闘病記 当たり前を失って①
15年前のこと。
私の左足は「変形性股関節症」でこれ以上悪くならないための手術を受けた。
脚長差が4センチ有るので、歩行に杖は必須となった。
「最初は4本足、次は2本足、最後は3本足になる生き物はな〜んだ?」
の最後の足を、私は早めに使うことになるんだな。せめて使うなら可愛い色柄にしようと思った。
話は戻り、その端を発するのは「先天性股関節脱臼」にある。
生後3カ月健診で明らかになってから、装具を装着して、痛みに泣き続ける私を抱きながら、柱を背にもたれて、母乳が出たので、授乳もしながら寝ていたと母が言っていた。
自分の子だから出来たことだった…と。
どんなに過酷な思いをしながら、育ててくれていたのか。今更ながら有り難くて涙が溢れる。
私に同じことを求められても、絶対に出来なかった。これだけは確信する。
再び話は戻り、1度の手術で2箇所骨切り術をし、固定する金具を抜く、抜釘(ばってい)の為の手術もしたので、2回1セットの足掛け2年の治療だった。
それは、事実上の骨折と同じことになり、最初は3ヶ月ちょっと入院していたが、2度目は1週間位で済んだ。
が、そこから今日まで、否、これからも生きている間は、恐らくずっと痛みとのお付き合いが続いている。
「痛み慣れ」という身体の機能に感謝せねば。と、季節の変わり目の正に今、思っている…にしても、痛いものは正直、痛い。
そもそも何故、大掛かりな手術になったかと言えば、まだ年齢的にチタン合金の人工骨頭を使うには、耐久年数的に約20年と考えても、還暦でまた入れ替えの手術が必要になるから、自骨(自分の骨)で保たせる方が良いだろうということになった。
術式の説明をされても、動じなかった私を見た主治医に言われた最初の一言を、今でも良く覚えている。
「予習してきた?」
「はい」
ネット検索した時、或る方の闘病生活を読ませて頂いた。
これは…う〜ん、ハードな闘いだな。
腹を括るしか無かった。
もう、自分でも何か外科的な措置をしなかったら、歩けないと思うほどの激痛が、歩く度に来ていて、待った無しだったのだ。
止むを得ずの一択。やるしかない。
でも、様々なハードルがあり、越える準備にも頭を抱えた。
→②へ続く
