伝統における位置づけである。その妥当性基準である共通感覚(sensus communis)の論の系譜として、アリストテレスを源泉として近現代に至る論争史がある。アーレントの前に、まずカント以前を振り返る必要がある。

アーレントの政治的判断論はカントの外延(具体例?延長?特化?)にあり、カントの行った伝統に対する切断と転換を見たうえで、アーレントによる継承・再解釈・書き換えといった流れで把握したいのだ。

※西洋哲学が道徳のすべてでもないし、それで道徳の発展が決まるわけでもないだろうが、重要な参考になるのだろう。また、現代の語は西洋の語彙(を適宜日本語化したもの)をベースとしているので、西洋哲学が「実は」基準概念になってしまっている可能性もある。

著者は親切に、アーレント判断論は道徳哲学の伝統から大きく乖離し、カントの趣味判断とも似て非なる独自の議論を構成している、とざっくり結論を示す。しかしアーレントの独自性は、共通感覚の定義を精査して初めて見えるものだ。だから、起源の古い語である「共通感覚」を振り返るのだ。

共通感覚は、感覚を重視する側面と「常識」的側面によって2系統に分かれている。知覚・身体感覚の系譜は「アリストテレス‐スコラ学」である(コイネ・アイステーシス、common perceptual sense)。もう1つが「常識」(common sense)の系譜の「ローマ古典-ルネサンス人文主義」である。


「アリストテレス‐スコラ学」

五感の枠を超えて、それらを統合する共通の感覚に最初に言及したのはアリストテレスである。アリストテレス『魂について』において、その感覚を「共通感覚」と呼び、五感を貫く共通の属性を感受する能力として定義する。ある対象を五感それぞれで感じたことがバラバラにあるのではなく、一つの経験として感受している、という意味である。対象と同一性をもつ一つの感覚である。これは対象の判断を一つにして一致させているのであり、それが五感を統合する、統制するという意味を持つ。

この考え方は、感覚器官を外的なものとして、その延長に内部感覚があるとみなすものだ。身体的、構造的に考えているところが自然科学的な論拠の強さであり、スコラ哲学に受け継がれる。後にトマス・アクィナスによって展開が図られる。そこでは魂の内的感覚として、共通感覚、創造、評価力、記憶の4感覚を挙げ、思考に関わる機能とおいた。


「ローマ古典-ルネサンス人文主義」

「常識」に近い「共同体感覚」と捉えるグループである。古代ローマ人の「公共精神」を源泉に、共通感覚を修辞学や雄弁術などの人文学の諸系譜と結びつける特徴がある。

中世において、スコラ学の論理至上主義に対する批判、対立論点として学問的な意義があった。ルネサンス文芸復興期のイタリアに継承され、近代道徳哲学の一つの基礎となる。

この「ローマ古典-ルネサンス人文主義」の「共通感覚」は、社会的かつ心的な徳、政治感覚を意味しており、『ニコマコス』のフロネーシスに近い。つまり道徳的観点からは、こちらの「共通感覚」「常識」なのである。それは「万人の幸福に対する感覚、共同体ないし社会への愛、自然な愛情、人間性、親切心」などの共同体の感覚である。


近代カント以前

18世紀のイタリアにおけるG.ヴィーゴ(1668-1744)、イギリスの第3代シャフツベリ伯(1671-1713)は、古代ローマでの概念に立ち戻り共同体的な倫理(美)に結び付けた。シャフツベリは善美一致を理想とし、彼に続くF.ハチソン(1694-1746)は善悪、美醜を識別する第6感を主張、その後D.ヒューム、A.スミスとともに道徳感覚学派を作る。これは「常識」に「身体感覚」を統合する態度であり、ヒューム懐疑論、スコットランド常識学派、フランス啓蒙思想の源泉である。

18世紀後半のカントの「共通感覚」はこうした文脈を背景にしている。H.G.ガダマー(ドイツ哲学者、1900-2002)によれば、ドイツに至る共通感覚の概念はイギリスとフランスの啓蒙思想を経由したが、当時のドイツの社会的・政治的条件の未整備から、共通感覚という言葉が持つ批判的含意はドイツには伝わらなかった。つまり、極端に脱政治化された形でドイツ啓蒙主義に共通感覚という概念が入ってきたのだった。すなわち「道徳的意識(良心)や趣味」といったものだったのだ。

共通感覚をめぐるカントの議論は、イギリス道徳哲学の道徳感覚説への対抗の位置づけであり、カントは善と美を一致させる思想に反対し、共通感覚を美的経験についての判断原理に限定したのだ。この意図により、道徳哲学から共通感覚を外したのだ。

※「常識」「共同体感覚」といったことが、政治批判の手段ではないとドイツには伝わってしまったようだが、それだけでカントが「常識」を政治的道徳哲学から外したことにもならないと考えられる。むしろ文学的に政治を批判するよりも、哲学的に理詰めで批判することを志したように受け止められる。当時、イギリスやフランスでは「共通感覚」は革命思想に影響を与え、特にフランスでは感情的な起爆剤になっていたようだ。ドイツでは革命は起きなかったのだが、18世紀後半から学問、科学技術は大いに発展し、産業の成長も著しかった。そもそも、ドイツにおいて「共通感覚」が啓蒙の主たる目的に貢献しないと踏んでいたのではなかろうか。ただし、政治的には「帝国制」という体制を残してしまったのだ。


カント‐アーレント

ガダマーによれば、カントのセンスス・コムニス(共通感覚)は、道徳的な動機がなく、ローマ的伝統が断絶された、というのだ。共通感覚の働きを悟性(理解力)と構想力(イマジネーション)で説明するカントの考えは、共通感覚を「主観主義化」しているのだ。ここのところを著者は、「ガダマーがそのように批判できるのは、カントが従来の文脈を保っているから成立しているのだ」という。というのは、カント『判断力批判』は、キケロを源泉とする「ローマ古典-ルネサンス人文主義」的なセンスス・コムニス論の伝統が色濃く残っているからだ、と。美的判断に含まれる同意要求には規範性があるとカントは説く。つまり「~と一致すべき」といった共通感覚として共通性を認識できる規範的性質があるのだ。

共通感覚を、社会的に共有された法則、規範と捉える点で、カントの議論にはローマ的修辞学の伝統があるのだ。また同時に「アリストテレス‐スコラ学」のような「感覚」的性質もあるのだ。

カントにおいて、共通感覚が存在することは、美醜に対する判断が(主観的な)普遍妥当性を持つことと同義である。あらゆる人間に共通であるとするのだ。

美的経験のもたらす「関心なき適意(快)」は悟性(理解力)と構想力(イマジネーション)の調和にあるが、これらの能力の源泉が人間の身体的・心的機能にあるのだ。この意味でア・プリオリに他者と共有している。もちろん調和については人それぞれの調和の仕方があるだろう(言葉も違う)。とはいえ、その前提(体、心の機能)の感覚条件の一致により、主観的判断が普遍的妥当性を持つとして、美的経験の一致を他者に要求できる、ということなのだ。

※とりあえず、「美」について共通感覚説が成立するというのが、カントの「美的判断論」なのだが、その根拠を身体性、心の働きといったプリミティブなところにもっていくやりかたは、道徳一般について成立しそうなものだ。


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