掌篇「チョコットバレンタイン」
その朝、久恵は冷蔵庫を開けた。毎年必ず、2月14日のために、自分でチョコレートを作っている。Meijiの板チョコを溶かして混ぜて、形を変えて、また冷やす。それだけの作業を「自作」といえるのなら、たしかにそのチョコレートは自作のものだった。ハート形に整えたそれを、プレゼント用の箱に詰め、家を出る。
24年間、毎年この日はそうしている。けれど、一度も誰かにチョコレートを渡せたことはない。「友チョコ」の概念が一般化している現代にあって、久恵は友人同士ですらチョコの交換をしたことがなかった。
というか、それほどの友がいない。話す子はいつだっていた。けれど、いわゆる「ニコイチ」の相手がおらず、それに準ずる集団にも属していなかった。
たまに近くの子が「話してくれる」、ただそれだけの繰り返しが何年も何年も雪のように積もった。
男の子にいたっては、話したことすらほとんどなかったし、したがって恋愛感情についても実際のところよくわからなかった。
毎年「今年はこの男の子を好きだということにしてみるか」みたいな内的な遊戯はあったが、それは人間観察対象を決めるような意味合い以上のものではなかった。
だからバレンタインデーのためにチョコレートを作る理由は、なんにもないのだ。誰にも渡さないチョコを、ただ鞄の中に入れて一日を過ごし、家に帰ってきてテレビを観ながらそれを一人で食べる。
何かに備えているのだろうか? そう考えることもある。もしかしたら、予期せぬハプニングがあって、チョコレートを渡す必要が生じる、そんな事態に備えて自分は用意しているのか?
でもそんなわけでもなさそうだ。
結局、その日も誰にも渡さなかった。会社の給湯室で、同期の増村くんに遭遇したとき、ちょっと渡そうかなと思わないでもなかった。でも、そもそも今年の「好きだということにしている男子」ですらない。
帰りの会社で、いつも仕事を丁寧に教えてくれる美鈴さんと一緒になった。彼女は二児の母で、帰ったら子どもたちの世話が待っている、と語り「もう家庭なんてもったら休む暇なしよ」と言ってがははと笑った。
彼女になら渡してもいいかもしれない、とちょっとだけ思った。笑ったときの目じりの皺がかわいかったから。でも、結局久恵が鞄の中に手を入れる前に、美鈴さんの降りる駅に到着してしまった。
帰宅。家のストーブをつけて、温まるのを待ちながら珈琲を淹れた。それから、まだ冷たい手で自分で梱包したチョコレートの包装を剥がし、ハート型のチョコレートを取り出した。
「ああよかった」
久恵はわが耳を疑った。それはたしかに、指と指の間にもったハート型のチョコレートから聞こえてきたのだった。
「今年こそ誰かにあげちゃうんじゃないかって冷や冷やしたんだから」
「え、チョコ、しゃべるんだ……」
「しゃべるよ、チョコ。ちょこっとね」
くだらない、と思いながらもププっと笑ってしまった。
「誰かにあげたらいけないの? いつかは誰かにあげると思うよ?」
「嘘。嘘はよくないよ。ひぃちゃんはさ」
「なれなれしいな、私、そんな呼ばれ方したことない」
「ひぃちゃんは、ひぃちゃんのために私を作ってるんだから、ひぃちゃんが食べてくれないと私が悲しいよ」
「自分のために作るなんておかしいよ」
「おかしいけど、それがひぃちゃんだし、私はひぃちゃんに食べてもらうために存在してるんだよ。ほかの誰かになんて食べさせないで」
どうやら今日の電車の中での心を、読まれていたようだ。
「でもいつか、いつかは誰かにあげるかも。もしかしたらだけど」
その言葉を聞いて、チョコレートはチョコらしく沈黙した。
それから言った。
「そのときはさ、GODIVAとか買いなよ。喜ばれるかわかんないんだし」
GODIVAかぁ、と言いながら、なんだかおかしくって笑った。
そして笑いながら、久恵はチョコを食べた。
お腹のなかで優しく溶けた元Meijiのチョコレートのおかげで
珈琲がおいしくなり、いつしか室内も暖かくなっていた。
「そうね、そのときはGODIVAを買うよ。で、私のために相変わらず君を作るよ」
だけど、胃の中で溶けてしまったチョコレートは、もう何も言わなかった。
なんだ、君を喜ばせようと思って言ったのに。
そう思いながら、久恵はふふっと笑い、テレビをつけた。例年通り、大した番組はやっておらず、それでもわざわざチャンネルを替えるのが面倒で、そのまま久恵はぼんやりと画面を眺めて過ごした。
不意に、視界の隅に何か白いものを捉えた。カーテンが開いたままだったことに気づき、窓辺に駆け寄って「あっ」と小さく呟いた。
窓の外で、ちょこっとだけ、雪が降り始めたようだ。
窓にかかった息は、甘い匂いがした。
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