掌編「影のない街と影屋の憂鬱」
「一カ月くらいでいいの、私の影になって」
こちらは影屋なので、もちろんそう言われて断る謂れはない。
「一日一万五千円なんですが、大丈夫ですか?」
「けっこうするのね」
「まあ、一日中張り付くわけですから」
「でも影でしょ? 探偵じゃないし何かしてくれるわけじゃない」
「そうですね、影ですから。あと食事代は別途かかります」
「影のくせに食事をとるの?」
「影と言っても一応人間ですから」
この国では、いつからかこれ以上生きていたくないと言う人間が、人間をやめて〈影屋〉を開く免許を取得するようになった。開業の免許を取得するということは、影になれるということ。
それというのも、ある時から影のない人が急増しはじめたからだ。
影のない理由はさまざまだが、いずれも何か問題を抱えているのは確かで、かといってそれはカウンセラーとか医者とかにどうにかできることでは、どうやらないらしいということで、影屋の出番になった。
「まあいいわ。お金はあるの。先日、夫が亡くなったばかりだから」
依頼人は45万円の束を目の前に置いた。
依頼人の名は、初音さんという。
初音さんは練馬の高級マンションに暮らしている。
十年くらい夫と二人で暮らしていたそうだ。子どももペットもいない。夫が亡くなった今、彼女のもとには夫が大事に育てていたブルーベリーの鉢植えがあるばかりだ。
影としての任務は、とりあえず初音さんの隣に座って日がな一日ぼんやりと部屋の中で過ごすことだった。
初音さんは恐ろしく何もしない。放っておけば、食事だってしないかもしれないが、影には食事を催促する権限だけはある。そのおかげだろう、結果的に初音さんも食事をすることを思い出すようで、作ったものを皿にのせてこちらに出すと、向かいの席に腰を下ろし、自分も食べ始めた。
「影と向き合うってのもおかしいわね」
「そうですか? まあそうかもしれませんね」
「おいしい?」
「そういうことに答えてはいけないことになっているんですよ、影なので」
「お腹がすいたら主張するくせに?」
「それは権利の行使ですからね」
「人生相談には乗れない?」
「乗れませんね。それでは影ではなくなってしまう」
「そうね、まったくだわ」
「何か相談したいことが?」
「質問は許されるの?」
「僕がする分には。影には質問する権利があるんです」
「ずいぶん都合のいい影ね」
「協会に言ってください。そのうち規約が変わるかもしれませんよ」
「私に何のプラスもないもの」
「何か相談したいことが?」
初音さんはしばらく黙っている。迷っているのか。迷ってはいないけれど迷っているふりをする必要があるのか。その区別は簡単にはつかない。やがて初音さんは、とっくに決まっていたであろう相談を口にする。
「もういない人のことをどう捉えればいいのかしら?」
もぐもぐ、もぐもぐ。何も応えずに食べ続けた。それが影の決まりだから。
初音さんもその決まりを理解して、何も求めなかった。
そのあと、また初音さんはごろごろと寝ころび(自分も寝ころんだ)、そのまま眠ってしまった。依頼人が寝た後は、ベッドから這い出て報告書を書く。依頼人と同じタイミングで眠る必要はないのだ。
報告書は、確定申告の時期に重要なので毎日つけなければならない。
〈もういない人のことをどう捉えればいいのか?〉
依頼人の疑問も書き込んでおく。
答えはない。答えるのは影の役目ではないから。
まだ人間だった頃、同じ疑問をもったことがあったような気もするが、そもそもそういうことをいつまでも考え続けるより、絶望するほうが向いていたのだ。絶望する才能がありあまっている人間は影屋に向いている。
次の晩は花火をする初音さんに寄り添った。
「昼間から花火をする意味とは?」
「花火の存在があんまり感じられないでしょ。でもそこに花火はある」
「でも、いない人は昼間の花火とは違う」
初音さんは何も答えなかった。いまのは規定に反しただろうか?
いや、依頼主の疑問に答えたわけではない。飽くまで影の独り言の範疇だ。
十日が経った頃、初音さんは通帳を眺めていた。
「桁が一つ減ったなぁ」
「まずいですか?」
「少しね。そろそろ働かないとまずいかもしれない。働きだすと、私はたぶんその忙しい世界に埋没していってしまって、あの人のことをうまく思い出せなくなるかもね。そうしたらその頃にはもういなくなった人のことをどう考えたらいいのか、なんて問いを考えることもなくなる」
しばらくの間、その言葉の意味を考えていた。考えるのは苦手だ。考えるよりも絶望するのが得意で影屋になったのだ。
「それ、何か困るんですか?」
責めたわけではない。ただの質問だったが、思った以上にその問いかけは鋭く響いてしまった。
「そうよね、いないものを、忘れるだけのことだものね、全然困らないわね」
彼女はそう言ったきり黙り、またベッドにごろりと寝そべったかと思うと枕に顔を伏せて泣き始めた。その隣に、同じ姿勢で寝そべっていると、ベッドの中に初音さんのものではない匂いがまだかすかに残っていることに気づいた。まだこの部屋は、しつこく夫のことを記憶している。
「あなたが忘れてしまったくらいで、消えてしまうような絆なんですか?」
これも、ただの疑問だった。忘れたら、終わりだと思っている人は依頼人の中にもけっこういる。誰かとの絆や思い出を、ゴミ箱に放り込んだら、それが物事の終着駅なのだ、と。本当にそうなのか、よく考えてみるとわからない。そもそもよく考えるのが苦手なのだ。絶望なら得意なのだが。
二十日目、初音さんはリクルートスーツを着て出かけた。
「よく似合ってますよ」
「影って誉めるのね」
「ただの感想ですから」
「感想を言う影」と言って初音さんはクスリと笑った。何が面白いんだかよくわからなかった。絶望のことならよくわかるのだが。
入社面接はうまくいった。初音さんの受け答えは優秀だったし、先方も満足したようだった。後日、結果をお知らせします、と言われ面接は終わった。
マックのカフェで初音さんは珈琲を飲み、こちらを見やった。
「どうしてハッピーセットなのよ。影のくせに」
「安いのに玩具がついてるじゃないですか」
「玩具好きなの?」
「わかりません。でも玩具には絶望の匂いがしない」
「思い出せないわね。でも言われてみるとそんな気もする」
その夜、初音さんはブルーベリーの実がなっているのを見つけた。たった一粒。それをつまんだ。宝石でも眺めるように掌にのせ、いつまでも眺めていた。
「食べたらどうですか?」
「そんなことしたら……」
思い出が消えてしまう、と言いかけたのかもしれない。
でも初音さんは思い直したように頷き、それを食べた。
静かな夜だった。彼女は映画をいくつか見た。トイレに立つ以外にはほぼ席を立たないので、こちらも同じ姿勢で腰が痛くなりそうだった。
三十日目、初音さんは採用通知を受け取った。
「今日が依頼期間の最終日です」と告げた。
「ただし依頼の延長も可能です。僕はしばらく休暇ですから、スケジュール的には空きがあります」
せいぜい二週間の空きだが、一応空きはある。
「ありがとう、会社にまで毎日あなたを連れてくわけにもいかないし、今日で終わりにするわ」
初音さんに抱きしめられた。
「影を抱きしめるのは規約に反します。あなたは次回から僕を二度と指名できません」
「……そうね、私たちはきっともう二度と会うこともないのでしょう。そしてこれからの忙しい日々で忘れてしまうに違いないわ。夫のことをいつか忘れてしまうのと同じように。でもそれで何かが消えてしまうわけではない。そうでしょ?」
「わかりませんね。考えるのに向いていないので」
真夜中、始末書を提出すると、上司のミッドナイトは笑った。
影屋は、自営業だが、一応影屋組合の末端に置かれているので上司もいるのだ。
「ふははは、影を抱擁とはな。どうりで今夜のおまえは色が薄いわけだ」
それからインクを足して、もとの濃さに戻してくれた。
「やめる気なら言えよ。おまえの代わりなんかいくらでもいるんだ」
「やめませんよ」
それから、とびきり濃い珈琲を淹れてもらった。
そうでもしないと、影であり続けることがむずかしい夜だった。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします!いただいたチップは出版依頼以外の創作活動費に使わせていただきます。