黒猫ナディアと星降る街の忘れもの 第三部 第九話:片方の長靴
ガタゴト、ガタゴト。
のぞみが乗ったバスは、十人ほどが乗れる小さなバスでした。
バスの中は少し古くて、シートがきしむ音が響きます。のぞみは窓から外の景色を見ながら、心の中ではドキドキしていました。
バスは、街の北に広がる月詠高原へと向かっていました。のぞみのリュックの中には、大月先生から託された楽譜ケースと、少しの着替え。そして膝の上には、窓の外をじっと見つめるナディアがいます。
ナディアのしっぽが、少し緊張したようにピクピク動いていました。
街を出たときには晴れていた空も、山を登るにつれて厚い雲に覆われ始めました。バスを降りる頃には、大粒の雨が地面をたたき、あたりは真っ白な霧(きり)に包まれていました。
雨はバスの屋根を激しく叩き、窓ガラスを伝う水滴が、外の景色をぼやけさせています。
「……すごい雨。ナディア、あそこの東屋(あずまや)で雨宿りしよう」
バスを降りてから、のぞみはナディアを抱きかかえ、バス停の近くにある古い木造の休憩所へと駆け込みました。
東屋の木の屋根は古くて、雨粒がポタポタと落ちてきますが、外よりは少しだけ暖かいところです。
屋根をたたく激しい雨音。その音に混じって、足元から重くて冷たい泣き声が聞こえてきました。
ベチャ、ベチャ……。
ベンチの下には、泥にまみれた片方だけの黄色い長靴が転がっていました。黄色いゴムは色あせて、底には小さな穴が開いていて、雨水が溜まっています。
『「僕は、あの人の足を守れなかった。嵐(あらし)の夜、あの人の足元から離れてしまったんだ」……そう言って、この子は自分を責めていますわ』
ナディアがその長靴に触れた瞬間、彼女の身体がビクンとふるえました。
激しい雨音、雷鳴。
視界をさえぎるほどの激しい嵐(あらし)。
雷の光が一瞬山を照らし、木々が恐ろしく揺れる様子が、ナディアの目に浮かびました。
ナディアの脳裏に、あの日――三皷奏と離ればなれになった夜の記憶が、濁流のように流れ込んできました。
『――そうだわ。わたくしはあの夜、奏さんと一緒にこの高原に来ていたのですわ』
その日、奏は新しい曲のインスピレーションを得るために、ナディアを連れてこの月詠高原を訪れていました。二人で山道を歩きながら、奏はナディアを抱いて「この静かな場所で、君と一緒に最高の曲を作ろう」って言っていたのに、山の天気は突然急変し、恐ろしい嵐(あらし)が二人を襲いました。
奏はナディアをふところに入れて守ろうとしましたが、近くで落ちた雷の音に驚いたナディアは、彼の腕をすり抜けて、暗い森の中に飛び出してしまったのです。
『奏さん! 奏さん!』
しばらくして我に返ったナディアは必死に呼びかけましたが、嵐(あらし)の声にかき消されてしまい、そのまま二人は離ればなれになってしまいました。
ナディアはその後、何日も高原をさまよい、ようやく街までたどり着いたものの、その過酷なショックな体験のせいで、自分の名前も、奏の顔も、すべて忘れてしまったのでした。
「――ナディア? どうしたの、ふるえて……」
のぞみが心配そうに覗き込むと、ナディアはオレンジ色の瞳から一粒の涙をこぼしました。その涙は、ナディアの黒い毛を伝って、ポタリと落ちます。
『のぞみちゃん……思い出しましたわ。わたくし、あの日、奏さんを置いて逃げてしまったのです。……奏さんはきっと、いまでもわたくしを探して、この雨の中を歩いているに違いありませんわ』
ナディアの悲しみと共鳴するように、黄色い長靴もまた寂しげに「ベチャ……」と鳴りました。この長靴もまた、嵐(あらし)の夜に誰かが失くしたものだったのかもしれません。
のぞみは、泥だらけの長靴を拾い上げると、ハンカチで優しく拭きました。
泥が落ちるたび、長靴の黄色が少しずつ鮮やかになって、まるで元気を取り戻すように見えました。
「大丈夫だよ。ナディアも、この長靴さんも、悪くない。……だって、いまこうして、もう一度会うために戻ってきたんだもん」
のぞみは、楽譜ケースの中から銀色の鈴を取り出しました。
「奏さんはきっと、この鈴の音を待ってる。嵐(あらし)に負けないで、ナディア。私が一緒にいるよ」
のぞみが鈴を振ると、チリン、チリンと、雨音を切り裂くような澄んだ音が響きました。
鈴の音が東屋に反響して、雨の音を少しずつ優しく包み込むようでした。
すると、あんなに激しかった雨が、ふしぎと小降りになっていきます。雲の切れ間から、月詠高原の名前の通り、ぼんやりと青白い月が顔を出し、霧(きり)の向こうに一軒の古い山荘を照らし出しました。
霧(きり)が少しずつ晴れて、山道が月光で銀色に光りました。
『……あそこですわ、のぞみちゃん。あそこにきっと、奏さんがいます!』
ナディアは力強く立ち上がりました。
あの日、恐怖で逃げ出した一匹の猫は、のぞみというパートナーを得て、自分の過去と向き合う強さを手に入れていました。
二人は、月明かりに照らされて濡れた道を、山荘に向かって走り出しました。
のぞみの靴が水たまりを跳ね上げ、ナディアの毛並みが月光に輝きます。
のぞみは、カバンの中の原稿用紙に書く新しい一節を思いついています。
『本当の勇気は、忘れたい過去の中に、大切なものを見つけに行く力のことです』
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
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