「奥の枝道 其の六 京都・神社仏閣編(下) レキジョークル」感想
noteで活躍されている千世さんの著作「奥の枝道 其の六 京都・神社仏閣編(下) レキジョークル」の感想です。
★千世さん著作のAmazonサイト紹介
前作「其の五 京都・神社仏閣編(上) 」も面白かったです(^o^)v
★レキジョークルのYouTubeサイト紹介
★千世さん記事紹介
奥の枝道 其の六 京都・神社仏閣編(下) 感想
●44ページ
趣向を凝らせた庭たち
京都といえば建築物も素晴らしいですが、庭園や寺院の中にある庭も風景の一つとして、立派に成立します。
私は、枯山水の庭であれば、「砂利の模様」や「石の配置」などから風景を想像して楽しみます♫
●52ページ
申し込みシステムの改修
観光切符、周遊割引クーポンなどは、現物としての魅力はあるもののオンラインサービスに押されています。JR含め有人窓口が案内パネルなどに置き換わっているので、今後も観光サイトのDX化は進むのでしょう。
利用者側としては、申込みシステムの操作性の課題は残りますね。やっぱり、観光したいエリア全体のサービス券を1つにまとめた電子チケット(QRコード、LINEクーポン)や観光案内所とかは欲しいです。
●75ページ
瀬田の大橋
橋は戦略的・軍事的施設であり、河川の多い日本においては欠かせない存在です。
「瀬田の大橋」は数え切れないくらい武将や大名の往来があった場所だと思います。後半で少し深堀りしてます☆
●143ページ
下賀茂神社
「水おみくじ」はかなり珍しいタイプだと思います。埼玉の大宮氷川神社など「水」に関わる神社で見かけます。
おみくじは、引いたあとは社務所の脇などに括っておく場所があり、たくさんの方が結んでいます。運勢の善し悪しに関わらず「水に流す」ということですね(笑)
●168ページ
初の特別名勝
木々や草花の情景豊かな庭園も魅力だと思いますが、私も「禅寺の庭」が好きです。
もともと「小さい庭」も好きなので、最近はYouTubeで「箱庭」や「苔テリウム」を作る動画を見て癒やされます♫
●181ページ
「麒麟がくる」長谷川博己さんの明智光秀
よかったですよね〜。信長との愛憎ふくめた人間模様とか。
今回の大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、要潤さんが演じます。
個人的には、「山崎の戦い」がどうやって描かれるのかを注目しています。この戦いで、豊臣秀長(当時は羽柴姓:仲野太賀さん)は先鋒を務めたので、要潤さんとどう戦うのか楽しみです!
「山崎の戦い」も後半で少し深堀りしてます☆
●214ページ
蹴上インクライン
傾斜鉄道(インクライン)っておもしろいですね。大井川鐵道の「南アルプスあぷとライン」(アプト式列車)も有名なようです。
私は、箱根登山ケーブルカーに乗った事があるのですが、列車に乗りながらハイキングをできてしまうのは、最高です!
ゆっくり走る登山鉄道もよいです〜
感想は以上ですm(_ _)m
瀬田の大橋について
史跡としての価値も高い「瀬田の大橋」について、GoogleAIのGeminiに聞いてみました!
【質問】
瀬田の大橋はいつからあるの?何回、改修された?
【回答】
滋賀県大津市の瀬田川に架かる瀬田の唐橋(せたのからはし)ですね。「唐橋を制する者は天下を制す」と言われたほど、歴史的に重要な場所です。
1. いつからあるの?
正確な創建時期は不明ですが、記録に残る限りでは**古墳時代(4世紀頃)**にはすでに原型となる橋があったとされています。
文献上の初出
日本書紀に、672年の壬申の乱の舞台として登場します。この時、大友皇子側が橋板を外して軍勢を阻もうとした記録があるため、飛鳥時代にはすでに立派な構造の橋が存在していました。
場所の変化
昔の橋は、現在の場所よりも約80mほど南側にありました。現在の位置に移ったのは、1575年に織田信長が架け替えた際のことです。
2. 何回、改修された?
結論から言うと、**「数えきれないほど」**行われています。 瀬田の唐橋は交通の要所であり、戦乱に巻き込まれて焼失したり、洪水で流されたりすることが非常に多かったためです。
主な大きな節目となる改修・架け替えは以下の通りです。
《年代主な出来事・改修内容》
672年 壬申の乱。戦術として橋の一部が破壊される。
1575年 織田信長による大改修。現在の位置に橋を移し、木造の立派な橋に。
1892年(明治25年)近代的な木造橋として架け替え。
1924年(大正13年)負荷に耐えるため、鉄筋コンクリート製の橋に改修。
1979年(昭和54年)現在の姿に架け替え。景観に配慮し、擬宝珠(ぎぼし)のある伝統的なデザインを継承。
信長が大改修をしていたのは、ちょっと意外でした。
琵琶湖を支配していたので、京と安土を結ぶ水路だけでなく、陸路としても大切にしていたのでしょうね。
もし、天下布武が実現して平和な時間ができたら、信長なら琵琶湖の北岸に「別の大橋」を作りそうだなと、思いました。
もしくは天皇を安土に行幸させるための琵琶湖専用の「巨大な御座船」を建造するとか。
はたまた、京で行った馬揃え(軍馬による閲兵式)ならぬ「船揃え(軍船による観艦式)」を琵琶湖一面に展開し、それを安土城の天守閣から見れる「水上ショー」として開催するとか(笑)
「山崎の戦い」と羽柴秀長について
大きな勝負どころになることを意味する「天王山」という言葉がありますが、1582年の羽柴秀吉と明智光秀の「山崎の戦い」で、秀吉が天王山を制して勝利したことが由来とされています。
このあたりをGoogleAIのGeminiに聞いてみました。回答の中に瀬田の大橋も出てきました!
①山崎以外での戦い方
【質問】
本能寺の変後、もし京都・奈良の仏教勢力が味方した場合、
明智光秀はどこで羽柴秀吉を迎え撃てば勝てた?
【回答】
もし京都の有力寺院や、奈良の興福寺・延暦寺といった巨大な仏教勢力が光秀に味方していたら、戦略のスケールは一気に変わります。
その場合、光秀が秀吉を迎え撃つべき場所は、山崎のような狭い一点突破の場所ではなく、**「近江(大津・坂本)から京都・奈良を繋ぐ巨大な防衛網」**を展開することだったでしょう。
具体的には、以下の3つのポイントを組み合わせた持久戦が勝利への鍵となります。
1. 瀬田の唐橋を落とし、大津で封じ込める
光秀は本能寺の変直後、瀬田の唐橋を焼かれて近江への進出を阻まれました。もし宗教勢力の協力があれば、逆にここを**「難攻不落の要塞」**にできます。
・延暦寺(比叡山)の活用
かつて信長を苦しめた比叡山のネットワークを使い、北近江から南下してくる織田軍(柴田勝家ら)を牽制。
・補給線の遮断
琵琶湖の水運を宗教勢力がコントロールすれば、秀吉軍への兵糧補給を断つことができます。
2. 「京都・奈良」を巨大な要塞都市にする
当時の寺社勢力は、単なる宗教団体ではなく、武装した僧兵と堅牢な堀・土塁を持つ**「城郭都市」**でした。
・奈良(興福寺・東大寺)
筒井順慶が光秀に味方し、さらに奈良の僧兵が加われば、大和路(奈良側)からの秀吉軍の侵入を完全に阻止できます。
・京都(一向一揆・町衆)
京都の町衆や寺院が光秀を支持すれば、秀吉は「天皇のいる京を火の海にする」リスクを負えず、強引な攻めができなくなります。
3. 決戦の地:宇治・巨椋池(おぐらいけ)周辺
山崎で戦うのではなく、秀吉をより広い宇治・巨椋池エリアに引き込みます。
地形の利
当時の京都南部には広大な「巨椋池」がありました。
戦術
秀吉軍が京都へ入ろうとするルートを限定させ、仏教勢力の僧兵がゲリラ戦を展開。光秀の本隊が宇治川を背にして防衛線を張れば、秀吉軍は泥濘地での戦いを強いられ、自慢の機動力を失います。
勝機
秀吉を「焦らせる」こと。光秀が勝つための絶対条件は、**「秀吉を一撃で倒すこと」ではなく「時間を稼ぐこと」**です。
持久戦
寺社勢力のネットワークで秀吉軍への補給を妨害し、戦いを長引かせる。
疑心暗鬼
時間が経てば経つほど、秀吉軍の中の「織田信孝(信長の三男)」や「丹羽長秀」らが、「なぜ秀吉がリーダー面をしているのか?」と内紛を始めます。
包囲網の形成
その隙に、光秀が毛利氏や上杉氏と連携し、秀吉を背後から突かせれば、秀吉軍は崩壊したはずです。
結論
仏教勢力が味方した場合、光秀は山崎という「点」で戦う必要はなく、京都・奈良・近江を繋ぐ「面」の防衛戦を展開できたはずです。秀吉の「スピード」という武器を、宗教勢力の「地縁と特権」という盾で防ぎきることができれば、光秀の勝利は見えていたでしょう。
②明智光秀の敗因
あえて秀長の功績がわかるように聞いてみました!
【質問】明智軍が敗れたのは羽柴秀長が奮闘したから?
【回答】
明智光秀が山崎の戦いで敗れた理由は、羽柴秀長の奮闘ももちろん一因ですが、それ以上に**「圧倒的な兵力差」と「外交・情報戦での完全な敗北」**が決定的な要因だったと言えます。
秀長(秀吉の弟)は確かに副将として重要な役割を果たしましたが、戦いの勝敗を分けたポイントを整理してみましょう。
1. 「中国大返し」によるスピードと兵数
秀吉軍が信じられない速さで毛利氏と和睦して京へ引き返したため、光秀には体制を整える時間がありませんでした。
羽柴軍: 約40,000人
明智軍: 約16,000人
この2倍以上の兵力差は、当時の戦術では覆しがたい絶望的な数字でした。
2. 味方の不在(外交的孤立)
光秀にとって最大の誤算は、期待していた有力大名たちが味方しなかったことです。
細川藤孝・忠興親子: 親戚関係にありましたが、剃髪して中立を維持(事実上の拒絶)しました。
筒井順慶: 洞ヶ峠まで進出しましたが、結局参戦はしませんでした。
これにより、光秀は「信長を討った正義の軍」としての求心力を失い、孤立してしまいました。
3. 天王山の争奪戦
戦場となった山崎において、戦略上の要衝である天王山を秀吉軍に先占されました。
ここで羽柴秀長と黒田官兵衛らがしっかりと山側の守りを固め、光秀軍の側面を突く形を作ったことは、戦術的に大きな功績です。秀長は常に秀吉の「守りの要」として機能しており、この戦いでも光秀軍の反撃の芽を摘む重要な役割を担いました。
まとめ:秀長の功績とは?
羽柴秀長がいたから光秀が負けたというよりは、**「秀吉が用意した完璧な布陣(数、スピード、味方の確保)の中で、秀長がその実力を遺憾なく発揮して光秀を追い詰めた」**と見るのが自然です。
光秀からすれば、戦う前からチェックメイトに近い状態に追い込まれていたのが実情でしょう。
③兵力が五分だった場合
姻戚関係にもあった細川藤孝が参戦しなかったのは謎ですが、歴史のIFを聞いてみました!
【質問】
山崎の戦いで、明智光秀に細川親子・筒井順慶が合流していたら?
【回答】
もし明智光秀の盟友であった細川藤孝(幽斎)・忠興親子と、大和の有力大名である筒井順慶が光秀に味方していたら、歴史は大きく変わっていた可能性があります。単なる「兵数の増加」以上に、政治的な勢力図が激変したはずです。
1. 兵力差の逆転または拮抗
当時のそれぞれの推定動員兵力を見てみると、戦況が全く異なることがわかります。
勢力推定兵数
・明智光秀(単独) 約16,000
・細川軍 約5,000
・筒井軍 約10,000
【合計】約31,000
羽柴軍(約40,000)との差はわずか9,000人程度まで縮まります。この程度の差であれば、光秀の得意とする鉄砲戦術や、山崎の狭い地形を活かした防衛戦で、秀吉軍を撃退できる可能性が十分にありました。
2. 「逆賊」から「新政権」への正当性
細川氏と筒井氏が加わることの最大のメリットは、兵数よりも**「世論」**にありました。
信頼の証
教養人として知られる細川藤孝が味方すれば、「光秀には信長を討つべき大義があった」というメッセージを他国の大名に与えます。
連鎖反応
有力者が次々と光秀側に付くことで、中立を保っていた周囲の国衆(中川清秀や高山右近など)も「勝ち馬に乗る」形で光秀側に寝返った可能性があります。
3. 戦術的な変化:天王山の死守
実際の戦いでは、中川清秀や高山右近といった摂津の諸将が秀吉側に付いたため、光秀は山崎の地形を十分に活用できませんでした。
もし細川・筒井軍が合流していれば天王山を完全に封鎖し、秀吉軍を淀川沿いの狭い道に釘付けにできた。
秀吉軍の「中国大返し」による疲労がピークに達したタイミングで、数で圧倒されずに迎撃・持久戦に持ち込めた。
結論:秀吉の天下はなかった?
もし彼らが合流していれば、光秀が山崎で勝利し、**「明智幕府」**とまではいかなくとも、織田家を分割統治する有力な執政権を握った可能性が高いです。そうなれば、秀吉がこれほど早く天下を統一することはなく、戦国時代は再び群雄割拠の泥沼に戻っていたかもしれません。
光秀の誤算は、**「友情や血縁(細川は光秀の娘婿)よりも、時代の流れを読んだ彼らの冷徹なリアリズム」**を読み違えたことにありました。
このように見ていくと、本能寺の変後、光秀に早期の加勢があれば、違う場所で決戦が行われた可能性があったようです。
秀吉は遠征軍だったので、兵站に弱点があり、光秀はギリギリまで戦略的判断を待っていたのかも知れません。坂本や安土に引いて「籠城」するという選択肢もありますが、加勢がなければ意味がありません。
結果として、秀吉軍を入京させないためにも、劣勢の光秀は兵法に沿って「山崎での決戦(隘路)」という選択肢しか選べなかったのかも知れませんね(^_^;)
最後までお読みいただきありがとうございました☆
#レキジョークル #奥の枝道 #感想 #旅行 #京都 #寺院 #下賀茂神社 #禅寺 #庭 #瀬田の大橋 #蹴上インクライン #麒麟がくる #明智光秀 #羽柴秀長 #山崎の戦い #天王山 #細川藤孝 #筒井順慶 #本能寺
いいなと思ったら応援しよう!
もし宜しければサポートを頂けるとうれしいです☆