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【創作大賞2026応募作品】夜が先に知っていた 第5章:触れない熱

朝の光はいつもより少しだけやわらかく見えた。白いカーテンの向こうで街の輪郭がまだ決まりきらないまま明るくなり始め、その曖昧な白さが部屋の隅へゆっくり広がっていった。栞は目を開けたまましばらく天井を見ていた。

昨夜、橋の上で呼ばれた自分の名前がまだ胸の奥に残っていた。「栞さん」と朔の声で呼ばれたあの短い瞬間だけが、眠っている間もきれいに薄れなかった。

名前を知っただけだ、と栞は思った。たったそれだけなのに、夜の橋がもう前とは同じ場所に見えない。人は言葉をそんなに多く交わさなくても、名前ひとつで距離の形を変えてしまうらしい。

布団を出て床に足を下ろすと、春の終わりの朝は見た目よりもまだ少し冷たかった。台所で湯を沸かし、コーヒーを淹れ、パンを焼く。いつもの順番だ。しかし、その何気ない日常のなかに、昨夜の橋の気配だけが細く混ざっていた。

窓を少しだけ開ける。外の空気は乾いていた。雨の名残は消え、代わりに舗道が夜の湿り気を置いていった後の淡い石の匂いだけが漂っている。向かいの建物の壁に朝の白が登っていくのを見ながら、栞はマグカップを両手で包んだ。

名前を呼ばれたことが、こんなに静かに体に染み込むとは思いもしなかった。恋人に呼ばれたわけでもないし、長く知っている人に親しく呼ばれたわけでもない。ただ、まだ数えるほどしか会っていない人の声に自分の名前が乗っただけだ。

それでも、そのたった一度のことで栞の朝の光の見え方は少し変わってしまった。単純だと思う。けれど、気持ちというものはたぶんもっと些細なことで形を持ち始める。

鏡の前で髪を整え、少し下を向いて息をつく。その仕草を自分で見ながら、栞は最近、自分の感情が顔に出やすくなっているのかもしれないと感じる。夜の橋のことを、心の奥底にしまいきれなくなっているのだ。

出版社へ向かう道では、朝の街がすでに忙しかった。駅へ急ぐ靴音、交差点で一斉に向きを変える人の流れ、開けたばかりの店先から漂う洗いたての床の香り。昼に向かう東京には、誰かの気持ちに長く立ち止まる余地がほとんどない。

古いビルの踊り場には、今日も細い光が差していた。窓の端に残った小さな汚れまで見えるくらい明るいのに、その明るさはどこか控えめで朝の気配を静かに置いていく。

編集部のドアを開けると、紙の匂いが迎えた。乾いたコピー用紙、昨夜のまま閉じられた見本誌、誰かが机の隅に置いて帰った付箋の糊の匂い。そういう細かなものが混ざり合って、この部屋にしかない朝の空気になる。

今日は写真集の企画資料から取り掛かった。昨夜まで見ていた、ある若い写真家の案だ。人物のいない都市の写真ばかりなのに、どこかに人の息づかいが残っている。ページをめくるたび、光と影の間に言葉にできない体温を感じる。

朔が撮る写真もこういうものなのだろうか。まだ実際に見たことはないが、カメラを構えずに景色を見るときのあの目を思い出すと、何を撮るかよりも何をそのまま残したいと思っているのかのほうが気になった。

真帆が出社してきたのは、窓際の白さに少しだけ金色が混ざり始めたころだった。席に着くなり、伸びをしながら栞を見た。

「今日、ちょっと眠そう」

「そう?」

「眠そうというか、ぼんやりしてる」

「それはいつもかも」

「今日は違う。ぼんやりが柔らかい」

言い方がおかしくて栞は笑ってしまう。真帆は「ほら、今そういう顔する」と得意そうに言って自分の席へ戻った。

午前の仕事は途切れなかった。著者からの返信、印刷所への確認、営業との短いやり取り、紙の在庫の相談……ひとつ終わると次が来る。忙しいのに、橋の上の静けさだけが意識の端に消えずに残っている。

昼に近づくころ、外の光が少し硬さを増した。真帆がコンビニの袋を机に置いて言った。

「そういえば今日、夜あいてる?」

「たぶん」

「その、たぶん、最近好きだね」

「便利だから」

「曖昧にしたいことがある人の言葉だよ、それ」

真帆は笑ってサラダのふたを開けた。栞も笑い返したが、心のどこかで少しだけ見透かされた気がした。曖昧にしておきたいことはたしかにある。まだ自分でも触れきれていない、夜の橋の向こう側のようなものが。

午後、著者との電話が長引いた。エッセイの見出しについての相談だった。はっきり言いすぎると浅くなるし、ぼかしすぎると読者に届かない。そのちょうど間を探る話し合いの途中で、栞はふと今の自分の気持ちも同じところにあると思った。

好きとも違う。けれど、ただ気になるだけとも言い切れない。名前が付いたことで距離は変わったのに、その変化を急いで結論にしたくない。今はそんな曖昧さの中にいる。

窓の外の明るさが少しずつやわらぎ始め、白かった空が薄い灰色を帯びてくる。その向こうから、夜の気配がじわじわと漂い始める。夕方の始まりはいつも静かだ。しかし、その静けさの下で街全体が少しずつ動きを速めている。

真帆は帰り支度をしながらコートの袖を通した。

「栞、今日も先に帰る?」

「うん、今日はもう上がる」

「最近、ほんとうに早いね」

「仕事は終わってるよ」

「そこを疑ってるわけじゃないんだけど」

真帆は言葉を切り、少しだけニヤリとした。

「帰り道が充実している人の顔をしている」

その言い方に、栞は返事ができなかった。真帆はすぐに笑って、「じゃあまた明日ね」と言い、手を振って出ていった。軽く言われた一言なのに、栞の胸には小さく残った。帰り道が充実している、と。そんな風に言われる日が自分に来るなんて、少し前までは考えもしなかった。

仕事を終え、電気を落とし、ビルを出る。外の空気は昨日より軽く、風は強くないものの、川のほうから吹く涼しさははっきりと感じられた。夜になりきる前の清澄白河は、舗道の匂いがきれいだ。車の熱が引ききったあとに残る、乾いた石と金属の匂い。その上を、店先から漂う食べものの温かい匂いがゆっくりと横切っていく。

花屋の前を通る。今日は薄い青の花が多い。バケツの水に沈んだ茎の匂いが冷たくて、その青さが余計に深く見えた。夜が近づくと、色は明るくなるのではなく奥行きを持つのだと思う。

カフェの前まで来ると、今夜は窓が曇っておらず、店内の灯りが奥までよく見えた。椅子はすでに片付けられ、カウンターの木の表面だけが柔らかく光っている。そこへ映った自分の後ろに、もうひとつの輪郭が自然に重なる。

朔が来ているとわかった瞬間の気持ちは、前のような驚きではなかった。もっと静かなものだ。胸の奥に張っていた薄い膜がふっとやわらぐ感じに近い。「見つけた」というより「戻ってきた」というほうが近いのかもしれない。

橋へ上がる坂に差し掛かると、彼がいつもの位置に並んだ。今夜はしばらく言葉がなかったが、その沈黙は空白ではなく、言葉の手前にあるちょうどいい厚みの時間だった。

「こんばんは」

朔が先に言う。

「こんばんは」

栞も返す。「朔さん」と名前をつけて呼びたくなる。けれど、今すぐそれを足すのは少し違う気がして、そのまま言葉を閉じた。呼びたいと思ったこと自体が、もう前とは違う。

今夜の川は光を細く伸ばし、風が弱い分、対岸の窓の明かりが長くまっすぐに落ちていた。水面は暗いのに、そこに乗る光だけが頼りなく明るく輝いていた。

中央近くまで来たところで、栞はふと思い出したように言った。

「今日、写真集の企画を見ていました」

朔が少しだけ視線を向ける。

「どんな写真集ですか?」

「人物がほとんど写っていないんです」

栞は歩きながら言葉を探した。

「でも、人がいた感じは残っていて。窓とか、橋とか、道とか」

朔は小さくうなずく。

「そういうの、好きです」

その返事に栞は少しだけ嬉しくなった。自分が今日見ていたものと彼が夜ごとに見ているものが完全ではなくても、どこかで重なっている気がした。

「朔さんも、そういう感じなんですか?」

自分の口から自然に名前が出たことに言ってから気づいたが、引っ込めるほどのことでもない。朔は一瞬だけ目を細めてから答えた。

「たぶん」

その短い返事が妙にやわらかく、名前を呼ばれたことに彼も気づいたのかもしれないと思うと、栞の胸は少しだけ熱くなる。

「人を撮るのも嫌いじゃないんですけど」

朔は続ける。

「人がいなくなった後のほうが、残るものが多い気がして」

栞は、その言葉を心の中で繰り返した。残るものが多い。何を失ったとか、何が足りないとかではなく、まだそこに留まっているものを見ている人なのだと思う。

「わかる気がします」

栞は言った。

「書いた人が全部言わなかったところのほうが、その人らしいこと、ありますよね」

「編集者っぽいですね」

朔が少し笑う気配を見せるので、栞も口元だけで笑った。

「たぶん、そうなんだと思います」

二人はまた黙る。会話のあとに戻ってくる沈黙が前よりも深い。話したから近づくのではなく、話してもなお沈黙が居心地よいことで距離が変わっていくのだ、と栞は思った。

向こうから中年の男性が犬を連れて歩いてくる。犬は小さく、白い毛が街灯の下で少しだけ光っていた。二人が道を譲ると、その犬は栞の足元で一度だけ立ち止まり、すぐに飼い主に連れられて進んでいった。

「今日は警戒されなかったですね」

朔が言う。

「前はたしかに見られていました」

「僕のバッグのせいで」

その言い方がおかしくて、栞は声を立てずに笑った。橋の上で笑うと、音よりも先に肩の力が抜ける。朔も同じように、少しだけ息を緩めるようにして笑った。

橋の中央を過ぎたところで朔が立ち止まった。今夜はカメラを出すらしく、バッグから取り出した小さな黒い機材は街灯の下で角だけが銀色に光っていた。

「今夜も、今だけですか?」

栞が聞くと、朔はファインダーをのぞく前に答えた。

「今夜は、もう少しかもしれません」

その言い方が少しだけ新鮮で、栞は自然に彼の手元を見た。指の置き方が静かで、大げさに大事にするわけではないのに、道具に触れる手つきに迷いがない。

乾いたシャッター音がひとつ鳴り、続いてもうひとつ鳴った。朔はすぐに画面を確認せず、少し遅れてからようやく視線を下げた。

「見ますか?」

唐突ではなかったが、栞は一瞬だけ息を止めた。見たい、と思うのに、その一言の中には今までよりもう少し近い距離が含まれている気がした。

「いいんですか?」

「はい」

栞は小さくうなずき、朔の隣に一歩だけ近づいた。いつも橋の上で保っていた距離が、画面をのぞくために少し縮まった。肩が触れるほどではないが、今までよりずっと近い。

カメラの小さな画面には川に落ちた灯りの筋が映っていた。肉眼で見ていた光よりも少しだけ冷たく、少しだけ静かだ。しかし、その静けさの中に橋の呼吸が残っている。

「きれい」

思わずそう言った。栞の声は、自分でもわかるくらい近くで響いた。

「今のほうがもっときれいですけど」

朔は画面を見たまま言った。

「残すと少し減ります」

その言葉に、栞は胸の奥を掠められた。写真なのに「減る」と言う。増えるでも固定されるでもなく、少し減る。その感覚があまりにも本当らしかった。

「でも、残したくなるんですね」

「はい」

朔は短く答える。

「減るのがわかっていても」

栞はもう一度画面を見た。灯りの筋の端に、わずかな黒い影があった。最初は欄干かと思ったが、よく見ると画面の片側に誰かの肩らしいものが少しだけ写っていた。

「これ」

栞が言うと、朔も気づいたようだった。

「入ってますね」

「誰か」

そう言ってから栞は、自分で少し笑った。誰かではないかもしれないと思ったからだ。黒い布地の形が自分のコートの肩に似て見えた。

朔は視線を上げずに言った。

「たぶん、栞さんです」

その一言で胸の奥が静かに跳ねた。画面の端に輪郭ですらないほど少しだけ映り込んだ自分。それだけのことなのに不意打ちのように近い。

「すみません」

朔が言う。

「勝手に入ってしまって」

「いえ」

栞はうまく笑えなかった。

「……なんか、変ですね」

何が変なのか、自分でもうまく説明できなかった。写真に自分が写り込んでしまったことなのか、それとも、朔が見ていた景色の中に自分が少しだけ含まれていたことなのか。どちらもたぶん本当だった。

「消しますか?」

朔の問いは静かだった。消して当然だと言いたげでもなく、そのまま残したいとも言わない。選ばせる感じがある。その慎重さがかえって心を揺さぶる。

栞はすぐに答えられなかった。消したほうが自然だ、と思う。けれど、消してしまうのが惜しい気もした。たった少し、影みたいに写っているだけなのに。

「……そのままで」

ようやくそう言うと、朔は短くうなずいた。

「わかりました」

それ以上何も言わない。そこがありがたかった。もし意味が付け加えられたら、今の気持ちはもっと扱いにくくなっていたと思う。

二人はまた歩き出した。今までより少しだけ近い空気がそのまま残っている。離れれば戻せる距離なのに、どちらも急いで元の位置に戻ろうとはしない。その半歩分の迷いが触れそうな距離なのかもしれない。

栞は欄干の向こうを見るふりをしながら、自分の肩がまだ熱を持っているのを感じていた。実際には触れていない。ただ、同じ画面を見るために近づいただけだ。それなのに体は、そういう理屈では動かないらしい。

「栞さん」

朔が言う。

名前を呼ばれるたびにまだ少しだけ胸が揺れる。栞は視線を上げる。

「さっきの、嫌じゃなかったですか?」

写真のことを言っているのだとわかる。あの問い方がこの人らしいと思う。自分がどう感じたかをあとからちゃんと確かめるところが。

「嫌じゃなかったです」

栞は答える。

「ちょっと、びっくりしただけで」

朔はそれを聞いて、ほんの少しだけ息をつくように笑った。

「よかった」

その小さな安堵に、栞は胸の奥がまた熱くなるのを感じた。自分の気持ちがこんな風に誰かを安心させることもあるのだと思うと、それだけで距離が変わってしまう。

下り坂に差し掛かる少し手前で、川下から船の低い音が聞こえた。今夜の水は黒く深い。しかし、そこへ落ちる灯りだけが頼りないほどに美しかった。

「朔さん」

今度は栞が名前を呼んだ。名前を呼んだだけで、少しだけ近づいたような気がした。

「はい」

「今まで撮った写真、たくさんあるんですか?」

朔は少し考えてから答えた。

「増えてます」

「見返したりしますか?」

「します」

「どんなときに?」

質問が少し多いかもしれないと思ったが、今夜は聞いてみたい気持ちのほうが強かった。朔は面倒そうな顔はしないが、すぐには答えない。

「戻りたいわけじゃないんですけど」

やがてそう言った。

「ちゃんと見てたか、あとで確かめたくなることがあります」

その言葉に栞はしばらく返事ができなかった。ちゃんと見ていたかを確かめる、という感覚はあまりにもよくわかる。自分でも、原稿を見返すときに直したかったからではなく、そのときの自分がちゃんとそこにいたかを確かめたいだけだということがある。

「わかります」

ようやくそう言った。

「その感じ」

朔は何も返さなかったが、その沈黙は十分だった。同じ感覚を持っていることが言葉を増やさなくても伝わった。

別れ際は今夜も短かったが、短いのに今までで一番名残惜しかった。朔は少しだけこちらを見て言った。

「また、栞さん」

栞も返す。

「また、朔さん」

声に出した名前が今夜は前よりも自然で、そのことが嬉しかった。嬉しいのにどこか危うい気もした。自然になるということは距離が変わってしまうことだからだ。

家へ帰る道中、栞は何度もカメラの小さな画面を思い出した。灯りの筋、黒い水、端に少しだけ写り込んだ自分の肩。自分でも信じられないほど些細なことなのに、その写真が胸の奥にしっかりと残っている。

部屋に着き、鍵を閉める。灯りをつけ、靴を脱ぎ、手を洗う。いつもの順番は変わらないが、今夜の部屋の静けさは少しだけよそよそしく感じられる。さっきまでいた橋の空気のほうが体に馴染んでいるからかもしれない。

水を飲み、ソファに腰を下ろす。窓の外の夜は深い。街はまだ起きているのに、自分の部屋だけ少し早く静かになったような気がする。

写真に自分が写っていたのは、ただそれだけのことだ。それなのに、そのことを思い出すたびに胸のどこかに指先で触れられるような感覚がある。

触れてはいない。けれど、触れそうな距離まで近づいたのだと、今夜ははっきりわかってしまった。その距離が甘いのか、危ういのか、まだよくわからない。たぶんどちらもある。

本を開き、数行読むとまた止まる。親指でページの端をそっと撫でる。栞は思う。自分はもう、前みたいには戻れないのかもしれない。名前を知る前の夜にも、写真に写り込む前の距離にも。

それが怖いとはまだ思いたくないが、怖さに似たものがうれしさのすぐ隣にあることだけは知っていた。人を好きになる前の気持ちは案外そういうふうにできているのかもしれない。きれいに分けられないものが静かに同じ場所へ集まってくる。

枕に頬をつけて灯りを消す。暗闇に目が慣れるまでの短い間に、橋の上の風がまた胸に戻ってくる。朔の声、カメラの小さな画面、消さずに残した端のほうの自分。

好きになっても、いいですか?

その問いは今夜、前より少しだけはっきり形を持った。まだ答えはない。けれど、答えのないままでも、もう引き返せない場所に来ている気がした。

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