ルーミー 詩集『マスナヴィー』第1巻より②「八百屋と鸚鵡の物語」
☆mediopos4140(2026.3.13)
■13世紀のペルシャの神秘詩人
ジャラール・ウッディーン・ルーミー
詩集『マスナヴィー』
第1巻より
②「八百屋と鸚鵡の物語」
mediopos4127(2026.3.2)では、
序詩の「葦の歌」をとりあげた。
以後、第1巻から第6巻のなかの有名な歌を随時とりあげながら、
宗教的な教訓めいたところはあるものの、
それについて若干の解説を付していくことにしたい。
今回は「葦の歌」に続いて、
同じく第1巻から「八百屋と鸚鵡の物語」。
本来はこの「八百屋と鸚鵡の物語の前に、
王の医師による金細工師の殺害が、
神の啓示による正当な行為であることを擁護する寓話がある。
ずいぶん長いのでとりあげることはできないが、
その文脈で、聖人の行動を俗人の視点で判断する愚かさを風刺している。
・物語
主人公は八百屋。彼は甘い声で話す緑色の鸚鵡を飼っているが、
この鸚鵡は、店主の留守中に店を守り、
商人たちに上手に話しかけたり、鸚鵡らしい歌を歌ったりする賢い鳥。
ある日、鸚鵡がベンチから飛び立ち、バラ油の瓶をこぼしてしまう。
店主が帰宅し、ベンチが油まみれで服が汚れているのを見て怒り、
鸚鵡の頭を叩いたことで、鸚鵡は禿げ頭になり、
数日間言葉を発しなくなる。
店主は後悔し、溜息をつき、髭を裂きながら
「繁栄の太陽が雲に隠れた」と嘆く。
彼はダルヴィーシュ(スーフィーの修道者)たちに贈り物をし、
鸚鵡の言葉を取り戻そうとし、
三日三夜、絶望的にベンチに座り、
鸚鵡にさまざまな驚異を見せて言葉を促す。
その時、頭を剃った禿げ頭のダルヴィーシュが通りかかるが、
鸚鵡はこれを見て再び話し始め、ダルヴィーシュに
「おい禿げ! お前も瓶から油をこぼしたのか?」と叫ぶ。
傍観者たちは鸚鵡の推論に笑う。
鸚鵡はダルヴィーシュの禿げ頭を、
自分の禿げ(油こぼしの罰)と同類だと勘違いしたのである。
・寓話の教訓
ルーミーは、鸚鵡の誤った類推を例に、
「聖人の行為を己の基準で測るな」と警告する。
たとえ外見が似ていても
(例: 「獅子(shér)」と「乳(shír)」の綴りが似ているように)、
本質は異なっている。
この物語の核心は、
「外見の類似に惑わされず、内面的差異を見抜け」
というスーフィーの教えである。
ルーミーは「魔法と奇跡の差」(モーセの杖 vs. 魔術師の杖)を挙げ、
外見が似ていても、神の慈悲 vs. 呪いの結果が異なることを強調。
真の信者(ムーミン)は本質が純粋で、神の愛を生む。
一方、偽善者は外見だけ似せ、争いや嫉妬を生む。
名前の味(地獄の苦さ vs. 喜び)は、内面的本質を表す。
猿の比喩:猿は人間を真似するが、理解せず争うだけ。
偽善者は礼拝を真似るが、祈りではなく争いのため。
偽金と純金を区別する試金石は、
霊的味覚(洞察力)を象徴している。
それは神が魂に与えるもので、確信と疑いを分ける。
世俗の感覚は「この世の梯子」だが、
宗教の感覚は「天の梯子」である。
霊的道は体を「破壊」(ファナー、自我の消滅)するが、
その後「繁栄に返す」(バカー、神の中での存続)。
この物語は、外見に惑わされず本質を見よということを
ルーミーらしい日常のエピソードから神秘へ昇華させることを
ユーモラスに伝えている
以下、寓話を意訳。
②「八百屋と鸚鵡の物語」(第1巻より)
八百屋と鸚鵡の物語、鸚鵡が店で油をこぼしたこと。
八百屋に鸚鵡がいた、甘い声で話す緑の鸚鵡。
ベンチに止まり、店主の留守に店を守り、
商人たちに上手に語りかけた。
人間に語るときは人間のように話し、
鸚鵡の歌にも長けていた。
一度、ベンチから飛び立ち、
バラ油の瓶をこぼした。
主人は家から帰り、商人らしくベンチに悠然と座った。
ベンチは油で満ち、服は脂ぎった。
彼は鸚鵡の頭を叩き、禿げさせた。
数日、鸚鵡は言葉を発さず、
八百屋は悔い、深く溜息をついた。
髭を裂き、「ああ、我が繁栄の太陽は雲に隠れた。
その時、手が折れていたら!
どうしてあの甘い声の者に頭を打ったか?」
彼はすべてのダルヴィーシュに贈り物をし、
鳥の言葉を取り戻さんとした。
三日三夜後、彼はベンチに座り、
乱れ、悲しみに満ち、絶望の如く。
鳥にさまざまな驚異を見せ、
もしかしたら言葉を発するかと。
その時、頭を剃ったダルヴィーシュが通りかかった、
ジャウラーク(粗い毛織の衣)を着、
頭は鉢や盆の外側のように禿げていた。
そこで鸚鵡が話し始め、ダルヴィーシュに叫んだ
「おい、奴!
どうして禿げと混じったか、おい禿げ!
お前も瓶から油をこぼしたのか?」
傍観者は鸚鵡の推論に笑った、
衣を着た者を自分と同じと思ったから。
聖人の行為を己の基準で測るな、
たとえ「獅子(shér)」と「乳(shír)」が似ていても。
このゆえに全世界は迷い、
神の代行者(アブダール)を理解する者は稀なり。
彼らは預言者と平等を主張し、
聖人を自分と同じと思った。
「見よ、我らは人間、彼らも人間。
我らも彼らも眠りと食に縛られる」と。
盲目ゆえに、無限の差を見抜けなかった。
同じ場所から食い飲みする二種の蜂、
片方は刺を生み、片方は蜜を生む。
同じ草を食い、同じ水を飲む鹿、
片方は糞を生み、片方は純粋な麝香を生む。
同じ水源から飲む葦、
片方は空、片方は砂糖で満ちる。
何万もの類似を観よ、
二者の距離は七十年旅の遠さなり。
片方は食べて汚物を排出し、
片方は食べて神の光そのものとなる。
片方は食べて貪欲と嫉妬を生み、
片方は食べて唯一なる神への愛を生む。
片方は良き土、片方は塩辛く悪い土。
片方は美しい天使、片方は悪魔と野獣。
外見が似ていても当然、
苦い水と甘い水は同じ清らかさを持つ。
誰が知るか、霊的味覚を持つ者以外に?
彼を探せ、彼は塩水と甘水を区別する。
魔法と奇跡を比べ、欺瞞と思う愚か者。
モーセの時代の魔術師は争いのため、
彼の杖のように杖を上げた。
だがこの杖とあの杖の間には大いなる差、
この行為(魔法)からあの行為(奇跡)へは遠い道。
この行為は神の呪いを受け、
あの行為は神の慈悲の報いを受ける。
不信仰者たちは預言者・聖人と争い、猿の性質を持つ。
悪しき性質は胸の癌なり。
人がするものを、猿は毎瞬真似る。
「彼のようにした」と考え、争う顔の者は差を知らぬ。
片方は神の命令で行動し、片方は争いのため。
争う顔の者たちに塵をかけよ!
その偽善者は、礼拝で真の信者と並ぶが、
祈りのためではなく争いのため。
礼拝、断食、巡礼、施しで、真の信者と偽善者は勝利と敗北を争う。
最後は真の信者に勝利、
偽善者には来世の敗北。
同じゲームに熱中しても、
互いに関して、メルヴの男とレイの男のように遠い。
各々は己の住処へ行き、名に従う。
真の信者と呼ばれれば魂は喜び、
「偽善者」と言われれば火に満ちる。
真の信者の名は本質ゆえに愛され、
偽善者の名は毒性ゆえに嫌われる。
(四文字の)ミーム・ワウ・ミーム・ヌーンは栄誉を与えず、
ムーミン(真の信者)の言葉はただ指示のため。
真の信者を偽善者と呼べば、
その卑しい名はサソリのように内を刺す。
この名が地獄から来ぬなら、なぜ地獄の味がする?
その悪名の汚さは文字からではなく、
海水の苦さは器からではない。
文字は器、意味は水のように入る。
意味の海は神にあり――彼にウンム・ル・キターブ(書の母)あり。
この世では苦い海と甘い海が分かれ、
間に障壁あり、互いに越えぬ。
両者は一つの源から流れ出ることを知れ。
両者を過ぎ、その源へ行け!
試金石なくしては、偽金と純金を判断できぬ。
神が魂に試金石を置く者、
確信と疑いを区別する。
生きる者の口にゴミが飛び込み、
吐き出してようやく安らぐ。
何千もの一口のうち、一つのゴミが入れば、
生きる者の感覚がそれを追う。
世俗の感覚はこの世の梯子、
宗教の感覚は天の梯子。
前者の健康は医師から求めよ、
後者の健康は愛する者から求めよ。
前者の健康は体の繁栄から、
後者の健康は体の破壊から。
霊的道は体を破壊し、破壊した後、繁栄に返す。
宝のために家を壊し、
その宝でより良く建て直す。
水を止め、川床を清め、
再び飲む水を流す。
皮膚を裂き、鉄の矢じりを抜き、
新鮮な皮膚が生える。
要塞を壊し、不信仰者から奪い、
そこに百の塔と城壁を築く。
比類なき者の行為を誰が語れよう?
私が言ったのは、今の必要が与えるものだけ。
時にはこう、時には逆に見える。
宗教の業はただ驚嘆のみ。
私が言う驚嘆とは、背を向ける驚嘆ではなく、
恍惚に溺れ、愛する者に酔う驚嘆。
片方の顔は愛する者に向き、
片方の顔は己の顔(自分に向く)。
皆の顔を長く見よ、注意深く見守れ。
スーフィーに仕えることで、真の聖人の顔を知るかも。
アダムの顔をした悪魔が多いゆえ、
すべての手に手を差し伸べるな。
罠師は鳥を誘うため笛を吹く、
同類の音を聞き、空から降り、罠と刃先に遭う。
聖人の業は光と熱、
卑しき者の業は策略と恥知らず。
彼らは乞食のため毛織の獅子を作り、
ブー・ムサイリムにアフマドの称号を与える。
だがブー・ムサイリムにはカッザーブ(嘘つき)の称号が残り、
ムハンマドにはウル・ル・アルバーブ(叡智ある者)の称号が残る。
神の酒、その封印は純粋な麝香、
他の酒、その封印は悪臭と苦痛。
○用語に関する注釈
・ミーム・ワウ・ミーム・ヌーン
アラビア語の4つのアルファベット(M・W・M・N)を指していて、これらを繋げると「ムウミン(Mu'min / مؤمن)」という言葉になる。
スーフィズム(イスラーム神秘主義)において非常に重要な意味を持っている。
ムウミン(Mu'min): 一般的には「信者」や「信仰を持つ者」と訳されるが、アラビア語の語根「ア・マ・ナ(A-M-N)」に由来し、「安全である」「安心させる」「信じる」といった意味が含まれ、神(アッラー)の 99の美名の一つでもあり、その場合は「信仰を授ける者」「安寧を与える者」を意味する。
また、スーフィズムでは、単なる表面的な信仰を超えた、より深い精神性を表す象徴として扱われている。
・ファナーとバカー
スーフィズム(イスラーム神秘主義)における悟りのプロセスを表す、表裏一体の重要な概念。修行者が自己を滅ぼし、神と一つになるプロセスの二つの段階。ファナー(Fana)は「消滅」で、自分のエゴ(自我)、欲望、執着、さらには「自分という存在」そのものの意識が、神の圧倒的な存在の中に溶け去ってしまう状態を表す。
. バカー(Baqa)は「存続」で、ファナーを経て自己を滅ぼした修行者が、「神と共に生きる者」として再びこの世界に立ち返る状態を表す。
・メルヴの男とレイの男
「志(目的)が正反対であること」や「決して相容れない隔たり」を象徴する言葉として使われる。
メルヴ(現在のトルクメニスタン)とレイ(現在のイラン・テヘラン近郊)は、当時の中央アジアとイランを代表する主要都市であり、物理的に非常に遠く離れていた。この二つの地名を対比させ、外見は似ていても「内実や向かっている方向が全く異なる二人の人間」を表現している。一方は真実(神)を追い求め、もう一方は現世の利益や虚栄を追い求めているような状態を指す。
・ダルヴィーシュ
ペルシャ語で「門口に立つ者」、転じて「貧者(托鉢僧)」を意味する言葉で、スーフィズムにおいては、単に経済的に貧しい人ではなく、「神の前で自らの無力さを悟り、世俗的な執着を捨て去った修行者」を指す。
・ウンム・ル・キターブ
アラビア語で「啓典の母体」または「本の母」を意味する言葉で、ラーム全般、そしてスーフィズム(神秘主義)において、文脈により以下の3つの重要な意味を持っている。
まず、最も一般的な意味は、天上の「守護された平板(ロウフ・ル・マハフーズ)」に記されている、一切の変更がない永遠の神の言葉。
また、『クルアーン』の第1章である「アル・ファーティハ(開端章)」の別称でもある。
スーフィーたちの間では、より深遠な意味で使われていて、宇宙のあらゆる出来事や知識が書き込まれた「神の知識」そのものを指している。
・ブー・ムサイリム
預言者ムハンマドの時代に現れた「偽預言者」ムサイリマ(Musaylima)を指す蔑称。スーフィズムの文脈では、歴史的な人物という以上に、「エゴ(自我)の偽り」や「虚栄心」を象徴する代名詞として使われる。
・アフマド
預言者ムハンマドの天上における別名であり、スーフィズムにおいて極めて神秘的で重要な意味を持つ名前。
・カッザーブ
アラビア語で「稀代の嘘つき」「大嘘つき」を意味する言葉。スーフィズムの文脈では、単に日常の嘘をつく人ではなく、「魂の真実を偽る者」という極めて厳しい宗教的・精神的な意味を持つ。
・ウル・ル・アルバーブ
アラビア語で「核心(本質)を持つ者たち」、一般的には「思慮ある人々」「悟りを開いた人々」を意味する言葉。『クルアーン』に何度も登場する言葉だが、スーフィズムにおいては、単なる「知的な人」を超えた、より深い霊的な意味を持っている。
