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短編154「模範解答は、推しの中」

あらすじ
恋愛とは、徹底した傾向と対策によって導き出される「記述式解答」である。保有資格二十二種を誇る花渕清子が挑むのは、最難関国家試験――ではなく、職場の瀬戸尚樹の「攻略」だった……。

 ――恋愛とは、再現性のない偶発的な事象ではない。適切な分析と、徹底した傾向の対策によって導き出される。
 これが、保有資格二十二種を誇る二十九歳、花渕 清子はなぶち きよこの鉄の信条だった。

1

 清子のカバンの奥。そこには一冊の、革表紙の重厚なノートが鎮座している。
 表紙には、強い筆跡でこう刻まれている――『瀬戸 尚樹・一級攻略検定対策』。

 ――瀬戸 尚樹せと なおき

 清子と同じプロジェクトチームに所属する、三十一歳のシステムエンジニア。
 適度に整った顔立ちと、誰に対してもフラットな物腰。そしてなにより、仕事に対する圧倒的な安定感。
 彼は、清子にとって人生最大の難関国家試験にも匹敵する、至高の攻略対象だった。

「……よし。今日のシミュレーションは完璧」
 清子は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、ノートを捲った。

【設問15:給湯室で瀬戸氏と遭遇した際の、回答を選べ。複数回答可】
A:無言で会釈して、三秒溜めてから立ち去る。(基礎点:5)
B:「お疲れ様です」と、斜め十五度の角度で微笑む。(加点対象:15)
C:彼のコーヒーの好み(ブラック、微糖ではない)を把握した上で、「新しい豆、入ったみたいですよ」と情報提供を行う(加点対象:30)

 清子は、シャツの襟を正すと、まるで獲物を待つ猟師のような、静かな緊張感を胸に秘めて給湯室へと向かった。
 心臓が、攻略対象に近づくたび、小さく警報を鳴らしている。

2

 給湯室には、正解を握る姿が立っていた。
 いつも通り糊の効いたYシャツと、折り目正しくアイロンの効いたスラックス。少し明るい茶髪を耳にかかるぐらいの長さで整えている、彼はそこにいた。

 瀬戸は少しだけ眠そうに目を細めながら、コーヒーサーバーから落ちる琥珀色の液体を眺めている。

「あ、花渕さん。お疲れ様」
 瀬戸の声は、清子の脳内リスニング試験において、常に満点の周波数を叩き出す。
 清子は、練習通りに口角を三ミリ上げ、完璧な発声で答えた。

「お疲れ様です、瀬戸さん。……あ、そのコーヒー。今日から新しいキリマンジャロの豆が入ったみたいですよ。酸味の強いものがお好きでしたよね?」
 瀬戸は少し驚いた表情を隠しもせず、眉を上げる。
「へえ、詳しいね。それによく覚えてるなあ」
「……ええ。仕事柄、情報の収集と分析は基本ですから」

 ――よし! 加点30点獲得!
 これで累積点数は、合格ラインのB判定まで、あと一息――!

 清子の脳内では、合格発表のファンファーレが微かに鳴り響いていた。

 しかし、瀬戸は小さく笑うと、清子が予期せぬ言葉を返してきた。
「でもね、花渕さん。いま、実は胃が荒れてて。白湯にしようか迷ってたんだよね」

 ――衝撃。
 私の中で、アラートが鳴り響く。

「えっ……い、胃が?」
「ああ。昨日、開発チームの打ち上げでさ、ちょっと飲みすぎちゃって」

【緊急事態発生:想定外のコンディション不良】

 清子の思考回路がフル回転する。

 ――まずい。第8章『体調不良時のケア』の項目を思い出して……。
 ここで「大丈夫ですか?」なんて聞くのは平凡すぎる。
 確か……胃腸に優しいハーブティのティーバッグを持っていたはず――!

「あのッ、これ! カモミールです。胃の粘膜を守る効果があります。差し上げます!」
 清子はポケットから、常に予備として持ち歩いているティーバッグを差し出した。瀬戸は一瞬目を丸くしたが、クスクスと笑いながら、それを素直に受け取った。
「あはは、すごいね! 花渕さんは、まるで四次元ポケットみたいだね。ありがとう、遠慮なくもらっておくよ」
 瀬戸はティーバッグを素直に受け取ると、手をひらひらとさせながら席へと戻っていく。

「……ふぅ〜……っ」
 清子は給湯室の壁に背を預けて、深いため息をついた。
「……いまの対応、加点になるのかしら。それとも、準備が良すぎて引かれるという減点になったり、しないわよね……?」

 恋愛という検定は、法務や金融の試験よりも、遥かに採点基準が不透明だ――。

3

 昼食が終わり、自席に戻った清子は、あるケアレスミスに気づく。
「――ない。ノートがないわ」
 カバンの中、いつもあるべき場所にあるはずの、ノートがない。
 昼食後、午後に向けて予習していたのは覚えている。となると……。

 全身の血の気が引いた。
 まさか。
 食堂か。
 清子は、アスリートのような早さで食堂へと引き返した。

 食堂に駆け込んで、先程まで座っていた席へと向かう。
 席へ近づいたとき、清子の時間は凍りついた。

 瀬戸尚樹が、一冊の革表紙のノートを開いていた。
 彼はひどく熱心に、ときには眉を寄せ、ときには「ほう」と感心したように頷き、最後には声を殺して笑っていた。

 清子の視界が、真っ白に明滅した。

 彼が持つノートの表紙には、自分の筆跡でデカデカと『瀬戸 尚樹・一級攻略検定対策』と書いてある。
 中を開けば、彼の誕生日の星座から割り出した性格診断、SNSの投稿から分析した好みの映画リスト、そして午前の給湯室作戦に至るまでのフローチャートが、びっしりと書き込まれていた。

 それはもはや、「好きバレ」などという可愛いものではない。
 ストーカー予備軍の証拠品として提出されても文句は言えない、狂気的な分析レポートだ。
 清子の背筋を、冷たい汗が一筋、ゆっくりと滑り落ちる。

「あ……あ、あの……」
 清子の震える声に、瀬戸が顔を上げた。

 ――終わった。
 私は社会人として、終わった。

 懲戒解雇されるのだろうか。来月の家賃、どうしよう。
 私は足元がふらつき、重力が反転しているとさえ思えていた。

「せ、瀬戸さん……それは、その、統計学の……個人的な、シミュレーションで……」

 ――私はいったいなにを言っているのだろう。
 なにを言えば良いか分からないくせに、なにかを言わなければいけないという焦燥が、私の背中を押す。

 瀬戸はノートをパタンと閉じると、清子の方へと歩み寄ってきた。
 その足音は、死刑台が近づいてくるような、そんな音に聞こえる。

「花渕さん」
 瀬戸の声は、いつになく真剣だった。仕事中に時折見せる、あの声だ。
「はい。……解雇でも、なんでも受け入れます。だから、訴えないでいただければ……」 
「これ、さっきから読んでみたんだけど」
 瀬戸はノートを差し出しながら続ける。
「……はい」
「致命的なミスがあるよ。解答の導き出し方が、根本的に間違ってる」

 ――?
 怒るわけでもなく、不快感を露わにするわけでもなく、言う彼を、私はぼんやりと見上げている。

「……間違ってる、ですか?」
 清子は、恐る恐る、彼の言葉を反芻するように問い返す。

 瀬戸はノートを広げると清子の前に差し出して、ページを指で指し示しながら続ける。
「例えばここ、設問22。『瀬戸尚輝が、花渕清子を食事に誘わない理由を選べ』。君の分析では、『同僚としての距離感を保ちたいから』になってるけど。これ、不正解」
「……違うんですか?」
「そうだよ。正解は、『誘おうとするたびに、彼女があまりに完璧な防御姿勢を敷いているから、隙が無かった』だね」

 清子は思わず、ぱちぱちと何度か瞬きをしてしまう。
 それから、彼の言葉の意味を理解できないまま、その瞳の奥の真意を見つけようとして、じっと覗き込んだ。
「花渕さん。君は、俺を攻略対象だと思ってたのかもしれないけど。俺からすれば、君は『攻略不可能な鉄壁の城』だったんだよ。なにを話しても正論と完璧な会釈で返されるし、給湯室でよく会うにも関わらず、深い話をしたことなんてなかったし」
「それは……瀬戸さんに、嫌われないように……」
「嫌われるわけないだろ。あんなに俺の好みを研究してくれて、一生懸命ノートまで作って。……正直、めちゃくちゃ面白いし、嬉しいよ」
 その言葉が、清子の胸に温かい光を灯す。まるで長年かけていた仮面の隙間から、初めて柔らかな春の風が入り込んだように。

 瀬戸は、胸ポケットからペンを取り出すと、ノートの余白にサラサラとなにかを書き込んだ。

「はい、今回の一級攻略検定は、『不合格』。だって、正解を持つ俺に、一度も本音をぶつけてこなかったんだから」
 言いながら瀬戸はノートを差し出す。清子はそれを素直に受け取って、ページに視線を落とす。
 そこには『不合格』の文字と、少しだけ右上がりの筆跡で、こう書かれていた。

【試験官コメント:君の分析能力は一級品だ。でも、俺の体温までは計算できていない。】
【追試:実技試験の内容】
 今夜十九時、駅前のイタリアン。予習とノートの持ち込みは禁止。

「追試、どうする? 受験する?」
 清子の頬が、かあっと炎が点いたように熱くなっていく。
 さきほどまでのふらつく足元は、いまは違う意味でさらにふらつきを強めていた。

【設問108:憧れの瀬戸尚樹から、追試に誘われた。あなたの返答は?】

 清子の脳内にはもう、選択肢は表示されなかった。
 記号化された分析も、計算された角度も、すべてが雨上がりの泥のように溶けて消えていく。 

「……はい。受けます! 全力で受けます!」
 清子の言葉に瀬戸は満足そうに微笑むと、清子の肩をポン、と軽く叩いた。
「よし。じゃあ、時間に現地集合。遅刻したら足切りだ」

4

 その日の夜。
 清子は、駅前のイタリアンのガラスに映る自分を見ては、さまざまな角度から自分のコーディネートを見つめていた。
 いつもなら、服装の色彩心理学から信頼と親愛を与えるコーディネートを割り出し、完璧にアイロンのかかったブラウスを選ぶところだ。
 けれど、今日の彼女が選んだのは、少しだけ袖の膨らんだ、お気に入りの柔らかなニットだった。これを選んだ理由は、色々ある。
 ただ、最後は直感で決めた。堅苦しい格好をしたところで、こちらの手の内などすべてお見通しなのだ。今更、堅苦しく築く信頼などとっくに崩壊している。

 今日は、あのノートは持って来なかった。
 代わりに、少しだけ震える指先と、不揃いに波打つ鼓動だけが、私の持ち物だ。

 集合時間の五分前になって店に入ると、瀬戸はすでに席に座っていた。
「あ、来たね。……私服、いいじゃん。そっちの方が俺は好きだな」
「……あ、ありがとうございます。……あ、いまの、対策ノートに書いておかなきゃ……」
「だめだよ、今日はノー勉って約束だろ」
 瀬戸にたしなめられて、清子は「あ、そうでした」と静かに呟く。

 食事が始まると、これまでのシミュレーションとは全く違う方向に話は進んだ。
 瀬戸は意外にも、仕事の話よりも、休日にダラダラと動画を見ている話や、最近買った妙なガジェットの話を、楽しそうに話してくれた。
 それにつられるように、清子も少しずつ本音で話し始める。自分が資格マニアになったのは、自分に自身がなくて鎧を身に着けたかったからという話を、つい口にしていた。

「……瀬戸さんのこと、分析してごめんなさい。私、そうしないと怖くて近づけなかったんです」
「いいよ。その不器用さが、花渕さんの魅力だったんだって、俺も分かったから」
 ワインの酔いが回り、二人の心の距離が少しずつ近づいているような気がした。

 ――少しだけ、分かった気がする。
 人生には、確かに資格が必要な場面もある。
 けれど、誰かと心を通わせるために必要なのは、証明書でも、攻略本でもない。
 分からないということを楽しみ、予定外の展開を面白がれる、剥き出しの自分だけなのだ。

「……その、瀬戸さん。また来週も追試、お願いしてもいいですか?」
「気が早いね。……でも、いいよ。試験に向けて、今夜の復習を忘れないようにね」
「はい……合格点が取れるか、不安です」
「たぶん、大丈夫。俺の採点、花渕さんには甘々だから」
 清子は微笑み、心地よい温度の赤ワインを飲み干した。
 かつて一人で啜った冷めたコーヒーとは違う、喉の奥を熱く焦がすような、生命の味がした。

 資格のない、不揃いな恋。
 その解答用紙にはまだ、なんの答えも書かれていない。
 けれど、二人で書き込んでいく余白は、未来に向かってどこまでも広く、明るく、広がっていた。
 清子は初めて、完璧な模範解答ではなく、自分の不器用な文字で、恋という試験に挑むことを選んだのだ。

 瀬戸が、手を伸ばす。
 それを清子は、おずおずと握り返した。

 花渕清子の『瀬戸 尚樹・一級攻略検定対策』は、永久に終わることのない、楽しい実技試験へと続いていく――。


注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。


最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。

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