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【創作大賞2026応募作品】夜が先に知っていた 第6章:会えない夜

朝の色が窓際の白にゆっくりと染まっていくころ、栞は目を覚ました。夜の間にほどけきらなかった眠りの薄い膜がまだまぶたの裏に残っている。カーテンの隙間から入る光は淡く、部屋の隅を急かさない。

布団の中で一度だけ目を閉じる。昨夜の橋を思い出そうとしたわけではないのに、意識は自然とそこに向かった。朔の声の低さよりも、名前を呼ばれた後の自分の呼吸の方が先に胸に戻ってくる。

起き上がって床に足を下ろす。朝の冷たさは前よりやわらいでいたが、季節が完全に軽くなり切る前の少しだけ迷いのある空気が足首のあたりに残っていた。

台所で湯を沸かし、コーヒーを落とす。細い湯気が立ちのぼるのを見ている間、栞は窓を少しだけ開けた。外から入ってきた風は乾いていて、昨夜まで残っていた湿気をどこか遠くへ運んでしまったようだった。

マグを両手で包み、窓際に立つ。通りの向こうでは、早い時間の配達車が低くうなり、少し遅れて鳥の声が短く切れた。朝の街は夜よりも正直で、感情を隠す間を与えてくれない。

それなのに、栞の胸には昨夜の気配がまだきれいに残っていた。カメラの小さな画面、端に写った自分の肩、名前を呼ばれた後の橋の上の少し変わった沈黙、どれも大きな出来事ではないのにこうして朝まで薄まらずにいることの方が不思議だった。

好きになっても、いいですか

その問いは今朝も胸の奥に浮かんだ。前のように急いでいるわけではないが、消えもしない。答えを求めるというよりも、自分がどこまで来てしまったのかを静かに確かめているような感覚だった。

出版社へ向かう道では、前の週よりも少しだけ軽装の人々が増え始めていた。袖をまくったシャツ、薄い色のスカート、信号待ちの列に立つ人たちの影まで、冬の終わりよりも柔らかくなっていた。街はきちんと季節を進めているのに、自分の気持ちだけがそこへ追いついたり、遅れたりを繰り返していた。

古いビルの踊り場には、今日も斜めの光が差していた。窓の端に残った小さな汚れまで見えるのに、その明るさは騒がしくない。古い建物の朝には、使い込まれた食器のような落ち着きがある。

編集部のドアを開けると、紙の匂いが迎えた。昨夜のまま伏せてある見本誌、机の端に寄せられたゲラの束、誰もいない部屋にだけ残るまだ動き出していない仕事の静けさ。栞は鞄を置いて深く息を吸った。

午前の仕事はいつもより少しだけ慌ただしかった。新刊の帯文の修正、急ぎの校正戻し、営業から回ってきた書店用の告知文の相談と、ひとつ終わる前に次の仕事が入ってくる。紙の匂いの中に、人の都合と締め切りの熱が少しずつ混ざっていく。

その忙しさの中で、栞は自分が何度も無意識に時計を見ていることに気づいた。時間を気にする理由は、目の前の仕事のためだけではない。そのことを認めると、胸のどこかが静かに熱くなった。

昼休み、真帆が机に寄ってきて言った。

「栞、今日ちょっと大変そう」

「そう見える?」

「見える。朝から電話多いし」

真帆は自分のカップスープを机に置き、少しだけ身を屈めた。

「夕方の打ち合わせ、私も入ろうか?」

「ううん、大丈夫。たぶん一人の方が早い」

「じゃあ、無理しないでね」

その一言がありがたくて、栞は小さく笑った。無理をしているつもりはないが、今日は夜へ向かう気持ちと仕事の山がどこかでうまく重ならない感覚があった。

午後に入ると、著者から急ぎの電話が一本入った。表現の差し替えについての相談だったが、話しているうちに別の修正箇所まで増え、気づけば予定していたよりも長くなってしまった。電話を切った後、栞はメモに走り書きした指示を見つめながら、ゆっくり息をついた。

窓の外では明るさが少しずつ薄れ、まだ夜ではないけれど、昼の白さはもう引き始めていた。向かいのビルのガラスに映る空も夕方の深さへ片足を入れている。

その頃から編集部の空気は急に忙しくなった。印刷所から戻ってきた確認事項、営業からの問い合わせ、著者への再返信。こういう日はたまにある。ひとつの仕事が別の仕事を呼び、その全部が同じ夜へなだれ込んでくる。

真帆が自分の席から顔を上げた。

「栞、まだ終わらない?」

「今日はちょっと厳しいかも」

「手伝える?」

栞は一瞬迷った。けれど、ここで頼めばたぶん少し早く終わるだろう。その代わり、自分の手で最後まで整えたい部分が残ることもわかっていた。

「ありがとう。でも、最後まで見たいから」

真帆はうなずいた。

「わかった。先に上がるけど、あまり遅くならないでね」

「うん」

真帆が帰った後、編集部は急に広くなった。椅子の背、コピー機の白、窓に映る室内の光。そういうものがひとつずつ、静けさの中に浮かび上がる。昼間はただの仕事場だった場所が、人が減るだけで少し寂しく見えることがある。

栞は画面の前で肩を回し、もう一度原稿に目を落とした。指先が少し重い。視線は文字を追っているのに、心のどこかが橋のほうを気にしている。今ごろあの橋の上にはどんな風が吹いているのだろうかと、考えまいとするほど考えてしまう。

日が完全に沈み、窓ガラスに室内だけが映るころ、栞はようやく最後のメールを送った。送信完了の表示を見届けてから、長く息をついた。背中の奥までじんわりと疲れていた。

時計を見ると、いつも橋に向かう時間よりもずっと遅かった。今から急いでもあの時間には戻れない。そう思うと胸のどこかがわずかに沈んだ。

それでも、橋へ行かないという選択はできなかった。会えるとは限らない。むしろ今日は会えない可能性のほうが高い。しかし、一度も行かずに帰ることのほうが今の栞には不自然だった。

ビルを出ると、夜はもう深くなり始めていた。昼の熱はとっくに抜け、舗道の匂いは乾いた石の冷たさに近づいていた。店の明かりはまだ残っているのに、通りの人影は少なく、街全体が少しだけ息をひそめていた。

川のほうへ曲がる。歩く速度はいつもの帰り道より少し速い。急いだところで何かが取り戻せるわけではないのに、足だけが自然にそうしてしまう。

カフェの前まで来ると、閉店後の窓の灯りが今夜も残っていたが、そこへ重なる影はひとつだけだった。自分の輪郭の後ろに、もうひとつの影はない。わかっていたはずなのに、その事実は思っていたよりも静かに胸に落ちた。

栞は立ち止まらず、そのまま橋へ向かった。風は弱く、人の少ない夜の橋は前よりも広く見えた。いつもなら気配がする位置に何もない。その何もないことがかえって形をはっきりさせていた。

橋の上へ出て欄干に手を置くと、金属の冷たさが今夜の静けさをそのまま指先に伝えてくる。対岸の窓の灯りはいつも通り水面に落ちているのに、景色の見え方だけが少し違う。同じものを見ていても、誰かがいないというだけでこんなにも輪郭が変わるのかと思う。

栞は橋の中央まで歩いた。いつも朔が立ち止まりそうなあたりで自分も足を止めた。風は少なく、水面の光は長く伸びていた。今夜は写真を撮るのに向いているかもしれない、とふと思った。

そう思った瞬間、自分が無意識に彼の視線で景色を見ていることに気づいた。どこに光が落ちているか、どこが静かか、どう切り取れば残るのか、そんな風に橋の上を見ている自分が少しだけおかしくて、少しだけ切なかった。

いないのだ、と栞は改めて思う。ただ今夜は会えない。それだけのことだ。それなのに、そのただそれだけがどうしてこんなに胸の奥を空っぽにしてしまうのだろう。

欄干から手を離し、歩きだす。けれど足はいつもの速度に戻らない。前へ進んでも、どこかでまだ待っている。そんな歩き方だった。

橋を渡りきってもすぐには帰れず、栞は川沿いの道を朔がいつも進んでいく方向へ少しだけ歩いた。探すつもりはない。まだそんな関係ではない。そう思いながらも、視線だけが暗がりの奥を気にしてしまう。

川沿いの空気は橋の上よりさらに静かで、水の匂いが近く、土の冷たさも混じっている。遠くの自動販売機の白が夜のなかで少し浮いて見え、栞は歩きながら自分の胸のざわつきを持て余した。

これまで何度も会えたことのほうがたまたまだったのかもしれないし、あの数夜は偶然が続いただけなのかもしれない。頭ではそう思うけれど、体は納得しない。歩く速度が合うことや、短い挨拶、名前を呼ぶ声に、もう勝手に慣れてしまっている。

朔さん。

心のなかで名前を呼ぶ。声に出さないまま呼ぶ名前は少し寂しい、と栞は思った。そのとき、自分が寂しいと思っていることに初めて気づき、立ち止まった。

誰かに会えなかった夜が、ただ予定がずれただけでは済まなくなる。そういうことが起こるのは、たぶん、その人がもう自分の日々の内側へ入り始めているからだ。栞は欄干の向こうの黒い水を見ながら、小さく息をついた。

引き返して橋に戻る。もう一度渡れば何かが変わるわけでもないのに、そうしないと帰れない気がした。橋の中央に来ると、街灯の光が少しだけ強く感じられた。夜は進んでいる。いつもの時間より遅いから当然だ。でも、その遅ささえも今日は心に響く。

ポケットの中でスマートフォンが震えた。真帆からだった。「まだ会社?それとももう帰った?」たぶん心配してくれているだけだ。栞は少しだけ迷い、橋の上で立ち止まったまま返信した。

今帰るところ。

送った後、画面の白さがまぶしすぎてすぐ電源を落とした。橋の上では文字の光だけが妙に現実的に感じられ、自分の気持ちを整理するには便利なのに、今はその便利さが少しだけ無粋に思えた。

橋を渡り終えた後、栞はようやく帰路についた。 部屋に着き、鍵を閉める音が思ったより大きく響いた。灯りを付けると、いつもの部屋なのに今夜は少しだけよそよそしく感じた。静かな部屋は前から嫌いではなかったが、今日はその静けさが橋の上の空白とつながっているように思われた。

手を洗い、冷蔵庫から出した水をグラスに注ぐ。灯りを受けて、透明な水がやけに冷たく見えた。ひと口飲んでも、喉だけが冷える。胸の内側のざわつきは、うまく鎮まらない。

ソファに腰を下ろして本を開くが、数行で目が止まる。文字の内容は頭に入らず、代わりに今夜の橋の風景ばかりがよみがえる。長く伸びた光、誰もいない余白、画面の端に少しだけ写った自分の肩。そのすべてに朔の不在が影のように重なっていた。

会えなかった、ただそれだけの夜だ。それなのに、そのただそれだけが栞にとっては新鮮だった。これまでなら、誰にも会わない夜も同じだった。帰り道はただ帰り道で、静けさは静けさのまま部屋へと続いていた。

今は違う。会えなかった夜のほうが自分の気持ちをはっきりと見せる。待っていたわけじゃないとずっと思っていたが、会えないことでしか見えないものがある。自分が橋の上の数分をどれほど大事にしていたかを今夜ようやく思い知った。

好きになっても、いいですか?

その問いは今夜、いつもより苦かった。甘く浮かぶのではなく、胸の少し深いところから静かに上がってくる。好きになるということは、相手がいない夜にその不在の形まで受け入れることなのかもしれない。

眠る前、栞はもう一度だけ窓を開けた。夜の空気は冷たくないけれど、肌の上を通るとどこか空いている場所を見つけてそこへ入り込んでくる。橋の上の風もこんなふうに胸の奥の隙間を撫でていたのだろうか、と思う。

翌朝、目が覚めた瞬間から体は少し重かった。眠れなかったわけではないが、夜の間に気持ちがきれいに片付かなかったのだとわかる。窓際の白さは昨日と同じようにやさしいのに、自分だけが少し鈍く感じられた。

鏡の前で髪を整えながら、栞は自分に言い聞かせる。「たまたま会えなかっただけだ。朔にも仕事がある。撮影が長引いたのかもしれないし、別の道を帰っただけかもしれない。何ひとつ不自然なことではない」。

それでも、言い聞かせる必要がある時点で、もう自分は思っていたより深くその人を待っていたのだろう。「待つ」という言葉をまだ使いたくないのに、体のほうが先にそれを知っている。

出版社へ着くと、真帆が先に来ていた。机へ座るなり、栞の顔を見る。

「遅くまでやってた?」

「ううん、帰ったよ」

「そっか。なんか今日、ちょっと静か」

「静か」。真帆は時々、曖昧な言葉で妙に正確なことを言う。栞は曖昧に笑って席に着いた。

午前中、仕事はきちんとこなせた。メールを返し、原稿に赤字を入れ、進行表を確認した。しかし、何かが少しずつ遅れているような感覚があった。目の前のことに集中できないわけではないが、心の奥底にまだ昨夜の橋が残っているのだ。

昼前に写真集の企画について再度話し合う機会があり、プリントを机に広げてどの写真を軸にするか決めていった。川沿いの夜景、窓に映る室内灯、誰もいないベンチ。見れば見るほど写っていない人の輪郭が際立っていた。

「この一枚、いいですよね」

若い営業が指さしたのは空の歩道橋の写真だった。人は写っていないけれど、ついさっきまで誰かが立っていたような温度がある。

「そうですね」

栞はそう返しながら、内心で思う。不在がこんな風に強く写ることがある。いないことそのものがその人の輪郭を濃くする夜がある、と。

夕方まで仕事は続いたが、昨日とは違って今日は終わらせるべきことを早目に切り上げた。昨夜と同じ時間にはしたくなかったからだ。会えるかどうかは分からなかったが、それでも行かずにはいられなかった。

ビルを出る。夜はまだ浅く、空の底に薄く残った明るさが完全に消えきる前の色を保っている。 歩道は乾いており、風は昨日より少しだけ柔らかい。

カフェの前を通る。ガラスに映る自分の影を、一瞬だけ見る。後ろにはまだ何も重なっていない。栞はそのまま橋に向かった。昨夜より早い時間の橋は空の色を少しだけ残している。その分、水面の黒さはまだ浅い。

坂を上がる。胸の奥が静かに鳴っている。期待している。そう認めるのは悔しいのに、もう隠しきれないところまで来ていた。

橋の上へ出て、中央に向かう。風は穏やかで、対岸の明かりはまだ薄く、欄干の金属も昨夜ほど冷えていない。

そのとき、後ろから近づく靴音がした。

急がない。けれど遅くもない。一定の速さで静かに、こちらに近づいてくる。栞は振り返らなかった。振り返らなくてもわかる。その足音を、体はすでに覚えている。

横に気配が並ぶ。昨夜の空白が今夜、そこに埋まる。朔がいる。ただそれだけのことで胸の奥に張っていた薄い痛みがゆっくりほどけていく。

「こんばんは」

朔が言う。

その声を聞いた瞬間、栞は自分がどれだけ昨夜の不在を引きずっていたのかを知った。安心するという言葉が近いけれど、それだけでは足りない。胸のどこかが「戻ってきた」と小さく思った。

「こんばんは」

声はちゃんと出た。けれど、その一言の奥に昨夜会えなかったことまで含んでしまいそうで、栞はその先をすぐには言えなかった。

しばらく二人は黙って歩いた。沈黙は重くない。むしろ、昨夜一晩分空いていた距離を今、ゆっくり埋め直しているような静けさだった。

やがて朔が言う。

「昨日、遅かったんですね」

その一言で栞の足元の感覚が少し変わった。朔もいなかったのではなく、自分の不在に気づいていたのだと、その短い言葉でわかった。

「はい」

栞は答える。

「仕事が長引いてしまって」

少し間を置いてから、栞は続ける。

「来たんですけど、遅くて」

最後の言葉は自分で思っていたよりも小さく、言い訳のように聞こえたかもしれないと思ったが、朔はそうは受け取らなかった。

「僕も昨日は撮影が延びて」

彼もゆっくりと言った。

「通れませんでした」

その説明があることに栞は胸の奥が静かに熱くなった。聞いてもいないのに言ってくれたそのことが昨夜の空白に小さく灯りをともした。

「そうだったんですね」

「はい」

短い返事のあと、朔が少しだけ笑う気配を見せた。

「ちょっと、気になってました」

その言葉は夜の風よりも柔らかく栞に届いた。気になっていた、その言い方は軽すぎず重すぎず、ちょうど今の関係を表している気がした。

栞はすぐに返事ができなかった。うれしいのだと思う。けれど、そのうれしさをそのまま表に出すには、まだ少しだけ勇気がいる。

「私も」

ようやくそう言った。

「……少し」

少し、と自分で言っておきながら、その曖昧さに少し救われた。全部を言い切らなくていい、その余白が今はまだ必要だった。

朔は何も付け加えなかった。ただ、小さくうなずく。そのうなずきが、言葉の続きを無理に求めないところに、栞はまた救われる。

橋の中央に来ると、風が少し変わった。川上から流れてきた冷たさが街灯の輪の下を抜け、二人の間を静かに通り抜けていく。二人は触れ合っていないが、今夜の距離はこれまでよりわずかに近い気がした。

昨夜会えなかったその一晩分の不在が今ここに小さな温度差を生んでいる。失いかけたわけでもないのに戻ってきたことがこんなに胸に響く。

「昨日、橋に来たんですか?」

朔が聞いた。

「はい」

栞は正直に答えた。

「少しだけ」

「……僕も、来たかったです」

その言葉は低く、夜のなかへ静かに落ちた。 来たかった。 そのたった一言が昨夜の橋に新しい輪郭を与え、空白だった時間にあとから意味が差し込んでくるようだった。

二人はしばらく黙っていた。今夜の沈黙は深かったが、前みたいに水面の底をのぞき込むような静けさではなく、そこに小さな光が届いているような感覚があった。会えなかった夜を挟んだことで、黙っていても相手の不在と存在を意識してしまう。

「仕事、大変でした?」

朔が聞いた。

「昨日は」

栞は少しだけ笑った。

「机の上が、ずっと片づかなくて」

「わかります」

「朔さんも?」

「撮影の後って、意外と終わらないので」

栞はその言い方に興味を引かれた。

「撮ったら終わりじゃないんですね」

「終わらないです」

朔は短く息をついた。

「戻ってから確認して、抜いて、並べて、やっと少し落ち着きます」

その手順を聞くだけで、彼の夜の時間が少し見える気がした。橋を歩いている時には見えない、別の場所の呼吸がある。

「編集と少し似てますね」

栞が言うと、朔はうなずいた。

「たぶん」

少し間を置いてから朔は続けた。

「だから、栞さんと話してると変な感じがしないのかもしれません」

その一言に、栞は小さく息を止めた。変な感じがしない。橋の上で黙っていても、話していても、どちらも無理がない理由が今、少しだけ言葉になった気がした。

「私も、そうです」

栞は正面を向いたまま言った。

「ちゃんと黙っていられるし、話しても急がなくていい感じがします」

朔はその言葉を受け取るようにしばらく何も言わなかった。返事がないのではなく、急がない間がそこにある。そのこと自体が今の二人にはもう会話に近い。

向こうからスーツ姿の女性が早足でやってくる。二人は少しだけよけて道をあける。すれ違うとき、女性のコートから石けんみたいな清らかな香りがした。夜の橋では他人の香りさえも、一瞬だけ心に響く。

女性が去った後、朔が小さく言った。

「昨日、いないのがわかると」

そこまで言って、一度言葉を切った。

「橋が広かったです」

その言い方に、栞の胸が静かに苦しくなる。わかる。自分だって同じことを思った。橋は広かった。風も、水も、灯りも、何もかもそのままなのに、誰かがいないだけで急に広く感じられた。

「私も、そう思いました」

栞は答えた。

「同じはずなのに、違って見えて」

「はい」

朔の声は低いが、その低さの奥に昨夜の不在と今夜の安堵が同じように混ざっている気がした。

それ以上は言葉を足さないほうがよいと思った。言いすぎると、今、橋の上にある静けさを壊してしまいそうだった。2人はまた黙って歩き出した。

今夜の沈黙は前よりも近い。触れそうな距離というのはたぶん物理的な話だけではない。言葉を足さなくても相手の胸の中で自分がどんなふうに揺れているのかを少しだけ想像できてしまうことなのかもしれない。

橋の中央近くで朔が立ち止まると、栞も止まった。朔はカメラを出さず、代わりに水面を見て少しだけ目を細めた。

「今日は、撮らないんですか?」

栞が聞くと、朔は首を横に振った。

「今日は、見てるほうが良い気がして」

「そういう日、またんですね」

「はい」

朔は少しだけ笑った。

「たぶん、今夜はこっちです」

今夜はこっち、という言い方が好きだ。写真ではなく見る方、残すのではなくそのまま受け取る方、その選び方がこの夜に似合っていた。

「私も」

栞は言う。

「今日は、見てるほうが良いかもしれません」

二人は並んで水面を見る。対岸の灯りが長く落ち、風に揺れ、また戻る。街の音は遠い。橋の上だけがほかの時間と少し切り離されている。

朔の袖がほんのわずかに揺れた。触れてはいないけれど、同じ風を受けているとわかるだけで距離は前より近く感じる。会えなかった一夜がそのわずかな近さを教えてくれた。

やがて朔が歩き出し、栞も続く。下り坂に差し掛かるころ、朔が言う。

「明日もたぶん遅くはならないです」

その言い方に栞は少しだけ顔を上げた。約束ではないが、約束より少し手前のものとして置かれた言葉だった。

「私も、たぶん」

と栞は返した。二人とも「たぶん」を使う。その曖昧さが今の関係にはちょうどいいと思う。きれいに約束してしまうより、同じ時間へ自然にむかうほうがまだ似合っていた。

別れ際、朔は今夜も小さく言った。

「また、栞さん」

栞も返す。

「また、朔さん」

その挨拶は昨夜より少し深く、けれど甘すぎず、ちょうどいい重さで胸に落ちた。

家へ帰る道中、栞は昨夜の寂しさがきれいに消えていることに気づいた。会えなかった夜があったからこそ、今夜の短い会話や沈黙の近さが前よりもはっきりと感じられる。失いかけたわけではないが、会えないというただの一夜が、会えるということの輪郭を静かに際立たせたのだ。

部屋に着き、灯りをつける。 いつもの白い壁、小さなテーブル、整然とした本棚。どれも同じはずなのに、今夜は少しだけやわらかく感じられる。静かな部屋が前ほど空っぽに見えないのは、胸の奥に橋の気配がまだ残っているからだろう。

水を飲み、ソファに座る。ページを開こうとして栞は手を止めた。今夜は読めないのではなく、読まなくても満ちている。そういう夜がある。

会えない夜を一度知ってしまったことで、自分が朔のいる帰り道をどれだけ待っていたのか、もうごまかせなくなっている。「待つ」という言葉がまだ少し照れくさいのに、胸のほうが先にそれを覚えてしまっていた。

好きになっても、いいですか?

その問いは今夜、前よりも静かだった。答えを迫らないまま、ただ深く沈んでいく。問いが甘くなるのではなく、落ち着いていく。そんな変わり方もあるのだと栞は思った。

眠る前、窓を少しだけ開ける。夜の風がカーテンをやわらかく押した。橋の上で受けた風と同じではないが、あの場所の冷たさに似たものが胸に戻ってくる。

会えない夜があって、そのあとでまた会える。それだけのことが、こんなに深く体に沁みる。栞は暗がりの中で目を閉じ、自分の気持ちがもう元の場所には戻らないのだと静かに悟った。

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