いじめる側といじめられる側
Twitterで下記の投稿を見た。
■何があろうと、いじめている方に問題がある
— 小島よしお (@yoshiopiiya) November 24, 2025
―もし自分の子どもがいじめられたり、いじめてしまったら、親としてどう対応すればいいでしょうか。
まず基本的な考えとして、「何があろうと、いじめている方に問題がある」ということを、皆さんに知っておいてほしいです。…
諸々の言葉の定義を明確化せずに、「何があろうと」「いじめている方に」「問題がある」と断じるのは、なかなか危険で難しいような気がする。
クラスに強者がいて逆らいきれず少しでも(程度は問わず)加担した途端、「何があろうと」「問題がある」側になってしまう。それは本当にそうだらうか。
私は、他人から「どちらかというと極端ではっきりとモノを言う」と思われるタイプのようである。理屈っぽくて、相手を論破しようとしているように見えるらしい。あまり自覚はないが、かれこれ三十何年も生きていると、どうやらそう思われているらしいことは想像できてくる。
別に相手を論破しようとしているわけではない。説き伏せようとしているわけでもない。ただ、自分で納得できないことにYESと言いたくないのだ。そして、相手に寄り添おうとして理解しようとすると、どうやら尋問のようになってしまい、結果的にそうみられるようだ。
まあそれはそれとして、私が言いたかったことはそれではない。
どちらかというとはっきり極端にモノを言いがちな私でさえ、「何があろうと」「いじめている方に」「問題がある」と断言するのは危険だと思っている。
この問題には多くの人と多くの事情が関係している。いじめている人、いじめを強いられた人、いじめられるに至った人、それを傍観しているだけと自分では思っているがいじめられている人からすればいじめに加担していると思われる人、それらの人を育てた親、そして学校の教師、親戚の人たち、幼少期に触れた保育園や幼稚園の先生たち。
それら全ての人に、それぞれ思うところ、感じるところ、考えてきたこと、教えてきたこと、それぞれの信念や美学、哲学などがある。いじめとは何か、いじめられるとはどんな状態か、それを「傍観する」とはどの立場のことか。言葉の定義が曖昧なまま、こうした話は共感が共感を呼び、弱者に寄り添うという正義の盾に守られた暴論が成長しやすくなる。
例えば体の大きないじめっ子がクラスにいたとしよう。彼は正真正銘のいじめっ子(この言い方も曖昧だが、反論の余地のないくらい悪い子というような意味で捉えてもらえたらいい)だったとして、ある体の小さい子をいじめのターゲットにした。いじめの過程で、クラスメイトたちにその子をいじめるよう指示をした。体の大きいいじめっ子に逆らうこともできず、クラスメイトたちはいじめに加担することとなった。もちろんいじめの加担度合いはそれぞれの生徒たちによって異なるだろう。
先に共有したツイートでは「何があろうと」「いじめている方に」「問題がある」といっている訳なので、たとえ逆らうことができず嫌々だったとしても、いじめに加担した生徒には「問題がある」と言う事になる。それは、サラリーマンが上から課されたノルマを達成するために、部下にストレスをぶつけるのと、構図としては似たようなものだ。「パワハラやセクハラは、された方が嫌と感じればハラスメントになる」という構図と同じで、いじめはしてはいけない。それはそうだ。
しかし、それは「不本意ながらいじめに加担せざるを得なかった生徒」に「問題がある」ということに、果たして本当につながるだろうか。「これをしなければ自分がいじめられる」と思い加担してしまった生徒の心は、本当に「問題がある」のだろうか。
こうしている瞬間にもいじめは存在していて、いじめる人といじめられる人がいる。不本意ながらいじめに加担してしまった生徒が、この瞬間に先のツイートを見たとして、「自分に問題がある」と思ってしまうことは、ポジティブに捉えられるだろうか。
誤解を招かないように強調しておきたい。私はいじめる側にも事情があるのだから仕方ない、などとは毛頭思っていない。ただ、インフルエンサーが断言するには、あまりに強くて極端な言葉のように感じられたのだ。
私は幸いにも、ドラマや映画で見るような、目を背けたくなるほどのいじめの現場には遭遇して来なかった。いじめはいけない。それは当然の前提だ。だが、その「当然」があまりにも強い言葉で断言されるとき、人の立場や背景、関係性の複雑さが、まるで無視されてしまうような感覚を覚える。
人間関係は単純な構図では語れない。強者と弱者、いじめる側といじめられる側、その間には無数の立場がある。そこには、簡単に明確な境界線を引くことはできない。「傍観者」という言葉ひとつとっても、その背景には恐怖や葛藤、沈黙しか選べなかった理由があったかもしれない。
もちろん、それらがいじめへの加担を正当化する理由にはならない。けれど、「何があろうと」という言葉の強さは、ときに必要以上に多くの人を糾弾する刃になり得る。そのことに、少しだけ立ち止まって考える余白があってもいいのではないかと思う。
すべての人が、自分の置かれた状況で「正しい行動」を即座に選べるわけではない。私たちはもっと慎重であっていい。誰かを守るための言葉が、別の誰かを押し潰してしまわないように。正しさの強さに酔わず、曖昧さや矛盾に向き合う勇気を、私たち大人がまず持ちたいと思う。
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