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あなたの人生は、いつか大切な人の希望となる④一緒に乗り越えていく

麻由美と一人娘の美咲の物語
前回は、こちら
あなたの人生は、いつか大切な人の希望となる③忘れられない出来事|ミカモ(Mica Moriya)


ブーン……ドライヤーの音が
台所まで響いてきた。

麻由美は、鍋に視線を戻す。
味噌汁が、あやうく煮立つ寸前だった。

入学式用に誂えたスーツに身を包んだ美咲は
洗面台の鏡を覗き込んで念入りに髪型をセットしている。

さっきまで頭の中を占領していた記憶の欠片
どれも、もう過ぎ去った出来事なのだと――
そう思いたい自分がいる。

今日ぐらい、そんな自分のことを褒めてもいいのだろうかと、ほんのわずかに戸惑う。
自分のことを責め続ける日々が当たり前になっていた。
そう思っただけで胸の奥がわずかに震えた。

窓を濡らす雨の勢いはーー
麻由美の心に呼応するかのように
少しおさまってきたようだ。


あの頃――
美咲との関係がぎくしゃくし始めて
母娘の会話が途絶えた。

気の遠くなるような時間が
静かに、重苦しく刻まれていった。

美咲の返す言葉は、次第に短くなり
やがて、ほとんど言葉を交わさなくなった。

これ以上踏み込むと、もう手の届かないところへ行ってしまいそうだから
口出ししない方がいいかもしれない

そんな言い訳を何度も自分に言い聞かせて
毎日をやり過ごすようになっていた。

美咲に何が起きているのか
どうして、そうなるのか理解できなかった
ただ、反発されるのが怖くて
歩み寄る勇気が出なかった。

互いに言い争いを避けたまま
美咲は逃げるように自室に身を隠す
麻由美の注意は、その手首に向けられないまま
美咲は自らを傷つけ、隠し通していた。


あの時、どうして気づけなかったのか。

麻由美と美咲は、麻由美の母親と3人暮らしだった。
母親は、麻由美がシングルマザーになる事に大反対だった。
それが、生まれたばかりの美咲を見ると一変した。
孫の存在とは、そこまで人を変えるものなのかと麻由美が唖然とするほどだった。

母親は、自分の子育てと美咲の違いを次第に感じていった。
美咲が手に負えなくなってくると
「お前の育て方が悪い」と、厳しい言葉を放ったのだ。


ある日、珍しい来客があった。
母親の姉、麻由美にとっての伯母が訪ねてきた。

「麻由美さん、お母さんから色々と話は聞いているわよ」
久しぶりに会ったというのに、麻由美の心を見透かしたような口ぶりだ。
美咲のことで母親にも重荷を背負わせてしまったのだと、麻由美は居心地の悪さを感じた。

伯母は長年、看護師として働いていた。
母親より6歳も年上なのに肌の色艶もよく、声にハリがあって若々しい。
聞くと、定年退職後に地域の子育て支援施設を仲間と立ち上げたというのだ。

今では、地域の若い母親たちの悩み相談も兼ねた憩いの場になっているのだとか。

伯母の語るひと言ひと言が、麻由美には新鮮だった。
それまで「育て方のせい」だと自分を責めていた重圧を、解きほぐしてくれるようだった。

そして、
美咲が見せてきた姿を、伯母は「特性」という言葉で教えてくれた。

「ひとりで抱えなくていいのよ」

伯母は、はっきりと
しかし、責めるのではなく
麻由美の全てを包み込むように穏やかに言った。

美咲との日々に疲弊した身体も心も
全てを受け止めてくれた。
否定もせず、裁きもせず
誰の責任とも言われなかった。

麻由美は身体中に張りつめていた緊張感が
初めてゆるんでいくのを感じた。

あの日、伯母が来てくれなければ
いや、母が相談してくれていなければ
美咲も自分もどうなっていたことだろう。

何も分からずに、理解し合えないまま
伝わっているはずだと思ったまま
暗く閉ざされた世界で
お互いに傷つき、苦しみ
沈黙したままだったかもしれない。

美咲が抱えてきた生きづらさが
いったい、どれほどのものだったのか
申し訳なさで、麻由美の心は押し潰されそうだった。

今こうして、麻由美の目の前を行き来して身支度を整えている美咲の足取りは、怒りに任せて激しく音を立てていたかつての面影はもうない。

もともと朝は苦手なはずなのに
誰に言われなくても、今朝はひとりで起きてきた。
もう、それだけで麻由美の心は十分に満たされていた。

きっと昨晩は緊張で、あまりよく眠れなかったに違いない。それは、麻由美自身も同じだ。

ようやく、ようやく
美咲が新しい一歩を踏み出す日がやってきた。

あの日ーー
美咲が言った「助けるため」という言葉の意味

この困難と思えることを
ふたり一緒なら乗り越えられる――

そんな人生を、生きていこうね
それを麻由美と美咲は交わしてきた
ということなのだろう。


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