好きだった場所を、ひとつだけ


「ローザンヌ」という喫茶店があった。マンションの1階、建物の入口の階段の横に、ひっそりとたたずむ店だった。とても静かな店で、コーヒーは美味かった。あまり明るくない店内には、古びたアールデコ風の家具や椅子があり、クリムトやシーレの絵が飾られていた。ブラックな会社に勤めていた当時、会社の外でゆっくりできる場所がローザンヌだった。

ランチは一種類だけ。店内では調理しなくて、昼前に割子が運ばれて来ていた。そんな調子だからか、昼時でも客はほとんどいなかった。昼食を片付けて、コーヒーを片手に週刊誌に目を通すか、少し眠るのが、私の日課だった。早朝から深夜まで働くので、他に行くところもなかった。

店を切り盛りしていたのは、おっとりした年配の女性だった。「いつもたいへんね」が彼女のあいさつで、「大変ですね」と返す日常だった。結構な歳のはずだが、会社の役員たちよりもずっと若く見えた。美魔女というわけではなくて、うまく言えないが、歳をとっても美人さんなのだった。

何も詮索されないが、心配はしてくれる。殺伐とした日々の、唯一の落ち着ける場所だった。会社をやめたあとで数回、様子を見にいったことがある。「元気なの?」と聞いてくれるので「前よりずっと元気」と答えていた。いつの間にか、店は入れ替わり、今ではオシャレなダイナーになっている。

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