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君を抱いて、夜【小説】

そっと息を殺すのにも疲れた僕は、なるべく隣の君にぶつからないように、そうっと、布団から抜け出した。

寝室の扉を音もなくあけ、閉め、ちょっと安心して冷蔵庫をわざと音を立てて開ける。世界が分けられる前は、眠っている君を起こさないように、どうにも緊張してしまう。分厚い扉があってよかった。こぽこぽと牛乳をマグに注ぐ音が耳に心地よいから。
600Wで1分。ぬるい牛乳の半分を普通に飲み、残り半分にはバニラエッセンスとガムシロップ。よく料理をする君のおかげで、ちょっとしたフレーバーはこの家にたくさん揃っている。賞味期限切れに気がつくのは、だいたい僕の方だけれど。
チン、とレンジの音が立つと、僕は僅かに寝室のドアを開けた。仄暗い灯りの中、眠る君を見ながらソファーに腰掛ける。牛乳をひとくち、それから相棒のMacBookを立ち上げて。

「…………うっし」

〆切が近い。集中しなくては。
いつからだろう。僕は夜行性になってしまった。眠ろうと努力してみなかったわけではないけれど、今ではもう諦めている。ぬるい牛乳を飲む習慣だけを手に入れて、僕は今日も静かにパソコンと向き合うのだ。
一行、二行。五行。呼吸の音さえも憚りそうな空間に、僕の指のタップダンス。今描いているエッセイの主題は、隣の部屋でまだ静かに寝息を立てている。規則的なその音と共鳴するように、指は踊る。踊る。この言い知れない調和が愛おしくて、これも悪くないな、なんて、柄でもないか。牛乳の最後の一滴を飲み干すと、まとわりつくような甘さが舌に絡んだ。


「っ、う、うう……」

ずっと、そば立てていた耳が、小さな音を拾う。しんと降りた闇の中でなければ、気がつかないような音。小さな小さな、悲鳴にも及ばないような、呟き。
僕はパソコンを閉じて立ち上がる。歩く。座る。音を立てないように。

「……大丈夫」
「う、うっ、……」
「大丈夫。大丈夫だよ……」

大丈夫。
大丈夫。
僕はここにいるよ。

手に入れたものはもう一つあった。君の呟きに応える権利だ。少しずつ平常に戻っていく呼吸を眺めて、僕は握られている指を優しく折り曲げた。大丈夫。僕はここにいる。誰にも知られずに泣く君の、ただひとりの生き証人であり同伴者。
きっとこのためだ、このためなのだ、僕が眠れないのは。


君の寝息が深くなる。とぷりと深くなった闇に抱かれ、君はほんの少し幸せそうに眠りにつく。それでいい。この優しい夜の胸の真ん中に抱きしめられていて欲しい。
僕は、夜と一緒にそれを見守っているから。
すう、と息を吸い込んで、今度はココアパウダーを散らした牛乳を作ることにした。少しずつ日の出が近づく午前3時、どうも部屋の空気が少し、微笑んでいるような気がした。

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